2019年04月08日11時09分掲載  無料記事
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人権/反差別/司法

日本の司法は、一日も早く、「人質司法」から脱却しろ  根本行雄

 日産自動車のカルロス・ゴーン前会長(65)は、保釈から約1カ月後の、4月4日早朝、再び東京地検特捜部に身柄を拘束された。保釈中の逮捕は異例である。4月3日にツイッターに公式アカウントを開設し「真実をお話しする準備をしています」と投稿したばかり。弁護人は「いわゆる人質司法だ」と抗議の声を上げた。日本の検察と裁判所は、いつまで基本的人権の侵害を続けるつもりなのか。 
 
 日本では、無実を主張していると、検察は被疑者、被告人を保釈しない。それを裁判所が容認している。無罪を主張していると、「証拠隠滅の恐れがある」とみなされ、検察側と被告側が争点を絞り込む公判前整理手続きで論点が明らかになるまで、起訴後も保釈が認められない。被疑者、被告人の基本的人権を侵害し、自白しない限り身柄を拘束し、捜査当局の筋立てに沿った供述を引き出す手段として利用されてきた。 そのような日本の刑事司法の現状を批判し、「人質司法」と呼んでいる。ゴーン前会長の弁護人は記者会見をし、「身柄拘束を利用して圧力をかけるわけだから、人質司法だ」と検察の手法を批判した。 
 
 □ 裁判とは変則的なスポーツに似ている 
 
 裁判とは、ある意味において、検察官(訴追側)と弁護人(弁護側)とが対戦するボクシングの試合に似ている。つまり、裁判とは、ルールのある試合であるという点において、それはスポーツに似ているのだ。 
 
 検察官は、法廷において、被告人が有罪であることを立証していく。弁護人は、それに反駁をしていく。訴追側が一方的に攻撃し、弁護側が一方的に防御するという、この図式は、とても奇妙なものではあるが、それが「裁判」のルールなのだ。「裁判官」は、この変則的なボクシングの審判である。 
 
 検察側は「通常人ならだれでも疑いを差しはさまない程度に、真実らしいとの確信を得る」(最高裁第一小法廷の判例、昭和二十三年八月五日)ように、被告人が有罪であると立証しなければならない。つまり、検察側は、ごく普通の成人した人であるなら、老若男女を問わず、だれでも、この人は確かに有罪に違いないと納得させなければならないのだ。このことを、欧米では、「合理的な疑い」を超える有罪の心証を形成しなければならないと説明している。 
 
 弁護側には、無罪を証明する必要もないし、義務もない。このことに対して、読者の多くは奇妙に思われるかもしれない。そして、読者の大半は、きっと疑問に思われるだろう。被告人が無罪だと主張するのならば、どうして無罪を証明しないのか、と。それは証明ができないからではないか、と。 
 
 弁護側は、被疑者はもちろんのこと、弁護士も、強制的な捜査権や逮捕する権限や身柄を勾留して取り調べをする権限を持っていない。そのうえ、無罪を証明するための捜査などの活動にかかる費用は、すべて自分の財布から出さなければならない。だから、弁護側には、物理的にも、法律的にも、また、経済的にも、とても大きなハンデキャップがあるのである。ところが、検察側はさまざまな権限を持ち、その権力を行使することができる。このような一方的に有利な状況を踏まえて、法律は検察側に有罪の立証という重い義務を課しているのだとされている。 
 
 弁護側は、証拠の収集にあたって違法行為がなかったどうかをチェックし、証拠の持つ証明力の有無を吟味し、その証明力のもつ範囲を限定し、有罪の立証が不十分であることを明らかにすればよい。あくまでも、被告人が有罪であるということを立証し、「裁判官」を納得させる責任は検察官にある。だから、弁護側には無罪を立証する義務はないのだ。しかし、99.9%と言われるわが国の有罪率の異常な高さを考えると、弁護側としては、どうしても無罪の判決をかちとりたいと思えば、実際には、弁護活動として、無罪の証明をしなければならないというのが現状となっている。 
 
 日本では、警察や検察は、しばしば、別件逮捕、見込み捜査、代用監獄を利用した取り調べを行う。そして、被疑者が無罪を主張し、その証拠を挙げた場合、信じられないことだが、無罪の証拠を隠滅したり、有罪を証明する証拠や証人を捏造したりもする。犯行を否認している場合、「証拠隠滅の恐れがある」という理由により、まず、保釈されることがない。このような司法のあり様を「人質司法」と呼んでいる。 
 
 日本の裁判官には、私たち国民の多くにとって、身柄を勾留されるということは、それだけで十分に懲罰行為になっているのだということ、基本的人権を侵害をされているのだという認識がほとんどない。そのうえ、裁判所は、警察、検察とともに国家権力の側に属しているので、治安維持を優先する立場から、どうしても癒着しやすい傾向がある。だから、とても安易に逮捕の許可を出し、なかなか保釈を認めようとはしないのである。 
 
 わが国では、軽微な犯罪においても、長期間の勾留、代用監獄を利用した取り調べが行われている。このため、警察と検察による被疑者や被告人に対する人権侵害は日常的なものであり、慢性的なものになっている。そして、こうしたことに対して、裁判官はとても鈍感である。 
 
 代用監獄を利用した取り調べでは、しばしば、深夜におよぶ長時間の取り調べや、肉体的生理的な拷問、心理的な拷問や、買収や詐術やなどが行われている。それはしばしば、法廷においては自白の任意性についての争いとなる。しかし、ほとんどの場合、警察や検察は拷問の事実を隠蔽し、法廷でも拷問の事実はないと、平気で偽証をする。 
 
 日本の裁判官は、法廷での証言よりも代用監獄という密室で作成された供述調書の方を信用する。だから、被告人が法廷で無実を訴えても、代用監獄における拷問を訴えても、裁判官のほとんどは信用をしない。「調書裁判」と揶揄されている所以である。 
 
 □ 基本的人権の尊重 
 
 日本国憲法は近代憲法の一つであり、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を3大原則としている。基本的人権については、「第三章 国民の権利及び義務」のところを読んでいただきたい。 
 
「第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」 
 
「第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」 
 
「第三十八条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。 
 
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。 
 
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」 
 
 日本国憲法の第三章に、これらの条項があるのは、基本的人権を擁護するためである。だから、代用監獄のような密室での取り調べを禁止しているのだが、日本の司法は依然として改善していない。 
 
 また、刑事裁判には、「無罪の推定」という原則がある。この原則を裁判官側から表現した言葉が「疑わしきは罰せず」であり、「疑わしきは被告人の利益に」である。これは基本的人権を擁護するために設けられているものである。日本の検察官、裁判官は、人権感覚がにぶいので、代用監獄という密室の取り調べや、弁護士の立ち合いのない取り調べ、長期間の勾留、そして、無実を主張していると検察は被疑者、被告人を保釈しない。それが「人質司法」と呼ばれて、国の内外から批判されているが、一向に改善しようとはしないのである。 
 
 日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告を巡る事件を語る上でキーワードとなったのが人質司法だ。そうした批判に耐えうる再逮捕だったのかが今回問われている。 
 
 今回の、東京地検特捜部によるゴーン前会長を会社法違反(特別背任)容疑で再逮捕したことは、明らかに基本的人権の侵害である。これは暴挙である。 
 
 日本の司法は、一日も早く、「人質司法」から脱却しろ。 


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