2019年02月12日12時57分掲載  無料記事
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国際

なぜ「ロームシャ」がインドネシア語に? 「徴用工」だけでない帝国日本の労働動員 永井浩

 日本政府が韓国の元徴用工や元慰安婦に対する謝罪と補償を拒みつづけるのは、不思議ではない。それを理解するために、インドネシア語として定着している「ロームシャ」が参考になるだろう。これに、泰緬鉄道の建設にアジア各地から徴発された労働者たちを加えてもよい。すべてに共通しているのは、日本がいまだに自らの戦争責任を果たそうとしていないことであり、安倍首相がいう「戦後日本外交の総決算」(1月28日の施政方針演説)とはこの負の遺産には目をつむろうとするものである。 
 
▽映画『ロームシャ』の上映禁止騒ぎ 
 「ロームシャ」は日本語の労務者が起源だが、なぜそれがいまやインドネシア語にもなり、インドネシア語の辞書に記載されているほど定着しているのか。 
 
 大東亜戦争の開始とともに、日本軍はオランダ領インド(蘭印、現・インドネシア)に侵攻した。主たる目的は、連合国軍との近代戦に不可欠な石油資源を確保することにあった。ジャワの蘭印軍を降伏させた日本軍は、戦力の強化をめざして、多くのインドネシア人を防衛工事や飛行場、道路、鉄道などの建設にロームシャ(労務者)としてほぼ強制的に従事させた。劣悪な環境によって多くの犠牲者が出た。ロームシャ以外に、男性は日本軍の補助兵力(兵補)、女性は日本軍の慰安婦とさせられた。 
 
 戦後、「3年半の日本の支配は、オランダの350年間の支配より過酷だった」というのが、インドネシア人の共通の対日歴史認識となった。日本との賠償交渉で、インドネシア側は戦争で400万人の人命(とくにロームシャ)を失ったと訴えたが、日本側は「日本はインドネシアと戦争をしたわけではない」と言って賠償支払いそのものに根本的な疑問を呈した。1958年に2億2300万ドルの賠償協定が締結されて両国間の国交が樹立されたものの、この国家賠償にはロームシャ、兵補、慰安婦として徴発された人びとへの手当ては何もなされていなかった。 
 
 しかしインドネシア国民の間には、ロームシャという日本語は日本軍の占領下の残酷な体験を象徴するものとしてそのまま残った。1973年にはその時代を題材にした劇映画『ロームシャ』が製作された。 
 
 ところが、この映画は一般公開直前になって突然、政府から上映禁止とされた。倉沢愛子の『戦後日本=インドネシア関係史』によれば、日本大使館がこの映画に抗議してきたため、インドネシア政府が「国益のために上映禁止」(マスフリ情報大臣)を決定したのである。治安秩序回復作戦本部のスミトロ将軍は、「歴史や英雄のことを描いた映画はよいものだ。しかしその時代の空気に合うかどうかも重要だ」と述べた。 
 
 「時代の空気」とは、スハルト政権と日本との親密な関係である。日本は賠償をテコにインドネシアへの経済進出を加速させ、一方経済開発を最優先目標に掲げる同政権は、日本から多額の経済援助(ODA)を受け入れるとともに日本企業の活動を歓迎していた。このためインドネシア政府は、経済大国のご機嫌を損ねないようにとの配慮から、日本の古傷にふれるような映画を懸念する日本大使館の抗議に政治的な判断を下したようだ。 
 
 また日本側がこの映画に神経をとがらせた背景には、前年の1972年からタイで激化していた反日デモがあったようだ。タイの学生、市民らは、日本企業の急激な進出と戦時下の旧日本軍の蛮行をかさねあわせ、日本と結託して私腹を肥やしながら自国民を苦しめる軍事独裁政権の打倒に立ち上がっていた。こうした動きが、映画『ロームシャ』の上映をきっかけにインドネシアに波及するのを日本大使館は懸念したのだろう。 
 
 だが、インドネシアと日本の政府間の「国益」優先にインドネシア国民は納得しなかった。メディアには対日批判の論調があいついだ。 
・ナチスの残虐性を描いたからといってドイツ政府がアメリカに抗議したことはあるか。 
・日本ももっと大人になって、歴史から学ぼうという姿勢を持てば、自ずとこの映画は日本の若い世代にとっても役に立つことが分かるだろう。 
・もし日本が抗議したのだとすれば、日本は「戦場にかける橋」や「トラ・トラ・トラ!」に対してどうして抗議しなかったのだろうか。(日本は)いまだにファシズムの精神を持っている。こういう物語で気分を悪くするのは日本だけだ。 
 
