2019年06月14日11時29分掲載  無料記事
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政治

前川喜平氏講演会「21世紀の平和教育と日本国憲法」<1>憲法を無視する安倍政権の「ネオ富国強兵」

 前川喜平・元文部科学省事務次官が、日刊ベリタの主催で4月26日に行った講演「21世紀の平和教育と日本国憲法」の全文を掲載する。前川氏は、日本国憲法に逆行する安倍政権の国家主義的教育に対して、教育行政のトップ官僚であると同時に一市民・一国民としていかに向かい合ってきたかを率直に語り、日本が再び過ちを繰り返さないために、憲法の理念を踏まえ「国際社会において名誉ある地位を占めたい」(憲法前文)と願う私たち一人ひとりに何ができるかをめぐって、講演会参加者と質疑応答を交わした。 
 
▽集団的自衛権への私の抗議行動 
 皆さん、こんばんは。今挨拶された日刊ベリタの伊藤由紀夫さんは、私の高校の同級生で、そのような関係で本日はお招き頂いた。高校を卒業してから45年ほど経過し、それぞれ違う角度から子供に関わる仕事をしてきたが、伊藤さんの方がきっと良い仕事をしてきたと思う。 
 私の方は、良い仕事をしたくてもなかなか出来ない状況で、やりたいことがなかなかできず、やりたくないことをやらされていた。その最たるものが2006年の第一次安倍政権時の教育基本法の改正であった。私個人としては、(この改正は)やりたくなかったけれどもやらざるを得なく、伊藤さんのお話の中で出た、レトリックとパレーシア(*注参照)ということを伺って納得をした。 
 
 私も、実は心の中ではパレーシアを囁きながらも、表ではレトリックばかりを駆使し、国会の予算委員会の答弁の際などは、レトリックにもなっていない、そもそも答えていないような答弁を多くしていた。国会の答弁は、出来るだけ聞かれたことに答えないように答えるというのが腕の振るいどころであったこともあり、私も現役の時はそういう答弁をしょっちゅうやっていた。まさか辞めた後、国会の参考人という形で、よもやまた国会で答弁するとは思わなかったけれども、加計学園問題などで質問に答えた際は、一切計らいの必要がないので楽であった。自分の知っていることは知っている、知らないことは知らない、思っていることは思っていると答えれば良い訳であるから、楽であった。現役の時の答弁は、頭の中で色々と回路をフル回転させて、「これは言っちゃいけない」とか「言わないといけない」とか、「これはこういう風に言わないといけないんだ」などと、組織の中のレトリックに沿って答弁しなければならず、そちらの方が緊張をしていた。 
 
 私自身は、特に文部科学省に38年間所属し、その内の最後の数年間は第二次安倍政権の下で仕事をしていたので、組織の方向性と自分の思っていることとのギャップに苦しんだ。中でも、文部科学省が直接関わってはいないものの、安全保障関連法と言われるものは、私の心の中ではどう考えても違憲であると感じていた。集団的自衛権を認めるとういう前年の2014年・閣議決定の時から「これはおかしい」、「こんな閣議決定ができるはずがない」、「この閣議決定は違憲・無効である」と心の中では思っていた。しかし、「集団的自衛権が憲法9条の下で認められる」という解釈のもとで安保法制が立案されて国会に提出されるとともに、それが衆議院でも参議院でも強行採決で成立させられてしまった。私はその間ずっと「これは違憲だ」と思っていたため、国家公務員であり、安倍内閣の下で仕事をしていたけれども、一個人・一国民として、「これには反対だ」という意思表示をどこかでしておきたいと考えていた。 
 
