2019年03月01日13時28分掲載  無料記事
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コラム

Hさん、ならびに「日本会議研究会」所属のみなさまへ 〜鈴木道彦著『私の1968年』の書評をめぐり〜 野上俊明(のがみとしあき):ちきゅう座会員/哲学研究

  鈴木道彦氏『私の1968年』の書評として書かれた貴兄の大変迫力ある論考に感動いたしました(ちきゅう座―歴史展開における変化と連続:「私の1968年」について 2/22)。長めなのでどうしようか躊躇しているうちに、つい引き込まれて読了してしまいました。ただ鈴木道彦氏の著書を読んでおりませんので、ここではあくまで貴兄の書評にしぼって、いや書評全体というより私の問題関心とオーバーラップするissueにかぎり二点ほどコメントさせていただきます。 
 
   まずは、貴兄が「西洋を中心とすることが絶対であるイデオロギーが理性中心主義である以上、理性中心主義は欧米以外の場所では簡単に抑圧の装置に変質してしまうものなのだ」としている点です。理性概念は確かにヨーロッパ出自の独特の文化概念であったものですが、それは今日なおヨーロッパ中心主義(Europocentric)という地域的限定を免れないものと考えるべきなのでしょうか。今日なお支配的イデオロギーとして隆盛を誇る、資本の論理に浸透された効率万能の道具的理性、抑圧的合理性を、理性の唯一の在り方だと考えるべきなのでしょうか。そういう意味での理性、合理性は、なにも対外関係においてだけでなく、欧米内部でも抑圧的であり支配の有力な武器として機能しています。M・ウェーバーは、かの有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を、市場経済や官僚機構における合理化を促進する機械的理性が、とどのつまりは人間を「鉄の檻」に閉じ込める事態を招来するであろうと、黙示録風の悲観的予言で締めくくりました。しかしだからといって我々がウェーバーのひそみに倣って、理性には抑圧の装置以外の在り方はできないと結論付けるのは早計でしょう。その考え方はニーチェやハイデガー系譜の思想に強くみられます。古代ギリシアに始まる西欧理性の歴史を、そして近現代の西欧の科学技術史を人類のあるべき軌道から外れたものとして全否定する考え方です。あるいはまたヘーゲルの理性や精神は、キリスト教的神の摂理観念の世俗化にすぎず、マルクス主義の歴史法則はこれまたヘーゲル的理性観念の世俗化にすぎないとして、啓蒙主義の進歩史観もろとも歴史における理性なりロゴスなりをオール否定する論調とつながっています。我々の若かった時代に一世を風靡したフランスの構造主義的マルクス主義者であったアルチュセールが、最晩年に歴史に必然性はない、それどころか偶然の寄せ集めにすぎないという趣旨の言明を行なったとき、そこに私はネオリベラリズムに屈服し自己破産した老哲学者の無残な姿を見ました。そしてそれからしばらくは東欧社会主義圏の崩壊もあり、マルクスを死んだ犬扱いをする風潮が続きました。 
 
   また「惑星的規模」の自然環境の危機が深まるなか、マルクスの進歩史観や労働哲学は、危機の深化に資本主義と同等の罪を負っているとするハイデガーやレーヴットらを思わせる論調も復活しました。しかし詳しくは立ち入りませんが、マルクスは「資本論」第一巻において、人間の自然力たる労働力を搾取し疲弊させる資本は、土地の自然力をも同様に搾取し荒廃させることを暴露し、エコロジカルで持続可能な物質代謝の循環回復が地球規模での喫緊の課題であることを強調しました。資本と有効に闘えなければ、人間存在の危機も自然環境の危機も救えない、そういう理性的な論理を貫くことがこの不確実で先行き不透明にみえるなかでは大事なのではないでしょうか――蛇足ながら進歩史観について言えば、マルクスは「階級の共倒れ」つまり進歩の杜絶という事態の可能性に言及したことがあります。 
 
   今日新自由主義によるグローバリゼーションのもと、パクス・アメリカーナの残影たる世界秩序はいたるところで綻んでカオス化している現状をみるとき、ハイデガーらの時代診断は一種魅力的に見えるのかもしれません。しかし理性の普遍性を全否定すればニヒリズムに陥るしかなく、ハイデガーがそうであったように、ふたたびその価値的世界観的空白を「血と土」などの最も野蛮な論理―人種血統主義や民族排外主義―で埋め合わせるしかなくなるでしょう。 
 
   ファシズムといえば、暴力による支配です。ファシズムの暴力は、非理性としての暴力であり、人間的な価値を嘲笑し愚弄するニヒリズムに淵源する暴力です。1960年代に我々学生たちを捉えた暴力というコンセプトは、ベトナムを始めとするアジア、アフリカ、ラテンアメリカにおける独立戦争や反植民地闘争における武装闘争を根拠としていました。帝国主義的侵略や新植民地主義がまだ現実であったが故に、それへの抵抗は正義であり、いわば理性の圏内に属する道理ある暴力でありえたのです。しかし第三世界からその暴力を横滑りさせて、暴力が先進諸国でも正義でありかつ有効でもありと錯覚したのが、我々の世代の誤りだったと私個人は思っています。そして西ドイツの若者たちと違って、我々は一人のヨシュカ・フィッシャーを生みだすことができなかったことを痛恨の極みとします。 
 
   1980年代後半から世界の構造変化はグロバリゼ―ションによって、異なる次元に突入しました。搾取や抑圧の形態も大きく変わりました。かつての世界区分(第一世界~第三世界)も有効性を失いました。なによりも第二次大戦後西側諸国の基本的な国家と統治の枠組みであった福祉国家体制が、全般的に危機に陥りつつあることです。新自由主義的な統治や経済運営が大きくつまずきつつあるにもかかわらず、それにとってかわる政治モデルが不在なゆえに、中道も左翼も効果的な選択肢を提起できないでいます。バブル経済の破綻と金融恐慌の再来は必至と言われている現在、経済恐慌が起きれば新自由主義がファッショ化する危険性が大いにある訳であり、それに我々が有効に対抗できないおそれもあるのです。いずれにせよ、この時代変化を正確に捉えるには新しい概念的な枠組みや装置が必要でしょうし、新しい政治的実践も不可欠です。このことについては機を改めて論じてみたいですね。 
 
   もう一点ですが、「マルチチュードは元々、ニッコロ・マキャベリが提唱したとされる概念で、バールーフ・スピノザが政治概念として定着させた」とありますが、スピノザの「神学政治論」や「国家論」には見当たらないように思います。「孤高の思想家」スピノザが、多様性、差異性を包摂した自由思想の集団的担い手として「マルチチュード」を立てたというネグリ&ハートの想定はどうも解釈が過ぎるように感じます―というか、なぜ17世紀のスピノザを持ち出すのかわかりません。グローバリゼーション時代の最大の困難は、おぞましき様相を呈する既成世界を変革する主体(単一ではなく、多様性・複数性・重層性に富んでいるものであるにせよ)が、どこにどのようなかたちで生みだされうるのか、依然暗中模索状態であるところにあるのでしょう。いずれにせよ、まずはグローバリゼーションとはなにか、その政治的・経済的・社会的・文化思想的な運動過程と構造の解明が必要だと思います。 
 
   私より十数年若い貴兄ですが、十分対話可能だという確信が持てる論考内容でした、ご力作ありがとうございました。 
 
 
野上俊明(のがみとしあき):ちきゅう座会員/哲学研究 
 
 
ちきゅう座から転載 


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