 『ロームシャ』の上映中止の翌年1974年にインドネシアを訪問した田中角栄首相は、激しい反日デモの歓迎を受け、デモはスハルト大統領との会談のさなかに暴動へと発展したが、その背景には同政権と日本企業の癒着・腐敗に対する国民の怒りとともに、遠因のひとつに映画上映禁止があったと言われている。 
 
 上映禁止問題がかえって火に油を注ぐような結果になってしまったことについて、倉沢は先の著書でこう述べている。「『隠蔽』によってイメージを悪化させるよりも、歴史を正面から見据えようとする姿勢をもてなかった日本外交の弱さが現れている」 
 
 この指摘は、韓国の元徴用工と元慰安婦に対する現在の日本政府の姿勢と基本的には変わりないのではないだろうか。 
 
▽『日本軍に棄てられた少女たち』の発禁にも日本が関与 
 日本軍による戦争の傷あとを日本政府が隠蔽しようとする動きは、その後もインドネシアで繰り返された。慰安婦について同国のノーベル文学賞候補作家プラムディア・アナンタ・トゥールが調査した著作『日本軍に棄てられた少女たち』が1993年に発禁となったが、ここにも日本政府がかかわっていたのである。 
 
 プラムディアは、1969年にスハルト政権によって政治犯として首都ジャカルタのあるジャワ島から140キロキロ離れたブル島に流刑となり、そこで貧しいジャワ島出身の中年女性たちに出会う。はじめは彼女たちが何者なのか分からなかったが、仲間の政治犯たちと調べていくうちに、日本の軍政下で慰安婦として連れ去られた女性たちであることが判明する。軍政本部は、インドネシアの10代半ば前後の少女たちを、東京やシンガポールで助産婦や看護婦の教育を受ける機会を与えるといって多数徴集した。彼女たちは輸送船に乗せられたが船は目的地には向かわず、各地にある日本軍の「慰安所」に「性の奴隷」として捨て去られた。ブル島の女性たちも、その生き残りだった。プラムディアたちが彼女たちからの聞き書きをまとめたのが、同書だった。 
 
 オランダからのインドネシアの独立運動を数々の小説で描いてきた国民的大作家は、元慰安婦たちに優しい眼差しと向けながら彼女たちのこころの襞に分け入り、歴史の闇に埋もれていた戦争の真実を掘り起こした。日本軍は、ブル島に棄てられた少女たちに対するような甘言による手口だけでなく、各地で女性を強姦し慰安所に送り込んだ事実も明らかにされている。元慰安婦たちが戦後、日本政府からもインドネシア政府からもなんの補償も受けられないまま過酷な人生を送ってきたことに、プラムディアは強い怒りと自責の念を記している。苦界に引きずり込まれた女性の数が何百人、何千人に上るのかも不明なままだ。 
 
 このプラムディアの労作の発禁に日本政府がかかわっていた事実は、スハルト政権崩壊後の2013年に朝日新聞で報じられた。10月14日の同紙によると、彼の調査結果を知った日本大使館が、このような資料が発刊されれば両国関係に影響が出るとの「懸念」をスハルト政権に伝えた。これに対してインドネシア側は、「従軍慰安婦問題がきっかけになり良好な両国関係が損なわれることのないよう注意して取り扱う」と応じ、著作の発禁を示唆した。 
 
 同紙は、慰安婦問題が日韓間で政治問題になり始めた1992〜93年、日本政府が他国への拡大を防ぐため、韓国で実施した聞き取り調査をインドネシア、フィリピン、マレーシアでは回避したことも報じた。記事は、朝日が情報公開で入手した外交文書や政府関係者への取材にもとづいて書かれたもので、インドネシア政府が日本政府の調査について不十分であるとの非難声明を出したことが明らかにされている。声明には「強制売春」「女性たちの尊厳は日本政府が何をしても癒されない」などの言葉が記されているが、「本件を大きくすることを意図しない」と結ばれている。声明を書いた当時のインドネシア外務省政務総局長ウィルヨノ・サストロハンドヨは「本当はもっときつい声明を書きたかったが、大統領に従わなければならなかった。つらかった」と朝日の記者に述懐している。 
 
『日本軍に棄てられた少女たち』が出版されたのは、スハルト政権が民主化を求める学生、市民らによって打倒されてから3年後の2001年になってからだった。 
 
▽泰緬鉄道の「"女人疥鷦屐廖
 ロームシャの一部は海外にまで連行された。行き先は、日本軍が1942年から建設をはじめたタイ(泰)とビルマ(緬甸、現ミャンマー)を結ぶ泰緬鉄道である。 
 
