2019年03月29日21時28分掲載  無料記事
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社会

私の昭和秘史(12) 蹶起将校23名のうち 15名は“銃殺”された  織田狂介

 “蹶起”から“反乱”の賊徒とされた青年将校らが、事件直後、陸軍首脳らによって「武人として最期を飾れ」などと、歯の浮くような言葉で“自決”を勧められ(強要だった)のを断乎拒否し、あくまで法廷闘争で戦いぬくことを決意したため、軍首脳は止むなく彼ら全員を免官処分とし陸軍衛戍刑務所に収監した。この牢舎は江戸時代の伝馬町獄舎だったものを移転してつくられたといい、現在の渋谷・宇田川町の一角にあったが、いまでは跡形もなくなっているが、現在のNHKセンターの南側にある渋谷区役所あたりが、その跡地であるという。同区役所の西北隅には当時、処刑された青年将校たちの慰霊像が建立されてあることから、わずかに2・26事件を偲ばせるよすがになっているに過ぎない。 
 
 
 収監されてから直ちに法務将校ら予審官にある取り調べが行われたが、これは僅か数日にわたって行われただけの、まったく簡単過ぎるくらいな杜撰(ずさん)極まるものであったらしい。しかし、この事件の実態は、—―磯部ら青年将校の指摘を俟つまでもなく、陸軍幕僚部の実力ある将官、佐官クラスが深く関与して実行に移されたものであり、決して一部でいわれるような単なる“暴発”事件ではなかった。磯部大尉ら首謀者が、敢えて“自決”を選ばずに法廷闘争に持ち込もうとしたのも、そうした軍首脳を含めた当時の政官界にまたがる「ヤミの部分」を天日のもとにさらけ出して、いわゆる彼ら青年将校たちの意図した「昭和維新」への大義名分を明らかにしたかったからに他ならないのであった。 
 
 にも拘わらず、この磯部大尉に対する憲兵訊問は、なんとたった二日間で終わっているのである。そして、若干の紆余曲折のすえ、結論として青年将校たちが意図していた“公判闘争”は文字どおり瓦解していった。つまり磯部大尉ら首謀者が主張しようとしていた「2・26事件蹶起の真意」(真精神と表現している)である。――日本改造法案は絶対に正しい、日本の国体の具体化した政治、経済、外交、軍事は改造法案に云える如くなるべきであって、国体の真姿顕理とは実に日本改造法案の実現にあると云って過言ではない(磯部浅一の『獄中日記』)とする彼らの信奉していた北一輝の理論を中心にした「天皇を中心とする民主国」の実現を図るための行動であった――とすると「真精神」が、ついにこの法廷では陳述できぬまま、その審理は全く一方的な“断圧訊問”によって終始されて結審となる。 
 
 事件発生後、僅か4ヶ月足らずの7月5日には判決の言い渡しが行われた。この判決では、磯部浅一、村中孝次、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀ら5人を「首魁」とし、「謀議参与」として渋川善助、対島勝夫、竹嶌継夫、中橋基明、坂井直。「群衆指揮」として丹生誠忠、田中勝、中島莞爾、安田優、高橋太郎、麦屋清済、常盤稔、林八郎、鈴木金次郎、清原康平、池田俊彦と断じ、17人に「死刑」を、池田俊彦ら5人に対し「無期禁錮」、一人だけ今泉義道に「禁錮4年」が言い渡された。 
――そして7月12日、午後6時ごろ、東京陸軍衛戍刑務所の第五拘置監の方から「万歳」「万歳」という表現し難い、どよめきが聞こえてきた。「いよいよ処刑だ」。磯部は見えないながら思わず第五拘置監の在る南側の格子窓に近づいた。午前6時半を過ぎる頃になると、隣接した代々木練兵場の方から演習用の空砲弾がパチパチと聞こえてきた。銃殺刑の実弾音を消すための擬装であることは磯部にもすぐ分かった。 
 磯部はしきりに、俺が「ハヤリ過ぎた為に、すまない、申し訳ない」と心中に繰り返して監房内を輾転とした。この日、空はどんよりと曇りむし暑い朝であった。死刑者たちは3班に分けられた。各自はカーキ色の夏外被を着用させられ、目隠しのまま両腕をとられ、刑務所の西北隅に設置された処刑場に進んでいった。処刑場には5つの壕が掘られ、その壕の奥深く十字架が建っていた。死刑者たちは、その十字架に正座して銃弾を受けたのである。 
 第1班は午前7時、香田、安藤、竹嶌、対島、栗原、第2班は午前7時54分、丹生、坂井、中橋、田中、中島、第3班は午前8時30分、安田、高橋、林、渋川、水上。第1班の香田元大尉は一列縦隊で処刑場に着くと「天皇陛下万歳を三唱しよう」と発言し、刑場をゆるがすように「天皇陛下万歳」を三唱したと言う。これら青年将校たちは、天皇による「大赦」なくても、天皇なる絶対価値に殉ずる以外になかった。この「天皇陛下万歳」こそ、無益なるこの死を価値あるものにする儀式であったのだ。少なくとも死に赴く青年将校たちにはそう思いたかったに違いない。(筆者註:この想いは、まさしくあの特攻隊の若者たちも、また同じようではなかったのか・・・) 
 磯部は、刑務所の西北隅から、そして代々木練兵場から聞こえていた銃弾音がすべて止み、不気味な沈黙が拡がってきたとき、自分の独房の真中に正座し、放心状態のまま、涙の出ない充血した目をしきりにこすっていた。(以上は、『磯部浅一と2・26事件』から引用) 
 
