2019年02月26日09時27分掲載  無料記事
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反戦・平和

「宮澤・レーン事件を忘れない!」 スパイ冤罪事件が教える安倍政権の戦時体制強化の怖さ 福島清

 78年前の1941年12月8日、スパイ冤罪事件で特高に検挙され、暗黒裁判で懲役15年とされた北大生・宮澤弘幸は網走刑務所に収監された。戦後に釈放されたが1947年2月22日、27歳で事実上獄死した。その命日の2月22日午後、新宿・常圓寺で、顕彰追悼墓参と「宮澤・レーン事件を考える集い」が開かれ、北大OBを中心に約60人が参加した。特定秘密保護法を成立させ、国民を再び戦争への道へ引きずり込もうとする安倍政権の暴走が続く中、宮澤の墓前で国家権力による弾圧・犯罪を許さぬ思いを新たにした。集いでは、荻野富士夫・小樽商大名誉教授が「よみがえる戦時体制―大学と教育をめぐって」と題して講演した。いまだに多くの国民に知られていないこの事件の概要を紹介し、その現在的意味を考えてみたい。 
 
▽「宮澤・レーン・スパイ冤罪事件」の真相 
 太平洋戦争開戦の1941年12月8日朝、内務省は全国の特高を総動員し「開戦時に於ける外諜容疑者一斉検挙」の名のもとに、かねて内偵していた対象者111人を検挙した。後日15人を加えて126人となった。北海道帝国大学では、同日に工学部学生・宮澤弘幸(懲役15年)、北大予科英語講師・ハロルド・レーン(同15年)、同ポーリン・レーン(同12年)、工学部助手・渡邊勝平(同2年)、レーン家女中・石上シげ(嫌疑なし釈放)が、同月27日に会社員・丸山護(同2年)、北大農学部卒・黒岩喜久雄(同2年、執行猶予5年)の7人が検挙された(カッコ内は確定判決)。この「宮澤・レーン・スパイ冤罪事件」について、真相を広め、国家権力犯罪を糺す運動が継続している。 
 
○事件の概要 
 宮澤弘幸がスパイとされた行動とは、「)迷膤慇顕櫃△辰擦鵑硫撞労働実習で行った旧樺太大泊町の海軍工事現場で聴取・目撃したこと⊂緝濆瓩粒し拡行場の工事現場で聴取したことE台船に便乗・巡航した樺太・千島列島で聴取・目撃したこと(帰路の列車中で乗客から根室の海軍飛行場を聞いたこと)こし碍鎧思想普及講習会(樺太)に参加した折に見学・知得したことノΨ海竜ヽ2酬盈講習会(千葉)に参加した折に聴講・知得したことΦ賈支方面を旅行した折に目撃知得したこと」をレーン夫妻に漏泄したことが軍機保護法違反とされた。 
 
 判決では、聴取、目撃、知得などと表記されているが、普通の言葉でいえば「見聞」であり、その多くは「北大新聞」等に本人によって寄稿されている。つまり旅行等の事実に、特高が軍関係の情報をまぜて捏造したのだ。根室飛行場は、1933年発行の「根室要覧」に描かれて公表され、1934年には海軍大湊要港部が米軍海軍武官の見学を許可していたのである。 
 
○暗黒裁判(宮澤弘幸の件) 
 1942年12月16日、札幌地裁(公判は非公開)は懲役15年の判決を下した。弁護団は「罪トナラザル事実ヲ有罪ニ断ジタル違法」「事実誤認シ法ノ適用ヲ誤リタル違法」「証拠ニヨラズシテ断罪シタル違法」など8項目にわたる「上告趣意書」を作成、精緻な論証を展開した。 
 
 しかし大審院は、門前払いを誘導する戦時法を盾に、事実調べをすることなく「原判決ハ認定事実ト擬律トニ齟齬アル所ヲ見ザルノミナラズ所論ノ違法一トシテ存スルコトナク論旨総テ理由ナシ」と紋切り文句で切り捨てた。1943年5月27日、大審院(現・最高裁)は上告棄却して確定。網走刑務所に収監された。 
 
