2019年02月17日21時46分掲載  無料記事
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社会

私の昭和秘史(4) 『特攻隊攻撃による戦略』と学徒出陣による悲劇的作戦の展開  織田狂介

 陸海軍を統括する大日本帝国大本営(参謀本部)の首脳たちは、すでに昭和18〜9年の段階で、はっきりと「日本軍の敗戦」が、もはや動かしがたい“事実”として認識していた。にもかかわらず、この敗色を一挙にハネのけて、なんとか太平洋上での優位を確保し、戦勢を挽回しようと躍起になって、その突破口となるべき秘策を確立しようとしていた。その初陣をうけたまっわったのは、主として昭和18〜9年の「学徒出陣」によって動員された大学、高等専門学校、旧制高校の学生たちであった。その第一陣が海軍予備学生と呼ばれた若者たちによる『神風特別攻撃隊』である。ときに昭和19年12月21日のことであった。これらの“必殺体当り作戦”は、まず米軍の猛攻が加えられて危急存亡の状況にあった比島のレイテ湾にウンカ(クモや蚊の如く)のように押し寄せていた敵艦隊、上陸用舟艇への攻撃に投入された。 
 
 この作戦は、翌20年1月下旬まで続行され延べ51回、計436機のいわゆる“ゼロ戦”と呼ばれた海軍航空隊の戦闘機が主力として“必殺”の体当たりを敢行したが、圧倒的な物量と戦力を投入していた米軍には、決定的な打撃を与えることが不可能で、ほとんどが“犬死”(いぬじに)という結果に終わっている。然し、このときでさえも大本営報道部の発表は、その事実をひた隠しにして、いずれも「かくたる大戦果」を強調していた。 
 
 私はいまでも、この脳裡には、あの昭和18年10月21日、冷たい氷雨のような霧雨の降りしきるなかで行われた「学校出陣壮行式」の光景が焼きついていて離れない。この東京代々木の明治神宮外苑・陸上競技場で行われた出陣式には、私の従兄たちや私の陸軍幼年学校受験当時に世話になった横浜高等工業高専(=現在の横浜国大)の知人なども応召されたことから、これを見送った。その学生たちは全国からざつと十余万人。このうちの約3千余人が、いわゆる「特攻隊の主力」となる第14期海軍飛行予備学生となり、そして395人の若者たちが特攻出撃に参加して自爆していった。 
 当時の関係者たちの証言によると、この第14期海軍飛行予備学生たちが、この大平洋上における「特攻作戦」に投入されたのは、昭和20年3月、南西諸島(沖縄方面)の最後の防衛作戦は開始されてからのことであったが、彼らは飛行時間わずかに百時間あるかなしか(通常、戦闘に参加でき得る熟練の飛行時間は、最低でも3〜5百時間が必要とされた)という、未熟な訓練を受け受けただけで、九州南部の鹿屋、国分、串良の各基地から続々として「死への自爆行」へと飛び立っていった。この状況は、まさしく私の飛行兵志願に猛然な反応をしていた従兄の言うとおり、「犬死に等しい自殺行為」そのものであったことを物語っている。 
 
 このようにして、大日本帝国陸軍の終焉を告げる、あの沖縄方面における「特攻作戦」は、8月15日の敗戦へ日本の連合国から突きつけられた『ポツダム宣言』受諾の日まで続けられ、約千八百機にのぼる陸海軍の特攻機が海底の藻屑となって消えていき、さらには、この特攻機を模して緊急生産されたロケット推進式小型特攻機「桜花」(敵機に体当たりするだけの片道燃料だけの兵器)や、同じような「自殺用舟艇}(人間魚雷)などといった悲惨な兵器による特攻作戦も展開されたが、もちろん、なんの効果を挙げるどころか、ことごとく敵の集中砲火のために粉砕され、「起死回生のための本土防衛」にも、なんの益することなく終結し、帝国陸海軍はその生命を燃やし尽くすことになる。 
 
