2019年05月03日21時58分掲載  無料記事
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政治

日本国憲法の「積極的平和」はどこへ? 安倍首相が改ざん、自民党改憲案で消滅、各紙社説はスルー

 「平和憲法」と称される日本国憲法の施行から72年を迎えた、憲法記念日の5月3日付各紙の社説に何か物足りなさを感じた。「平和」のとらえ方が狭いままで、国際社会で現在求められている平和の構築にわたしたちの憲法をどう活かしていくかの論点が抜け落ちているからだ。憲法と社説を読み比べ、「国際社会において名誉ある地位を占めたい」(憲法前文)というわたしたちの願いを実現していくには何が必要なのかを考えてみたい。(永井浩) 
 
▽「平和」とは何か 
 まず憲法を読んでみる。 
 日本国憲法が平和憲法と呼ばれるのは、あらためて指摘するまでもなく、第九条で「戦争の放棄」をうたい、国際紛争の解決手段としての武力行使の否定と戦力の不保持を誓っているからである。だが憲法はもうひとつ、平和とは何かを記している。前文は、専制と隷従、圧迫と偏狭を除去し、恐怖と欠乏から免れた社会を平和と定義し、全世界の人びとが等しくそのような平和のうちに生存できる国際社会の実現をめざすのがわれわれの責務であるとしている。 
 
 前者は、平和学でいう「消極的平和」、後者は「積極的平和」であり、戦争や紛争の原因となる貧困や圧政などの「構造的暴力」の除去につとめることが真の平和につながるとされている。だとすれば、わたしたちはこの二つの平和を両輪としてグローバルな正義と平和の実現に貢献すべきであろう。「平和学の父」と呼ばれ、この新しい平和の概念を提唱したヨハン・ガルトゥングは、『日本人のための平和論』(ダイヤモンド社)で、「9条は反戦憲法ではあっても平和憲法ではない」として、9条を空文化しないためには「これまでどおりの反戦憲法であるにとどまらず、積極的平和の構築を明確に打ち出す真の平和憲法であってほしい」と述べている。 
 
 ところが、安倍晋三首相は「積極的平和主義」を掲げながら、その原義とはかけ離れた対外政策を推進しようとしていることにガルトゥングは強い懸念を示している。首相のいう「積極的平和」の実態は「集団的自衛権」の行使であるからだ。平和的手段による真の平和の追求ではなく、日米同盟の旗印のもと、米軍と自衛隊の世界的規模の軍事行動の一体化を推進することを平和主義と詐称しているのだ。 
 それと同時に、憲法前文に謳われた、戦争や紛争の原因となる貧困や圧政や偏狭などの「構造的暴力」の除去をつうじた平和の実現は、自民党の憲法改正草案からは姿を消している。前文に「世界の平和と繁栄に貢献する」という文言はあるものの、もっぱら強調されているのは、「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」ことである。 
 
 こうした現状を見据えて、憲法記念日を機に主要メディアが「平和」をどのように論じるのかをわたしは注目した。だが期待外れだった。 
 
 朝日は「AI時代の憲法 いま論ずべきは何なのか」。AIやビッグデータの活用など急速に進む技術革新が、わたしたちの生活を豊かにする一方で、「個人の尊重」(13条)や「法の下の平等」(14条)を脅かしかねないと警鐘を鳴らす。9条への自衛隊明記に意欲をしめす首相の改憲姿勢にたいしては、自衛隊が国民の間に定着している現実を無視した「改憲ありき」のご都合主義と批判する。さらに非正規の増加などの貧困が広がる中、憲法25条が国民の権利とした「健康で文化的な最低限の生活」をどう描くのか、と問う。だが、現行憲法の平和の理念を内外の現状をふまえてどのように発展させていくかの考察は見られない。 
 
 読売は「令和の国家像を描く議論を」。憲法は主権者である国民のものであり、「適切に機能するよう、不断に見直すことが立法府の責務である」として、夏の参院選に向けて各党が精力的に党内論議を行い、憲法改正の主要論点に見解をまとめるようもとめている。自民党の9条改正案について、社説は国民の安全と国民の命を守る正当性を明確にするものと理解を示し、緊急条項事態条項の創設も、民主主義を機能させるうえで妥当な措置と評する。 
 
 毎日は「令和の憲法記念日に 国会の復権に取り組もう」。「国会の代表が集う国会は、たえず憲法について論じ、その価値体系に磨きをかける努力が求められている」として、憲法改正論議や公文書改ざん問題などに見られる首相権力の飛躍的拡大と国会の行政監視機能の貧弱化を憂慮する。ここでも、平和憲法の危機的状況は論じられない。 
 
 日経は「令和のニッポン」シリーズの一環として「より幅広い憲法論議を丁寧に」。憲法というと、戦争放棄を定めた9条が議題になることが多く、「集団的自衛権とは何か」など日常生活とは縁のない小難しい議論ばかりという印象があるが、もっと幅広いテーマのなかでの議論があってしかるべきだとする。「婚姻は両性の合意のみ」で成立すると定めた24条や、象徴天皇制のあり方などである。改憲と護憲の論議も政治家だけに任せず、国民ひとりひとりが関心を持つことが大事だ、と主張する。 
 
▽宮沢賢治の「雨にも負けず」の精神 
 たしかに、憲法のあり方をめぐる論議は戦争と平和の問題だけでなく、時代の変化をにらみながら多様なテーマについて展開されるべきである。しかし、だからといって戦後日本の根幹が大きく揺らいでいる現在、「平和」とは何かという問いに真正面から向かい合い、たとえばガルトゥングが呼びかけるような平和憲法の創造的発展について国民一人ひとりが論議を深めていく場をメディアが設定しようとしないのはなぜなのだろうか。 
 
 もしそういう憲法論議が沸き起こったならば、わたしは宮沢賢治の「雨にも負けず」をみんながどう考えるかを知りたい。 
 賢治の詩には、政治的なことばは出てこない。けれども、「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べる」生活に満ち足り、「東に病気の子どもがあれば、行って看病してやり」、「北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い」とは、21世紀の現代においても変わらぬ実践課題である。足るを知るライフスタイルなしには人類は生き延びることができないだろう。病人や社会的弱者にあたたかい社会をどう築くか。戦争のない平和な社会にむけて私たちはどんな役割を果たすべきか。わたしたちの偉大な先人は、「積極的平和」の精神をすでにこのように説いている。 
 
 そして、「そういう者にわたしはなりたい」という一人ひとりの個人が国境や民族、宗教の違いをこえて力を合わせていくことによって、平和憲法を人類の共有財産にしていくことが可能なのではないだろうか。 


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