 全長415kmの軍用鉄路の建設現場では、多くの連合軍捕虜(英・豪・米・蘭)とアジア各地(ビルマ・タイ・マラヤ・ジャワ)から連行された労務者が酷使され、命を落とした。捕虜6万1800人のうち1万2400人が死亡したことは確認されているが、アジア人労務者は22万人のうち3人ないし2人に1人が死亡したと推定されるが正確な数はいまだに不明である。枕木1本に1人の犠牲者が眠るといわれる鉄路は、別名「死の鉄道」と呼ばれた。 
 
 完成した鉄道によって多くの日本兵がビルマ戦線に送り込まれただけではない。吉川利治の『泰緬鉄道』に、元日本兵のつぎのような回想記が記されている。 
 
 「(一九四四年の)五月に入ると、インパール作戦のためか、兵員と軍需品の輸送が活発となり、昼間は空襲の危険が大きいので、もっぱら夜間運行に主力が置かれるようになった。そうした中に異色列車があった。‶女人疥鷦屬任△襦四、五両の貨車に日本女性、他は中国人や朝鮮人の女性。表向きはビルマ戦線への慰問団とされていたが、実態は特殊サービス部隊だったらしい。久しぶりにわれわれも日本女性と話す機会に恵まれたが、出身地は全国にまたがっていた。果たしてこれらの女性の何パーセントが祖国に帰りつくことができただろうか」 
 
 戦後のB級C級戦犯裁判で、泰緬鉄道建設にかかわった日本軍関係者120人が非人道的行為を問われて起訴され、36人が死刑となった。しかし、アジア人労務者への補償はなされず、インドネシアからのロームシャのほとんどは鉄道の起点となったタイに置き去りにされたようだ。彼らは貧しい生活を強いられたため祖国にもどることができず、望郷の念をいだきながら異郷で人生を終えた。 
 
▽「徴用工」は戦後日本のアジア外交を見直す好機 
 このように、「ロームシャ」という日本語起源の外来語のインドネシア語は、同国における日本軍の蛮行と戦争犯罪と分ちがたく結びついているだけでなく、韓国の徴用工や同国をはじめとするアジア各地の慰安婦、さらにタイとミャンマーにまたがる軍用鉄道の犠牲者たちと同じ出自を刻印されていることがわかる。日本軍国主義という木の根っこから各地に派生した悲劇は、地下茎のように国境を超えてつながりあっているのである。だが日本政府は戦後一貫して、そのような負の連鎖が地表に現れないように分断工作につとめてきた。 
 
 インドネシアでは、経済援助というカネの力によって独裁政権の指導者をつうじて国民の日本批判を封じ込めさせ、韓国でも軍事独裁政権がつづいていた時代にはおなじ手口を使った。泰緬鉄道建設のアジア人労務者に対しては、それが表面化しなければ無視を通した。だが韓国で民主化が進み、さらに人権尊重が国際社会における普遍的な価値観として定着するにつれて、大日本帝国の戦争の犠牲にされた人びとへの責任と贖罪を明確にするように求める同国民の声が高まってくると、日本政府はうろたえ、説得力にとぼしい古証文を盾に居丈高な姿勢に転じる。 
 
 このような歴史的文脈でみれば、私たち日本人は、日韓関係を現在ぎくしゃくさせている元徴用工と元慰安婦の問題を、この二国間にかかわるだけでなく、日本が無謀な戦争によって犠牲を強いたアジアのすべての国の人びとに通底する課題として受け止めなければならないはずである。 
 
 現在のインドネシアでは、韓国のように日本が歴史の真実に正しく向かい合うことをもとめる動きは表面化していない。だからといって、東南アジア最大の国の国民が日本占領下の過酷な統治の歴史を忘れているわけではないことは言うまでもない。教科書にはこの時代のことがくわしく記されているし、首都ジャカルタ中心部の大統領官邸前にある独立記念塔の地下に展示されているジオラマには、オランダによる植民地時代以来の民族闘争の歴史のひとこまとして「ロームシャ」が登場する。肉体労働に従事するやせ細ったインドネシアの労働者に向かって、日本軍兵士が刀剣を振りかざしている光景だ。日本で2001年に製作された劇映画『ムルデカ・17805』は、日本がインドネシアの独立に貢献したかのような自由主義史観にもとづくもので、日本では上映されたが、インドネシア国内では上映禁止となった。そのような解釈は歴史の歪曲だからである。 
 