  ところで、戦後60年近くなって明らかにされた『機密戦争日誌』(軍事史学会編・大本営陸軍部・戦争指導班の作成)によると、日本の軍部は、すでに“サイパン島敗戦”時点で、この太平洋戦争の遂行(勝利)は、全く絶望的であるとの見解をまとめていた。だとすると、その後の昭和19年、20年にかけての“特攻出撃”とは、一体なんだっであったのか・・ 
 
 平成10年になって、昭和15年6月から20年8月の敗戦までの約5年間にわたり、変転した戦局(日中戦争から太平洋戦争)に対応して、大日本帝国の「天皇と政府、陸海軍首脳による指導部が、何を考え、何を実行しようとしていたのか」を克明に綴った資料『機密戦争日誌 全2巻』(軍事史学会編 錦正社刊)が刊行されて注目を集めた。これは当時の大本営戦争指導班(陸軍の参謀将校たちのグループ)の班員たちが、日常の業務をリレー式に書き綴った日誌であるが、それだけに全くの主観を交えないノンフィクション風の日記であり、いってみれば半世紀を経て始めて世に明らかにされた待望の第1級資料だということができる。そこで、この『機密戦争日誌』をつぶさに読んでその意味するところを解明した立花隆氏(ノンフィクション作家)が『週刊文春』の「私の読書日記」に発表した、その概略を再録しながら、若干の私見を申し述べておきたいと思う。この事実こそは、ある意味で大日本帝国時代のどうしようもない「歴史的汚点」にメスを加えるものであり、とくに「無駄な自殺行であった特攻出撃」への大きな疑問点を解明する端緒とさえ得る可能性を秘めているからである。 
 
―某月某日(平成10年) 
 軍事史学会編・大日本陸海軍部戦争指導班の手による『機密戦争日誌』が刊行された。戦争指導部は、陸軍参謀本部の次長直轄の組織(第20班)で、昭和15年(1940年)10月から同20年(1945年)4月まで存続した。参謀本部の作戦課などとはちがって、戦場での戦闘の展開などには、いっさいかかわらず、もっぱら長期的、総合的な観点からの戦争指導、国防国策の企画、立案にたずさわった。大本営政府連絡会議、最高戦争指導会議など、軍政両面にまたがる国家の最高方針決定機関に提出される陸海軍部案の作成と取りまとめには、この指導班が当たった。このため陸軍省、海軍省、陸軍参謀本部、海軍軍令部、外務省上層部と常に折衝しながら、最新の軍事情報、政治外交情報、経済情報をもとに国策を練っていた。だから、ここの「業務日誌」には、あの太平洋戦争時代に、日本の軍政両面の本当のトップエリートたちが、どういう情報をもとに何を考え、どう分析しながらあの戦争を指導していたかが、いちばんよくあらわれている。 
 これこそ、あの戦争に関する日本の最高の機密資料であったが、他の機密書類とともに 
終戦直前に都内の市ヶ谷台の参謀本部で焼却されたとされ、東京国際軍事裁判でも、そのように証言されていた。然し、実際には、焼却前にこの機密日誌だけは、一人の陸軍参謀の手によって密かに持ち出され、自宅近くの地下にドラム缶に詰めて保管されていた。それが転々として現在は防衛庁戦史室におさめられているというわけである。(中略)今回はじめて、軍事史学会の働きかけで関係者の合意が得られ、その全文が公開、刊行されたということになる。 
 読んでみると、なるほどこれが超一流の資料だということが、すぐにわかる。思わず、「ええっ」と驚いたり、「やっぱりそうだったのか」と納得させられたりするところが少なくない。(略)この日誌によると、敗戦が決定的になったことを軍部が認めたのは、昭和19年6月の「サイパン島陥落」となったころであり、これによって日本の絶対国防圏は崩壊し、日本全土の米軍B29爆撃機による爆撃圏内に入った。 
 