○なぜ、有罪・重刑に? 
 宮澤弘幸は、1919年に東京で生まれ(2018年逝去の金子兜太と同年)、比較的裕福な家庭に育ち、好奇心旺盛だった。北大では、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア出身の外国人教員たちと「心の会」(ソシエテ・ドゥ・クール)を結成して国際色豊かに交流していた。また旅行好きで道内各地から樺太まで旅行した。当時、北に国境を接する北海道はいたるところ軍の施設があった。この当事者には無関係の絡みを、狡猾な特高がつけ狙った。 
 
 宮澤弘幸は、思想信条においてはほとんど内務省好みと重なっていた。国益に根ざした大陸一貫鉄道の建設を渇望する論文、軍事教練に勤しみ、軍の特別講習に進んで参加し、海軍委託学生に志願し合格している。その宮澤弘幸がスパイと断じられたのだから毅然と否定し反発した。その強気の反発が高飛車な特高には国家への反逆と映った。天皇の特高警官に逆らうことは、天皇に逆らうことだと。これで反国家の若造と烙印された。 
 
 宮澤弘幸は、拷問によって一度は虚偽の自白に追い込まれたが、起訴後は一貫して捏造された容疑を否定した。この頑強な学生を戦時の銃後に出しては不穏かつ悪弊となりかねず、長期、刑務所に閉じ込めるに限るとされた。 
 
○北海道帝国大学の対応 
 宮澤弘幸検挙の報を受けた母・とくは、東京から札幌に急行し、今裕・北大総長の自宅を訪ね、調査と釈放への尽力を求めたが同総長は何もしなかった。学内の教員らも沈黙したままだった。 
 
 北大には、昭和17(1942)年4月1日付の宮澤弘幸自筆とみられる「退学願」があり、学籍簿には「家事上の都合」を理由に退学とある。ただし「願」を受け取ったのは「4月30日から5月7日までの間」であるとしている。この間、宮澤弘幸の身柄は、検事の指揮下で拘束されていた。従って「願」は、検察か警察の監視下で書かされたことになる。北大にとって、「起訴された教官や学生」がいることは好ましいことではない。起訴(4月9日)前に、面会して「願」を書かせ、4月1日付で処置したのではないか? 一方、判決文の被告欄に「北海道帝国大学工学部学生」とある。これはなぜか。北海道大学が、宮澤弘幸にとった処置には、依然として謎が残されている。 
 
 戦後、北海道大学は、レーン夫妻に対しては事実上、名誉回復したが、宮澤弘幸に対しては無視を続けた。ハロルド・レーンは、軍役忌避の敬虔なクエーカー教徒。第一次大戦後、日本政府の大学教師公募に応じて北大へ。ポーリン・レーンは、京都生まれ。同志社大学で学び結婚したが夫は戦死。ハロルドと再婚。前夫との一女と合わせて6人の娘をみな日本語で育てた。二人は、刑が確定して収監後の1943年9月、最後の日米交換船でアメリカへ送還された。 
 
 戦後の1950年秋、北大では夫妻を再び英語教師として招こうとの声が起こり、夫妻もそれを希望していたため、1951年再び赴任。しかし弾圧された実態は黙して語らなかった。ハロルド・レーンは、長年の英語教育と国際平和・日米友好関係促進に貢献したとして「勲五等瑞宝章」を授章された。ハロルドは、1963年8月7日、ポーリンは、1966年7月16日、死去。札幌・円山墓地に眠る。 
 
 一方、宮澤弘幸については、戦後も無視し続けた。1965年の北大正史「創基八十年誌」、1980〜82年の「百年史」とも、レーン夫妻の強制送還については触れているが、宮澤弘幸については何の記述もない。2001年の『北大の125年』で初めて冤罪の事実と宮澤弘幸の名をわずか10数行記したのみだった。2010年に、北大大学文書館年報「冤罪事件調査報告」を掲載したが、それは北大としてではなく、文書館長による報告にとどめている。 
 
○北大生・宮澤弘幸「スパイ冤罪事件」の真相を広める会、発足 
 北海道大学は事件の真相解明の努力を怠っていたが、1980年代になって上田誠吉弁護士が「ある北大生の受難―国家秘密法の爪痕」(1987年・朝日新聞社刊)で提起したこと等の地道な活動によって、「宮澤・レーン・スパイ冤罪事件」に関心が高まった。宮澤弘幸の妹・秋間美江子さんはアメリカから帰国して、兄の苦難を訴え「国家秘密法」反対を訴えた。こうした運動の高まりによって「国家秘密法」の法制化は断念されたかに見えたが、水面下では策動が継続していた。 
 