 私は元々、あまり政治的な活動をしていた訳ではなく、高校生の時も大学生の時もノンポリだった。しかし、この安全保障法制に関しては、「一言でも声を出したい」という気持ちがあったことから、2005年9月18日にこの法案が参議院の本会議にかかり、そこを通ったら法律として成立してしまうという前夜、「これはラストチャンスだ」、「ここで国民として反対の声を上げなくては言える日がなくなってしまう」という思いで、文部科学省で仕事を終えた後に国会正門前まで歩いて行った。そこで『シールズ(SEALDs=自由と民主主義のための学生緊急行動)』に混じって、『シールズ』の若者達の後ろの後ろの後ろの方で、一緒に声を出していた。この日は雨の降る夜で、傘を差して夜陰に紛れて行ったという感じだった(笑)。『シールズ』の若者の後ろの方で、彼らの声に合わせて私も声を出していた。彼らは従来型のシュプレヒコールは行わず、現代的でリズミカルなラップのコールを行う。「憲法守れ」、「9条守れ」、「アベは辞めろ」などと言っていたので、私も一緒に「アベは辞めろ」と言っていた(笑)。それから、「集団的自衛権はいらない」といった、一見散文的な文章をラップのリズムに乗せてコールするので、頭に残り、家に帰って風呂に入りながらも「集団的自衛権はいらない」と口ずさんでいた。 
 
▽個人より国家優位と自民族中心主義への回帰 
 「憲法9条の下で集団的自衛権が認められるはずがない」。従来の最高裁を始めとする裁判所や内閣法制局、個別的自衛権までは認める解釈をする人であっても、集団的自衛権を認めるという考えはその時まで全くなかったはずである。ところが安倍政権は、無理矢理、法制局長官のクビをすげ替え、内閣法制局から「集団的自衛権が認められる」という見解を引き出し、閣議決定し、さらにそれに基づいて法案まで作った。これはもう暴挙と言うほかはない。これは憲法を壊す「壊憲」に他ならず、国民がつくった憲法に基づいて仕事をし、憲法を守って仕事をしなくてはならないはずの政府において、憲法を無視するという点で、立憲主義にも背く行為と言わざるを得ない。 
 
 安倍政権は、政権への支持を勝ち取るための方法として取れる手段は何でも取ることから、このような暴挙がまかり通ってしまう。国民の中で近隣諸国の軍事的脅威を煽るというのもその一つで、北朝鮮、中国、韓国に対しては特にそれが顕著であった。近隣諸国でそのような煽りをしなかったのはロシアだけで、ロシアに関しては逆に、ベタベタと寄り添って行って、首脳会談を繰り返して北方領土を返してもらおうと企んでいた。しかし、結局それも水泡に帰しており、完全に失敗に終わったと言っても良い。一方、中国、北朝鮮、韓国に関しては、徹底的に脅威を煽っており、特に北朝鮮のミサイルに関しては「Jアラート」などというものを使って国民に恐怖心を植え付けている。特に私が許せないと感じているのは子供たちに恐怖心を植え付ける行為で、「Jアラート」を使って小学生が避難訓練を行うことなどがそれにあたる。 
 
 安倍政権の取っている政策を私なりに性格付けをしてみると、「ネオ富国強兵政策」と言って良いと思っている。これは国を富ませると言って、国民は富んでおらず、一部に富が集中しているものである。この「一部に集中した富」が政権を支えており、富と権力がくっついているともいえる。古今東西このような傾向はあるが、その中で進めようとしている政策が国家を個人よりも重要なものとして考える戦前回帰の思想である。そしてその国家とは単一民族国家であって、自民族こそが優秀であるという自民族中心主義となる。自民族が中心だというエスノセントリズム(ethnocentrism)と一体となったナショナリズム、国家主義である。これは取りも直さず戦前の国体思想とほぼ同じものを指し、これが安倍さんの思想と言えるものである。 
 
