2019年06月08日14時28分掲載  無料記事
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コラム

村田簣史雄:最も透明なる領域:Región más transparente : Kishio Murata 山端伸英

 村田画伯というべきか村田先生というべきか、Kishio Murataは死後もまだメキシコ画壇に特異な地位を占め続けている。村田簣史雄の絵の前に立つと時間を忘れ、苦痛を忘れ、この世の殺伐さ一切を忘れ、振り返れば厳然と存在する現実に対する新たな応対に迫られる。しかし、その画像は音楽のように、脳裏にピアノ協奏曲の流れと解放の道筋を残し続けているのである。ここには一つの異次元交叉が生じ、解放されようとする感性は現実を振り返り放物線を描くかと思うと現実への着地をもう一度拒否して跳ね返る。 
 
 一九九二年八月九日に八一歳で他界された村田簣史雄氏の不在を既に二七年生きている不幸は、単に現在の日本の不幸だけではない。いま、歴史の狭間を危うく生きているメキシコ社会にとっても、図書館を漫画本で埋め尽くしているメキシコ日系社会にとっても、現実を超越する能力を持って立つ村田のような人間の不在が、彼の持っていた実存の不在が、不透明で不自然な空白を人々の胸の中に、さらには精神の中に拡大させている。それでも、彼の残した絵画空間の意義は、定義を拒みながらも、画像・映像としての存在感を増している。 
 
 村田簣史雄は岐阜県の出身。一九三二年の二科展に出品して入選した。日本人による現代抽象絵画が、二二歳の青年の手によって、二科展に初めて登場したのである。正に瑛九などの前衛抽象絵画運動が鳴り物入りで登場する遥か前から、村田は孤独な青年時代の実存性を音楽的抽象の中から日本社会に提供してきたのであり、それは、しかし、その閉塞した日本社会の中ではさらに孤独なる色と形状と形式のハーモニーを歌い続けるよりほかなかった。彼は次のように一九七九年、「季刊銀花」第三九号の中で述べている。 
 
「一・二年がかりで描き上げてあった画を取り出して、出品したのが昭和七年の二科展であった。このとき出品した三点の画は、意外にも全部が入選して、今年の二科展には《形のない画》が出たと発表され、この三点が二科に初めて出た抽象作品になったのである。私の二二歳の時であった。この時、私は自分の音楽に対する愛着を、生涯画から得ていくことにしたのである。自分の画、抽象作品が画壇でどのように評価されようと、世間には縁のないもの、受け入れられない画であることは覚悟していた。私は自分の画だけで明るい喜びをいつも持ち続けることのできる自分自身を幸福に思ったのである。」 
 
 一九一〇年生まれの村田簣史雄が二二歳の時は、ジョアン・ミロ(1893−1983、カタロニア) やパウル・クレー(1879−1940、スイス) がそれぞれ異なった状況の下で油の乗りはじめた頃であるが、当時の日本では、まだ彼らの本格的な仕事は知られていない時期であった。二〇代に入ったばかりの村田青年がこれらの潮流と出会ったことはあっても全体を見通せるものではなかったであろう。しかも、彼の《透明技法》には、線にも面にも次元同士の交叉と空間配置の間隔に固有の動きがうかがわれ、抽象画としては色の落ち着き及び線と面の運動性を含めて独自のものがあると言えよう。同じく「季刊銀花」第39号からの引用をする。 
 
「音楽が気持ちの上にある私は、画をやりはじめたころから、色を混ぜてそれぞれの色を殺してしまうことはいやであった。それは私に濁りを感じさせるからである。」 
「音は透明である。そのために自分の好みから透明技法をやっているのである。この技法は昔からあるもので、1つの色1つの色を油でのばして重ねていくのであるが、前の色が、油が落ち着くまでは次の色を重ねることができない。それをやれば前の色が戻ってきて、色が濁ってくるからだ。描き進めていくためには、画を休ませる日数が必要だから、私は何枚もの画を同時に制作して、常にどの画かが描けるようにして、毎日14時間前後は、制作中の絵の前にいる。」 
「それぞれ異なったイメージの画を同時に制作できるということを、不思議に思われるのだが、その説明は、描いている画が私をそれぞれのところへ連れてく、というよりほかない。事実、制作を始めたら、その画は私より一歩先に出て、私に呼びかけてくれる。呼びかけてこない画は、何日でも何か月でも静かに眺めて待つのである。」 
 
 このような村田簣史雄の述懐自身が、彼の交叉的運動性を語って余りある。実際、何度か村田氏とお会いした記憶の中には、むしろ積極的に語りかけてくる能動的な人柄が今もなお笑顔で迫ってくるからである。「呼びかけてこない画」は、すでに動機が刻印されたものであって、その動機の実存的ダイナミズムが村田簣史雄の中に高まり彼を突き動かすのを彼は「静かに眺めて待つ」と言っているに過ぎないのではないか。 
 