 これら刑死した15人の青年将校たちは、それぞれが手記や遺言を残している。いずれも激しい憤りと怨みを切々と訴えているが、多くは20代前半の若者たちであり、そうした手記や遺言の殆どが、やはり、どちらかといえば“心情的”であり、首魁とされた磯部や村中、安藤、栗原たちとは、その憤怨の吐露については“迫力”と、“深遠”さが異なるのも止むを得ないだろう。とくに磯部の激烈な悲憤とは比べられないほどの落差があったのも、また致しかたのないことかも知れぬ。 
 話が少し前後するけれど、磯部らが陸軍首脳らによる「自決の強要」を断乎退けて、法廷闘争への戦いを宣した所以は、「余が告発シタル理由ハ軍閥ヲ倒シタキ為デアッタ 
コノ十五名ヲ刑スルコトニナレバ軍内ハカナエノ沸ク如クナル コレニ依ッテ軍閥ハ互ヒニ喧嘩ヲ始メ自ラ倒レルニ至ル、今ノ世ニ軍閥ヲ倒サズニ維新ト云フコトハアリ得ナイ 余ハ規成軍閥ハ軍閥以外ノ何物デモナイト信ジテイル」(『獄中記』より)からであった。 
 
 この2・26事件の闇(ヤミ)の部分とは、つまりはこれら青年将校たちの信奉していた「国体護持のための真精神」が本当に実践されていったら、まさしく乱れ切っていた陸軍部内(軍閥)は間違いなく“崩壊”されたかも知れないということではないかのか。そして、この事態を怖れた陸軍は、全力をあげて自らの陰謀の抹殺を企んだのである。作家の澤地久枝氏が、この2・26事件における「隠された真実」を究明するため、戦後初めてといわれる事件関係の第1級資料である『匂坂資料』(同事件の特設軍法会議主席検察官であった匂坂春平元陸軍法務中将の公式記録)を入手。これを公開しながら執筆した『2・26事件 在天の男たちへ』(「別冊文芸春秋」昭和63年4月刊)の中で述べている次のような指摘によっても、その辺の事情は肯けられるのだ。 
—―匂坂資料は疑惑の濃い将軍や幕僚たちがいかに逃れたか、軍司法は軍人たちの恣意の前にいかに無力であったかの証明としてのこっているのです。 
 
 そして、さらにこの軍法会議なるものの法廷審理が、いかにどうしようもない“暗黒裁判”であったかについては、この裁判で磯部浅一を最初に訊問した憲兵大尉大谷敬二郎が後に次のように書いている。(『2・26事件の謎』昭和42年柏書房刊より) 
――この裁判は暗黒裁判といわれるだけのものはあった。(中略)しかし、私のいう暗黒裁判とは、軍法会議の組織や運営を取り上げているのではない。(中略)実は裁判が正しく事態の真髄をついていないことにあるのである。事件の根源にメスをいれて抜本的に軍の<更始一新>を期することを方針とした陸軍が、彼等を処罰するのに事を欠き、また、事件鎮定を通じて示された軍の意思、態度を等閑に付して、これらの追及には一指も触れるところがなかったことは裁判をひどく暗いものにしてしまった・・・。(いずれも山崎国紀著『磯部浅一と2・26事件』より引用) 
 
