2019年08月02日20時48分掲載  無料記事
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教育

「親権」とは何か?−「家族」「親子」を考えるための基礎作業(3) 池田祥子:前こども教育宝仙大学

■ちょっとタンマ! 
 
  前回(2019.7.3アップ)の原稿で、私は児童福祉法および児童虐待防止法の改訂で(6月19日)、「親による体罰禁止」が両法に規定されたことを、「日本としては画期的なことである」と評価している。そして続けて次のような希望的観測を付け加えている。 
 
  ―これを第一歩として「しつけとしての体罰」「親の愛情としての体罰」が真に反省され、減少していくことを望むばかりである。 
 
  しかし、やはり「ちょっとタンマ!」である。 
 
  学校教育ではすでに「体罰禁止」は法定され、いまも教師や部活動の監督などによる「体罰」が発覚すれば、それは即座に処罰の対象となっている。しかし、それでも「体罰禁止」が法定されたことの本音のところでの良し悪しは、教師、生徒の間でも未だにうやむや、すっきりしていないのではないだろうか。「体罰」とはすなわち、読んで字の通り「体に苦痛を与える罰」のことである。「殴る、蹴る、突き飛ばす、鞭打ち」などの暴力的行為は見えやすい。しかし、グランド10周や、トイレ掃除、特別の宿題、さらには、仲間外れ、存在の無視、言葉による脅し、軽蔑等々、現実にはなかなか微妙である。「体罰禁止」が法定されて、教師と生徒の関係は、すっきりフランクなものになっているのだろうか。 
 
   家庭や親子の間柄ではどうだろう。もちろん、ここでも、殴る、蹴る、突き飛ばす、床に突き落とす、あるいは布団や毛布でくるんで窒息させる・・・等々の暴力的行為は子どもの命を奪ってしまう。これは論外である。だが、たびたび「児童虐待」という言葉で報道されるケースには、このような親の行為が目立っているのも事実である。 
   これらは明らかに痛ましい事件である。しかし、けっして稀有なことではなく、しばしば似たような事例が繰り返されている。だからこその「体罰禁止」の法定化だったのだろうとは思う。 
 しかし、「体罰禁止」が法定化されたからには、これからは、体罰を振るう親は、即座に「法律違反」として逮捕されることになる。・・・わたしたちは、このように特定の親を犯罪者として断罪することを望んだのだろうか。 
 
   本当に必要なことは、その親たちが、なぜそこまでの暴力行為を行ったのか? それに至った背景、理由をこそ徹底的に知るべきなのではないか? 親に命を奪われた痛ましい子どもたちの名前が、例外なくどれも素敵である。いま流行りのキラキラネームが多い。その親による「命名」の事実から、被害に遭った子どもたちもまた、生まれ出た瞬間は、その親たちの喜びと期待に取り囲まれていたことが分かる。 
 
   それがどうして、命を奪われるまでに至ったのか? 親たちは、どうして途中でSOSを発することができなかったのか? もっとも、いま現在、日本には親たちのSOSを受け止める社会的な装置がどのくらい整えられているのだろうか? それが不足している、あるいは不十分なのだったら、それらこそ整備される必要があるのだろう。 
 
  「家族」といえども、いまでは地域に支えられている訳でもなく、小さく孤立している家族が多い。それら「家族」や「親」たちは、責任や義務を強要される前に、まずは、充分に支えられなければならないのではないか。経済力? 相談相手? 子どもを預かってもらえる場所? 足りないものは即、社会的に補充され補強されなければならないだろう。 
 
■「子どもの権利」から「保育所」を考える 
 
  「すべての子ども」を対象として制定されたはずの児童福祉法の下で、ある限定された子ども(乳幼児)のためだけの保育所が制度化されてきたことを、わたし自身も一貫して問題にしてきた。幼稚園と保育所とが、行政の管轄が違う「二元体制」になっていることを批判し、「幼保一元化」であるべきだと主張もしてきた。 
 
   しかし、現在は、中途半端な「一体化」政策の下で、結果としては、「幼保連携型認定こども園」の他、今まで通りの「幼稚園」「保育所」の「三本体制」となっている。 
 
  一体、何が問題なのだろうか? 
 