 泰緬鉄道の話は、1957年に公開された英・米合作映画『戦場にかける橋』がアカデミー賞作品賞を受賞したこともあり世界的にヒットし、日本でも知られるようになったが、この作品は連合軍捕虜に対する日本軍将兵の非人道的仕打ちが主たるテーマになっていて、アジア人労務者への虐待にはふれていない。だから日本では、その同じ鉄道建設で酷使されぼろ布のように捨て去られていったおびただしい数のロームシャについてはほとんど知られないままになっている。 
 
 だが私たち日本人が知らなくても、映画の舞台となったクワイ川鉄橋は、この映画で有名になったこともあり、日本軍の非人道的行為を記憶する戦争遺産として、世界各地から観光客が訪れる名所となっている。クワイ川近くのタイ・カンチャナブリ県の連合軍共同墓地に隣接する「JEATH戦争博物館」の碑には、つぎのような文字が刻まれている。 
“Forgive but not Forget”(許そう、しかし忘れまい) 
 
 JEATHとは、この鉄道建設に従事した日本人(Japanese)、イギリス人(English)、オーストラリア人(Australian)、アメリカ人(American)、タイ人(Thai)、オランダ人(Holland)の頭文字をとったものであり、最大の労力と犠牲を払わされたアジア各地の労務者の墓地はどこにも見当たらない。いまでもときおり出土する彼らの身元不明の遺骨は、タイの寺院がひきとり霊を弔っている。 
 
 安倍首相は、平成最後と称する施政方針演説の最後に、「戦後日本外交の総決算」によって「次の時代への道しるべ」を示すと述べた。道しるべとは、持論の憲法改正のことである。「私たちの子や孫の世代のために、日本をどのような国にしていくのか。大きな歴史の転換点にあって、この国の未来をしっかりと示していく」ために、国会の憲法審議会で各党の議論が深められることを期待するとしている。だが、総決算の課題として羅列された項目に、未解決のままの日本の戦後責任にいかに向かい合うのかはひと言も触れられていない。その道義的責任をアジアをはじめとする世界の人びとの理解を得られる形ではっきり示し、実行に移すことこそが私たちの子や孫の世代への道しるべとなり、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」(日本国憲法前文)日本国民の歴史的責務であるとの認識はない。 
 
 新聞は施政方針演説の全文を掲載するだけで、この点を指摘する記事や論評は皆無である。そして主要メディアには、徴用工や慰安婦、さらにレーダー照射問題をめぐる「日韓関係の緊張」、「『負の連鎖』の深刻化」、「韓国の対日強硬」「反日」などの言葉だけが連日のように躍る。 
 
 韓国の元慰安婦で平和運動家だった金福童(キム・ボクトン)さんの「市民葬」が、なぜソウルの日本大使館近くで行われ、一千人以上の市民が参加したのか。それはけっして「反日」のためではあるまい。彼女の遺影の前にひざまずいて「歴史を正すことを忘れません」と誓った文在寅(ムン・ジェイン)大統領のどこが「対日強硬」なのか。日本政府の「心からの謝罪」を受けられないまま、92歳で先月亡くなった元慰安婦の「象徴的存在」の生涯は、インドネシアのブル島でプラムディアが出会った「日本軍に棄てられた少女たち」、泰緬鉄道で戦火のビルマに輸送されていった日本、朝鮮、中国の「女人」たちと同じである。裁判をつうじて日本企業の謝罪と補償を求める元徴用工たちの背後には、彼らが意識しているかどうかは別にして、インドネシアや泰緬鉄道のロームシャたちの同じような声が響き合っていることに私たち日本人は気づかねばならないだろう。 
 
 なぜ私たちはそのような声に真摯に耳を傾けなければならないのか。それは、人間社会が長年かけて築き上げてきた「人権」という普遍的価値を共有することをつうじて、加害者と被害者の真の「和解」をめざさなければならないからである。それが成し遂げられたときに、日本社会と私たち一人ひとりが変革され、「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という願いに一歩近づく道がひらけるにちがいない。そしてそのためには、国民一人ひとりが声をあげ、戦争責任をまともに果たそうとせず口先だけの「過去の直視と未来志向」を繰り返すだけの日本政府の姿勢を根本的に変えさせていく必要があるだろう。 
 
 韓国の元徴用工と元慰安婦の問題は、戦後日本のアジア外交を見直す歴史的好機となるはずであり、いま、その好機をいかす努力が政府やメディアのみならずすべての国民に求められている。 
 
<参考文献> 
倉沢愛子『戦後日本=インドネシア関係史』草思社、2011年 
プラムディア・アナンタ・トゥウール(山田道隆訳)『日本軍に棄てられた少女たち』コモンズ、2004年 
吉川利治『泰緬鉄道──機密文書が明かすアジア太平洋戦争』同文館、1994年 


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