 ところで、この事件の首謀者である磯部浅一と、もう一人の村中孝次の両大尉は、なぜか前記した15人の同志たちの銃殺刑から、ざっと1年余の刑務所暮らしを生き延びなければならなかった。この“延命の理由”について、さきに引用した山崎国紀氏もその著書のなかでは詳しい経緯を伝えていない。ただ、気になることといえば、――磯部らにとっては日々身を切り刻む思いであった。しかし、この間、磯部は獄中で手記を書きまくった。さきに刑死した15同志に代り、事件の真相を訴え続けなければならない責務を感じていたからであろうか。磯部の手記は、今判明している限り3つのルートを通じて密かに持ち出されたものである。揮毫用唐紙に横書きした25枚の「行動記」と、奉書を2尺余切った和紙50枚余の「獄中日記」は善光寺師団からの増援看守平石光久によって外部に出たものである。また昭和41年10月仙台で発見された磯部の「手記」は、仙台師団からの増援看守花淵栄吉によってもたらされたものであった(昭和42年2月『文芸』掲載)。もう一つ、いわゆる「獄中手記」(1〜3)と言われるものは磯部の妻登美子により、面会時に密かに手渡されたものである。このほか、名古屋師団からの増援看守林昌次によって村中の「丹心録」3編なども持ち出され世に残されている。事件後、陸軍刑務所には事件関係者が203名(軍人166名、在郷軍人8名、民間人29名)も新たに収容されたため、全国から増援の看守が派遣されてきた。この中には蹶起将校たちに同情的な者も多かったが、前記3人の看守は己れの任務を逸脱してまで磯部らのに協力したのである。しかし、9月末増援看守たちが帰任してから磯部らの手記は杜絶えてしまったのである・・・云々と記されていることである。 
 
 つまり、なぜ磯部と村中の2人だけが、死刑判決後1年1ヶ月も、なんの取り調べもする必要さえないのに、生き延びさせられていたのかについては、全く触れていないという事実は、どうしてなのか。そして、前記山崎氏の記述している如く「磯部らが刑死した15同志に代り、事件の真相を訴え続けねばならぬ責務」は、どう考えても少しおかしい推測ではないのか。あの時代の軍律厳しい“監獄”の中でのことだった筈なのに、一体「だれが、それを許容したのだろうか」という疑問が残るのだ。そして、その「遺言」や「手記」が増援されてきた看守3人の手で、密かに外部へ持ち出され、やがて彼らは帰任していったら、その「手記」などの執筆が終わり、やがて磯部と村中両人の処刑が行われている。 
 昭和12年8月19日、これもなぜか処刑された時刻も資料では残存されていない。山崎国紀氏の“推測”によれば、午前7時から8時の間、磯部は刑務所長に「大変御厄介になりました。アバズレ者で我儘を申して御迷惑を掛けましたが、所長殿は一番良く私の気持を知っているでしょう。職員一同に宜しく申して下さい・・・(略)」と収容生活の好遇に感謝しながら、まことに静謐そのものの心境で死を迎えていた・・・ように描いている。 
 ともあれ、この磯部浅一の凄絶極まる「獄中手記」をせめてこの世に残すじことのために1年1ヶ月も刑死が延ばされたということの、この事実にはただただ驚嘆するのみでしかない。 
 
 
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2019年03月27日23時02分掲載  無料記事  印刷用  [編集] 
社会 
私の昭和秘史(11) 陸軍上層部の裏切りと 昭和天皇の大御心とは? 織田狂介 
 
 ここでまた、再び山崎国紀著『磯部浅一と2・26事件』の描写と解説に視点を移してみることにしたい。やはり、この著書のなかでの肝心な焦点ともいえる「青年将校たちの蹶起に対する昭和天皇の対応」について深く注目しておきたいからである。 
 
 「事件の終熄が一向に進捗しないことを知った天皇は、2月27日に至り『朕が股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ狂暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スヘキモノアリヤト仰セラル、又或時ハ、朕カ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク致スハ、真綿ニテ朕カ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ、ト漏ラサル・・・』るほどになり、ついに『朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此カ鎮定ニ当ラム』(本庄繁太郎陸軍大将による『本庄日記』引用)とまで激怒されるまで昂まったのである。この蹶起将校たちに対する憎悪と激怒は、26日午前6時に初めて事件の勃発を知らされたとき以来、微動だに変わらなかったものとみえる・・・」(中略) 
 