 昭和19年6月24日の項目には、次のような記述が明確に記載されている。―「帝国ハ『サイパン島』ヲ放棄スルコトトナレリ来月(7月)上旬中ニハ『サイパン』守備隊ハ玉砕スへシ、最早希望アル戦争指導ハ遂行シ得ス 残ルハ1億玉砕(全国民が死を決して戦う)ニ依ル敵ノ戦意放棄ヲ候ツアルノミ」敗戦はすでに明らかだった。戦争指導班は、この時点ですでに敗戦を前提とする、その後の国策を練っていた。 
 ―7月1日 「班長以下、昭和20年春ゴロヲ目途トスル第一案を研究ス 判決トシテハ今後帝国ハ作戦的ニ大勢挽回ノ目途ナク、而モ独(ドイツ)ノ様相モ概ネ帝国ト同シク今後遂次「ジリ貧」ニ陥入ルヘキヲ以テ速カニ戦争終末ヲ企図スルトノ結論ニ意見一致セリ 即チ帝国トシテ甚タ困難ナカヲ政略攻勢ニ依リ戦争ノ決ヲ求メルサルヲ得ス 此ノ際ノ条件ハ唯、国体護持アルノミ(註:つまり昭和天皇の生命保全と、その手による政権の維持=中略)斯カル帝国ノ企図不能不成功ニ終リタルハ 最早一億玉砕アルノミ・・・」 
(以下略) 
 
 立花隆氏の日記形式による、この『機密戦争日誌』への解説をこの内容についての批判については以上で終わっているのだが、立花氏は“言外”に多くの「言いたいこと」を示唆していることに気づく。どう考えてみたって、陸軍参謀本部のエリート官僚たちが、終戦の1年以上も前の段階で、ここまで今後の戦況の推移を見通し、「もはやこれまで命運である」ことをはっきりと判断していたという事実は、いったいどういうことなのかということである。 
 この後に引き続いて展開されたフリッピン、沖縄の防衛作戦と、その死闘や、あるいは日本本土各都市への大空襲、さらには、あの“ヒロシマ”“ナガサキ”での原子爆弾投下による大惨事は、いったいなんのための「犠牲」だったのかということである。そして、私たちが何よりも痛慨して、なおおさまらぬ問題は、こうした太平洋戦争での戦局が「私たち一般国民とは、まったくかかわりのない状況の中で、勝手に動かされてきたというにもかかわらず」―戦争の終結のために政府、軍部指導部たちが、最後まで“腐心”したことは―「国体維持のためだけ」のものであり、「それが連合国側に認められなかったら、一億国民は玉砕して全員死ぬことを覚悟すればよい」と指摘している事実についてである。これは驚きであるというより、もはや言葉の継ぎ穂をすら私に探すことができない。 
 
 このことは、また別な重要な記録資料によれば、昭和20年2月、このころ重臣の一人である近衛文麿元首相が、昭和天皇の後下問に答えて、意見を奏上をしたさいにも、この陸軍参謀本部の戦争指導班と同じように「英米の興論は、今日までのところ国体の変革までは進み居らず、国体護持の建前より、彼らが最も憂ひているべきところは、日本の敗戦に伴ふて起るべき共産革命に御座候・・」と強調し、国体維持はもとより望むところだが、いまのところは寧ろ「日本の共産主義革命化」のほうに関心が向いておる、この辺のことろをうまく攻略的に動かすことができればなんとか、日本の「国体維持」も「立憲君主国としての天皇制の政権維持」も可能であるとし、このために全力を挙げるべきだと申し述べているという事実である。つまり、政府当局はもとより天皇制の庇護の下に生き延びてきた、いわゆる重臣ら首脳部のダレ一人「国民を戦禍から救ひ、これ以上の犠牲者を出すことを止めるべきだ」という意見が、皆無にひとしかった。この不幸を私たちは、少しも知らされていなかった。 
 
≪プロフィール> 
織田狂介 本名:小野田修二 1928−2000 
『萬朝報』記者から、『政界ジープ』記者を経て『月刊ペン』編集長。フリージャーナリストとして、ロッキード事件をスクープ。著書に、「無法の判決 ドキュメント小説 実録・駿河銀行事件」(親和協会事業部)・「銀行の陰謀」(日新報道)・「商社の陰謀」(日新報道)・「ドキュメント総会屋」(大陸書房)・「広告王国」(大陸書房)などがある。 


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