   それはやはり、日本社会自体が、「子どもの権利」を真っ当に受け止められていないためかもしれない。国連に倣って「児童(子ども)の権利条約」を批准し、それに基づいて、児童福祉法や民法まで改訂されたというのに、相変わらず「親権」が生き続けている。 
 
  「子どもの権利」を出発点にして、児童福祉法も、民法も根底から編成し直される必要があるというのに・・・。 
  今回は、改めて、「保育所」ということに限定して考えてみよう。 
  「子どもの権利」の視点に立てば、「保育所」とは、親や家庭から離れた子どもの「育ちの場」である。大人である保育者と同年齢、異年齢の仲間たちが居る場である。そこは、親が希望しさえすれば、誰でもが入所できる場であるはずだ。なぜなら、子どもの「育ちの場」であるからであり、親にとっても、息抜きを含めて、親の生活を成り立たせる場であり、さらに、親自身が、他の子どもや親、保育者と出会うことによって、「子育てとは?」を「学ぶ場」でもあるからである。 
  にもかかわらず、現実の保育所とはどのような制度になっているのか? 
  1951年の児童福祉法の改定によって、保育所とは「保育に欠ける」子どもにのみ限定される施設となった。「保育に欠ける」とは、本来、家庭で母親によって子育てされるべきなのに、それが母親の就労や病気療養などのために不可能だからこそ、保育所が引き受ける・・・と言う訳である。 
 
  「保育に欠ける」という入所規定ができたために、戦後当初は、「家庭にいられない可哀想な子どもたち」という社会的な視線を注がれたものだ。乳幼児を保育所に預けて働く母親もまた「酷い母親」と非難された。さらにまた、大半は税金が投下される施設であるために、入所に当たっては、「本当に、保育に欠けているかどうか」を厳しく審査された。 
 
  この「保育に欠ける」入所規定が変更されたのは、1997年の児童福祉法の改訂以降である。これ以降、保育所は行政の上からの「措置制度」ではなくなり、親たちが希望して利用できる制度に様変わりしたはずであった。 
 
  しかし、残念なことに、保育所は、すべての子どもと親たちにオープンに開かれたわけではなかった。希望すれば誰でも保育所に入れるわけにはいかないのである。保育所に入所できるのは、「保育を必要としている」ケースに限定されなおしただけである。 
 
  それはなぜか?それは、日本では今なお、「三歳までは、家庭で、母親の手で育てられるべきである」という「三歳児神話」が根深く生き残っているからであろう。それと同時に、乳幼児のための施設は、大勢を集めて「合理的に」運営する、という訳にはいかない。手間もかかるし、お金もかかる。「生産的」ではないことも、今の政府のネックになっているのだろう。 
 
  現実には、子どもを産んだ親たちは、子どもが加わったことからもさらに経済的に働くことを余儀なくされ、子どもが保育所に入ることを死活問題として希望しているにもかかわらず、保育所入所の壁は厚い。 
 
  保育所に子どもを預けなければ働けない親たち、あるいは職探しもできない親たちは、「保育を必要としている」度合いに応じて、入所を審査され、選考され、篩にかけられるのである。「保育を必要としている」かどうか、またはその度合い・・・、たとえば、1就労 2妊娠・出産 3疾病・障害 4親族の介護・看護 5災害復旧 6求職活動 7就学 8虐待やDVのおそれ 9育児休業取得時の継続利用 10,その他市町村が定める事由など。 
 
  決められた点数によって審査され、保育所の入所が○×と判定される制度とは? それは親を困らせ苦しめ、結局のところ、子ども自身の生きる場を奪っていることになるのではないか。(続) 
 
 
池田祥子:前こども教育宝仙大学 
 
 
ちきゅう座から転載 


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