 この「天皇の御意志」がわかってくるに従い、かねてから青年将校たちが信頼し「蹶起したのちの国家革新」を期待し、その力添えを信じていた真崎甚三郎陸軍大将ら、いわゆる“皇道派”首脳たちの言動が微妙に変わっていくのである。つまり彼ら首脳部自身もまた唯一の拠りどころにしていた天皇の意思が、どうやら全く別なところにあることを悟ったからであろう。この点の消息については、山崎国紀氏もその著書のなかで同じようなことを記述しているが、ここでは省略しておこう。とにかく、この「天皇の予想以上の激怒ぶり」を知った真崎大将ら“皇道派”が川島陸軍大臣らを中心とするいわゆる“統制派”首脳たちの事件の対応「断乎たる鎮圧の方針」に従わざるを得ない状況に追い込まれていくことになる。 
 
 このへんの経緯について、山崎国紀氏は、「青年将校弾圧のために当初からデッチ上げられた架空のクーデター企図であったと信じている」(元東京憲兵隊陸軍大尉・大谷敬ニ郎著『昭和憲兵隊史』より)とする有力な説もあるが、松本清張氏による『2・26事件(第一巻)』で記述されている部分が、最も妥当ではないかと思われる・・・」 
と指摘しているので、それらの部分を山崎国紀氏の著書から再録してみよう。 
 
 「私が、ここで想いをいたすことは、前途した元東京憲兵隊の大谷敬ニ郎が、いみじくも指摘しているように“この2・26事件が、当初から青年将校たちを弾圧するために仕掛けられた陰謀ではなかったのか・・・”という重大な示唆についてである。本稿の末尾で触れているように、私はもう一つの『2・26事件』ともいえる『神風特別攻撃隊』が、ひよっとすると同じように当時の陸海軍首脳による同じような思惟によるものではないかと思えてならないのだ」 
 
 この時期、軍首脳は皇道派系と統制派系とにおよそニ分され、熾烈な派閥闘争が繰り広げられていた。統制派は長州閥の流れをくみ、軍政と政治の連携において強力な統制主義を実行しようとした。統制派の将星としては、杉山元参謀次長、小磯国昭第五師団長、安部信行大将、寺内寿一台湾軍司令官、建川美次第十師団長らがいたがこの系統の最大の実力者は、永田鉄山事務局長であった。 
 これに対し、皇道派は「武断的国粋主義の色彩をおび」(松本清張氏)、精神主義、肝炎論的であった。この派の総帥は真崎甚三郎教育総監と荒木貞夫軍事参議官であり、他に香椎浩平第六師団長、秦真次第ニ師団長、山下奉文軍事調査部長らであった。磯部ら革新青年将校らは、政治に接触せぬ「武断派国粋主義」の皇道派、特に真崎大将にその革新を期待し、他の行動派将軍たちへの接触を図っていたのである。 
 この2・26事件が、実はこうした純粋な青年将校たちの「国家革新のための蹶起」ではなくて、そうした動きを徹底的に封殺しようとして「デッチ上げられた架空のクーデターであった」とする説が、あるいはこの事件の“闇(やみ)の部分”を物語る真相なのかも知れないと思われる、そんな消息をかいまみる思いがしないでもない。山崎氏は、そうした動きの一瞬を次のように記している。 
 
――真崎は敏感であった。直接天皇に会い「鎮圧」の方向の認識をした川島陸相、特に「鎮圧」への強い決意を持って臨んでいる杉山参謀次官、これらの将軍たちのかもす雰囲気は真崎に伝わってきた。「あの蹶起将校たちはいずれ鎮圧されるだろう」、この方向は少なくとも皇軍相撃のないように、蹶起軍には鉾を収めさせなければならない。真崎には、青年将校たちへの期待と同情はあっても、加担の方向で収拾する意思は、この会議(註:軍事参議官会議2月27日)途上で消えていった。(以下略) 
 この陸軍首脳による「軍事参議官会議」の結果、作成されたのが事件収拾のための「陸軍大臣告示」であった。そして陸相官邸に拠っていた青年将校たちらに対して、山下奉文少将軍(のちの大将=太平洋戦争における比島軍総司令官)から、この告示が通達された。 
 