 日本の狭い権威主義的な美術界や芸術アカデミズムが、村田簣史雄:Kishio Murataの世界から遠くはじけだされているのに対してはお悔やみの言葉もない。しかも、村田は1964年の東京オリンピックの年に、メキシコの美術評論家カリージョ・ヒルの招待を受けてメキシコに渡航しており、日本の驕慢なる半世紀に背を向けたまま1992年に世を去っている。その後、日本とメキシコ両国で10回の個人展、数回の美術展への出品が行なわれてきた。しかし、村田簣史雄の価値は日墨交流史の中に閉じ込められるべきものではない。 
 
 筆者は10年前にあるSNSの一角に次のような拙文を載せたことがある。それは学校の同僚が筆者を村田夫妻に引き合わせてくれた記事から始まる。 
《既に昨年故人となったヒルベルト・カバニャスは軍人の長男らしい鈍さを持っていた。神父になり横浜と福島のカトリック教団の中で苦しんで物事を理解できないまま、それは理解を求めていた。その魂の動きに、たぶん村田夫妻は遭遇したのだろう。 
 
 
 その「友人」に会わせてくれるという誘いのままアティサパンにあるお宅に伺ったのは既に21年前の話である。旦那さんの村田画伯は出たり入ったりしていたが奥さんは明るく話題の豊富な方で、ヒルベルトの一癖ある気取った話し方に閉口していたわたくしはいくぶん気分的にくつろいだ。当時のヒルベルトは古典的なフォルクスワーゲンに乗っていてエンジンの調子が悪かったのだが、お宅を退出した際、やはりノックを繰り返していたので「降りて調子を見ようか」と言うと、「次のあの角を曲がってから。奥さんたちがまだ見送っているから」と言う。 
 
 後ろを見ると、なるほど、さきほどお別れの挨拶をしたはずのお二人がまだ門のところでこちらに挨拶をされている。向きかえってヒルベルトに、「そう、早くあの角を曲がってくれ。」 
 
 何度か、お邪魔をすることになった。 
 
 村田さんはメキシコ生活について長居の方向音痴を発揮されていたが、確実に必要な知識を私に教えてくださった。スーパーマーケットで売っている「カスティージョ・デル・リン」言わば「ラインの城」なる格安白ワインが結構イケルこと、夜の仕事には「クーバ・リブレ」を少し飲むと気分がしっかりすることなど、これらは、そのままわたくしの生活習慣にもなってしまった。 
 
 当時、奥さんが苦労して編集された画集はすばらしい出来であった。日本で或る編集者に貸したままでいる。たぶん、メキシコ近代美術館での個人展に備えたものであったろう。オクタビオ・パスも来館して賛辞を残しているがパスは村田簣史雄が通り一遍の日本人でさえないことを結局は知らずじまいだったろう。 
 
 村田さんは82歳で他界された。事情通の0さんは「もう2,3年生きていてほしかった」と無念をあらわしておられた。わたくしの中には、チャプルテペックの美術館を出た際、村田さんが早足でわたくしを呼び止められて一緒に食事に行きましょうとおっしゃったときのお姿がまだ昨日のように残っている。 
 
 そのような優しさと、なにかれへの配慮をその作品と体で表現されていた。》 
 
 11年前に「21年前」と言っているので、筆者が村田氏のお宅を訪ねたのはメキシコの生活を始めて1年と少々の頃であった。村田簣史雄氏は日系移民の集中して住んでいるメキシコ市南部ではなく、メキシコ市から北部のサテリテという地区に出たあたりに住居を構えておられた。お庭にはメキシコの花々とともに銀杏の木が植えられ、日本への愛情が語られていた。1964年のオリンピックの年に第三世界と呼ばれる世界に足を踏み入れられた村田氏と御夫人美穂子さんだが、お二人ともお二人だけの同じ世界の住民で、お二人はお二人の世界を突き進んでおられた。小児まひで両脚のご不自由な美穂子夫人が、遠くをいつも見つめているような御主人を助手席に乗せて、颯爽と自動車で美術館や個展会場を去るのを多くの人たちは言葉を失って眺めていた。 
 
 来年、2020年に「宴のあと」の東京オリンピックが開催されるという噂がメキシコにも流れている。村田簣史雄が去った1964年から、高度成長とバブル、そしてアベノミクスの時代を挟んで、このオリンピックがどのような意味を持つのかはわからないが、日本が「失楽園」の苦行を生きるのであっても、村田簣史雄が戦中戦後の日本で、そして第三世界であるメキシコで展開した解放と自由と平和のイメージの意味とそのすがすがしい透明な放射性の明るさは変わらない。彼は晩年を知らずに描くこと、を知っていた。老いてますます若々しく奔放な画風を増していった。そのエネルギーに学ぶことを、現在の日本と日本人に知ってほしいと痛切に思う。 


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