 2012年暮の第二次安倍政権発足とともに「秘密保全法」制定策動が高まってきた。これに危機感を抱いた北大OBと、宮澤弘幸の妹・秋間美江子さんを通じて、宮澤弘幸スパイ冤罪事件を知った毎日新聞OB・山野井孝有さんらは、2013年1月、札幌で「北大生・宮澤弘幸『スパイ冤罪事件』の真相を広める会」を結成し、北大に対しては宮澤弘幸の名誉回復を求め、同時並行で「秘密保全法」の反対運動に取り組んだ。 
 
 安倍内閣は2013年10月、「特定秘密保護法」を閣議決定して国会に上程、12月6日成立した。秘密保護法は阻止できなかったが、宮澤・レーン・スパイ冤罪事件の真相を訴える中で、その危険性を社会的に広める活動の一端を担うことができた。 
 
 一方、北海道大学に求めた名誉回復については、2014年5月7日、「真相を広める会」との交渉で、北大副学長は、 嵋務て斬膤惶槹卦念賞」創設(2015年、第1回として学生10人に授賞)宮澤弘幸は冤罪であった。歴史的な出来事を風化させないK迷臍牢150年の正史でも同趣旨の見解を掲載するに迷臍躪臟酳館に宮澤・レーン事件を伝えるパネルを展示ド看記念館でも宮澤弘幸に関する展示を行う秋間美江子さんから寄贈されたアルバムは常設展示コーナーを設ける――と回答して現在にいたっている。 
 
▽「よみがえる戦時体制―大学と教育をめぐって」 
 安倍政権の暴走が続く中で、北大OB有志は「宮澤・レーン事件を忘れない!北大・戦後世代をつなぐ卒業生の会」を結成して活動を継続している。その一環として、2013年からは宮澤弘幸命日の2月22日に新宿・常圓寺で宮澤弘幸顕彰追悼墓参と「宮澤・レーン事件を考える集い」を行っている。 
 
 今年は、墓参後の集いで、荻野富士夫・小樽商科大学名誉教授が「よみがえる戦時体制―大学と教育をめぐって」講演した。要旨は以下の通り。 
【思想統制から教学錬成へ】1890年の「教育勅語」で戦前教育はすべて「天皇」の名のもとに行われた。1928年の全国で1600人が検挙された3.15事件を機に治安体制全般の確立強化が強行された。1933年の長野県教員赤化事件、1935年の天皇機関説事件、そして1937年に文部省は「国体の本義」を刊行。1939年には東京で「錬成教育」が展開され、1941年には教学局が「臣民の道」を刊行した。「国体の本義」では忠孝は一体化されていたが、「臣民の道」では、忠が大本、つまりすべて天皇に仕えることが前面に出た。大学に対しては思想統制・動員が強制され、1938年、荒木貞夫文相は、学生思想事件の潜在的脅威を強調。1940年には学校軍事教練が強化された。 
 
【戦後教育への連続と断絶】敗戦直後はまだ「国体護持」教育に固執し、田中耕太郎学校教育局長は「教育勅語は今後も道徳的権威を保持している」とした。GHQの教育指令の後、教育刷新委員会の建議を経て、1947年に教育基本法が制定された。しかし学生運動・教職員組合運動の抑圧を基軸に新たな教育統制が進展した。内務・特高官僚の復活と同様に旧教学局官僚の延命と復活が進んだ。 
 
【戦争と北大】「北大百年史」「北大の125年」に今裕総長の訓示などが記録されているが、戦争に関する大学史は乏しい。宮澤・レーン事件を戦時下の教育、当時の北大の中に置いてみることが必要だ。北大は理系の帝大であるため、国家の総力戦遂行体制を自覚的に推進した。「教学錬成」の密度が濃かったと言える。これが「スパイ事件」への冷厳な姿勢となったのではないか。 
 
 安倍政権の暴走の先には、国家権力による弾圧と一体となった戦争体制が待ち構えていることは間違いない。宮澤さんの墓前に集まった北大OBらは、「宮澤・レーン事件を忘れない!」と誓い、今後も真相を広め、国家権力による犯罪を阻止する運動を続けていこうとしている。 


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