 一、蹶起ノ趣旨ニ就テ天聴ニ達セラレアリ 
 ニ、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム 
 三、国体ノ真姿顕現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪エズ 
 四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ 
 五、之レ以外ハ一ニ大御心ニ待ツ 
 
 この「陸軍大臣告示」を受けた青年将校たちは「欣然としたのである」と山崎氏は綴っている。 
――対島中尉が大きい声で聞いた。「われわれの行動が認められたのですね。そのところをはっきりして説明して下さい」山下は対島をジロッと見てそれには答えず、もう一度告示分を読んだ。紙面として渡されたのは後ほどであり、この段階での口頭朗読だけでは、何か隔靴掻痒の感はまぬがれない。磯部は少し焦ってきた。「われわれの鼓動が義軍の義挙であるということを認めるんですね」磯部も大きな声を出した。山下は今度は磯部の眼をジイッと見て、「もう一度読む、よく聞け」と言って3回目を淡々と読んで退席した。立会した古荘陸軍次官らは、にこにこして磯部らを見守ったが、磯部は一抹の不安を消すことができなかった。磯部のかすかな不安はやはり当たっていた。 
 
 「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」と言っても誰が「認ム」のか不明確である。むろん天皇ではない。「天聴ニ達シタ」としても、この天皇の意思は全く分からない。結局「大御心ニ待ツ」以外ない。項目の一とニを冒頭に置くことにより、蹶起将校の殺気立った昂奮を鎮静させ、その部隊を帰順させる。そのための偽装であった。「之レ以外ハ一ニ大御心ニ待ツ」に籠められたものは決定的であった。蹶起将校たちに対するこれ以上の殺し文句はない。そして、この「大御心」の内実は少なくとも、真崎、山下は知っていたとみなければならない。この「陸軍大臣告示」文で、既に蹶起将校たちの運命は決定していたのである・・・と山崎氏は書いている。 
 
 ――2月28日、「戒厳司令官ハ三宅坂附近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速カニ現姿勢ヲ撤シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムヘシ」とする奉勅命令が、陸軍参謀総長である伏見宮載仁親王の名によって下達された。つまりは、これが「大御心」であった。石原莞爾大佐(のち関東軍司令官)は、この直後に各部隊の連絡将校に対して「軍は、本28日正午を期して総攻撃を開始し、叛乱軍を全滅せんとす」という厳戒命令を口頭で伝達したのである。ここで「蹶起部隊」は明確に「叛乱軍」と規定された。 
蹶起部隊のリーダーである磯部大尉は、このときの心情を、次のように記している。 
「・・・声涙ともに下る 余は力なくハイと答へて訣別する、すべての希望が断離されたる無念さ 云わんかたなし」 
 
 こうした経緯ののち、私たちは当時の少年少女たちでも記憶に残る、あの有名な「下士官兵ニ告グ」のアドバルーンが、残雪の帝都上空に高々と揚げられた。――「今カラデモ遅クナイカラ原隊ニ帰レ 抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ」戒厳司令官・・・2月29日のことであった。 
 「すべての希望を断離されたる無念さ」と記した磯部浅一大尉の想いは、実はそのまま太平洋戦争の敗戦の日、あの昭和天皇の『終戦の詔勅』を聞いたときに私の胸中を去来した悲痛さと全く同じものではなかったのかと考えている。それは、これまで信じ切って歩いてきた一筋の道が忽然として眼前から消え失せたような、なんとも形容のしようもない無残な想いであるといえよう。言葉をかえれば、もう神も仏もないような真っ暗闇の中に茫然と佇んで、血みどろになった我が身と魂をひきつづたまま・・・とでも云えようか。 
 
≪プロフィール> 
織田狂介 本名:小野田修二 1928−2000 
『萬朝報』記者から、『政界ジープ』記者を経て『月刊ペン』編集長。フリージャーナリストとして、ロッキード事件をスクープ。著書に、「無法の判決 ドキュメント小説 実録・駿河銀行事件」(親和協会事業部)・「銀行の陰謀」(日新報道)・「商社の陰謀」(日新報道)・「ドキュメント総会屋」(大陸書房)・「広告王国」(大陸書房)などがある。 


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