▽「令和」は絶対に使わない 
 私は来月から元号を使わずに西暦だけで暮らせないかと思っている。使うとしたら平成32年、33年のように平成をそのまま使い続けられないかと(笑)。それくらい令和という元号は絶対使う気になれない。令和という元号は、中西進さんという万葉学者が案を作ったと言われているが、結局、安倍晋三さんが自分で気に入って選んだと考えざるを得ない。 
 「令」は、令夫人、令嬢、令室のように「立派な」とか「美しい」という意味に使われることもあるが、「命令・号令」の令を指すものである。次の「和」という字も、多くの人が明治・大正・昭和などの元号で使わなかった漢字を使うと思っていた中、「昭和」に続きもう一度同じ文字を使っている。私は、和という漢字に安倍さんがこだわっていたと思っている。和というのは「平和」の和ではなく、和の国、和国というような「日本」という意味だと思っている。令という字を「命令」と考えれば、「日本国中に命令する」という意味になるし、令という字を「美しい」という意味に解釈すれば、「美しい国、日本」となる訳だ。そういう意味で、非常に「安倍チック」な元号だと感じているため、安倍さんが選んだ「令和」という元号は絶対に使わないつもりでいる。 
 
 そもそも国書である万葉集を典拠にしたと言っているが、そのまた典拠は中国の古典である。安倍さんを中心とする国家主義者の人たちは、日本文化というのを殊更に大事にするが、日本の文化は色々なものが入り交じって出来ているため、日本文化という純粋なものがあるかと言うと疑問がある。万葉集も漢字で書かれているわけであるから、令和という元号の典拠になったものも結局は中国の古典に依拠していることとなる。大伴旅人、大伴家持、柿本人麻呂にしても、漢籍の教養の基に文化を開いている。文化というものは色々と交じって、交流して発展していくもので、純粋な日本文化を想定すること自体に問題がある。 
 
 安倍首相が元号を発表した際の記者会見で、多くのメディアが聞き流した一方で、私が問題に感じた言葉がある。それは「國柄」という言葉である。安倍さんは記者会見の時に「国柄」という言葉を使い、「日本の國柄を次の世代に引き継いでいく」と言った。国柄という言葉を使う人は非常に注意を要する危ない人たちで、一番この「國柄」という言葉を使う有名人は、櫻井よしこ様である(笑)。この方はよく「國柄、國柄」と言い、これはまさに戦前の「國體」のことを指す。私は戦前の國體という言葉は、今の漢字で書くと国民体育大会になりますから、「万世一系の天皇がこの国を治める」という意味の「國體」を表す時には古い漢字で書くことにしている。安倍首相は令和の元号を説明する際に、「日本の国柄を次の世代へと引き継いでいく」という言葉を使っており、これはまさに「國體の護持」を意味しているのではないかと感じる。そういう言葉をサラッと言うという意味で、「国柄」という言葉を使う人を、私は信用出来ないと思っている。 
 
 人はそれぞれ個性があるので、「人柄」というものはあって良いと思う。伊藤さんのように穏やかな人柄と、私のようにちゃらんぽらんな人柄(笑)、そういう人柄はあると思う。しかし、同じ「〜柄」という言葉でも、「家柄」とか「国柄」という言葉は死語であると感じる。日本国憲法の下で、「家柄」などは存在しないし、日本国憲法の下で「国柄」なんてものも存在しない。私は「家柄」とか「国柄」という言葉を使う人は問題があると思う。死語として、「こういう言葉が昔は言われていたな」という意味で使うのであればよいが、今の日本の国の中に存在するものとして「家柄・国柄」という言葉を使う人は、私は非常に要注意だと思う。安倍さんは、その「国柄」という言葉を平気で使っている。「個人ではなくて国家の方が優位に立つ」と考え、その人間を国家への忠誠心や国家への寄与・生産性ということで評価していく。 
 その方向性は、先程言った「ネオ富国強兵政策」で、その「ネオ富国強兵政策」の手法の一つは軍事優先の思想と結びついた国家主義である。「富国」とは新自由主義で、弱者を切り捨てることを指す。こういう弱者切り捨ての新自由主義と、軍事優先の国家主義により「ネオ富国強兵」を進めていくというのが安倍政権の本質だと思っている。(つづく) 
 
*パレーシア:古代ギリシャ語。明るい率直な語り、時に勇気をもって真実を語ることを意味する。ソクラテスが実践したものであり、晩年に至ったミシェル・フーコーが、「飾ってうまく語ること」即ちレトリックと対比すべきものとして、レトリックの欺瞞を暴くもの、権力への抵抗方法のひとつとして、重視した概念。 


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