2019年08月04日15時11分掲載  無料記事
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社会

「表現の不自由展・その後」が実証した、我が国の表現の不自由。 澤藤統一郎(さわふじとういちろう):弁護士

表現の自由は、民主主義社会の血液である。表現の自由が十分に保障されている社会こそが、活性化した民主主義社会である。表現の自由が枯渇するとき、民主主義も窒息し死に瀕する。民主主義社会においては、表現の自由は最大限尊重されなければならない。 
 
表現の自由とは何か。権力を批判する自由のことである。権威に恐れ入らない自由である。社会の多数派に与しない言動の自由である。けっして、安倍政権に忖度をする自由ではなく、天皇に阿諛追従する自由でもなく、国民の時代錯誤の差別意識に便乗して韓国や在日をバッシングする自由ではない。権力や権威や社会の多数派には、相応の寛容の姿勢が求められるのだ。 
 
日本に表現の自由はあるか。国境なき記者団が毎年発表しているのは「世界報道自由度ランキング(Press Freedom Index)」。表現の自由よりは狭い「報道自由」についてのものだが、日本の地位は180か国中67位である(2019年)。安倍政権成立前の2011年が11位。12年が22位だった。安倍政権成立後の13年に突然53位と順位を下げ、以後、59位、61位、そして72位となって、70位前後を低迷している。韓国(41位)、台湾(42位)などの後塵を拝している。さもありなん。 
 
そのことを自覚せざるを得ない事態が今進行しつつある。愛知で行われている「トリエンナーレ 『表現の不自由展・その後』」でのことである。「表現の自由展」ではなく、「表現の不自由展」というタイトルが刺激的である。この展覧会のホームページには、展示の趣旨をこう述べている。 
 
<「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。> 
 
権力から、権威から、そして社会的多数者の側から排斥された表現、つまりは保護さるべくして保護されなかった表現の実例を集めた「表現の不自由展」なのだ。わが国における表現の自由保障が、いかに形骸化し脆弱であるかの展覧会。ところが、その展覧会自体の成立が危うくなっている。まさしく、忖度や、多数派の暴力的恫喝によってである。わが国における表現の自由の喪失を満天下にさらけ出す事態となった。 
 
主催者側は、「開会初日の8月1日だけでテロ予告や脅迫ともとれる内容を含む批判的な電話が200件とメールが500件」「2日も、ほぼ同数の電話やメールが殺到した」と公表している。この社会は病んでいる。恐るべき事態ではないか。 
 
8月2日、展覧会を視察に訪れた河村たかし名古屋市長は、「平和の少女像」に関して、次のように述べたと報じられている。 
 
「ほんとにまあ、ワシの心も踏みにじられましたわ、これ。ということで展示を即刻中止して頂きたいですね」「芸術かどうかは知りませんけど、10億も使っている」とコメント。「これを反日作品だと解釈しているのは市長の側では?」との質問には「なにを言ってるの。誰でもそう思ってるじゃないですか?」と応じた。 
 
「ワシの心も踏みにじられましたわ」は、舌足らずで意味不明。この「平和の少女像」自体が人の心を踏みにじる作品ではあり得ない。少女像をめぐる一連の論争によって、「ワシの心も踏みにじられた」ということなら、あり得ることだろう。が、近代の日韓の歴史を真摯に見つめようとする立場からは、それこそが心ない物言いというしかない。「ということで展示を即刻中止」という表現の差し止め要求は、表現の自由を蹂躙する傲慢極まりない姿勢と言うほかはない。 
 
日本有数の大都市の市民を代表する市長ともあろう人が、このような粗暴な発言をすることを日本の社会が許容している。いや、むしろこの市長は、韓国民や韓国との協調を望む日本人に不愉快な思いをさせることを承知で、声高にこの少女像の撤去を求める発言をしているのだ。この粗暴な発言が自分の政治的な支持者にアピールすることになると計算してのことである。 
 
表現は、権力や多数派にとって歓迎すべからざる内容であればこそ、その自由を保障することに意味がある。「ワシの心も踏みにじられる」表現こそ、保護されなければならない。「カネを出しているのだから、県や市の意向に従え」と言ってはならない。ましてや、「これを反日作品だと解釈」して、撤去を要求するのは、政治的弾圧というほかはない。日本における表現の不自由はここまで来ている。日本の民主主義は、本当に危うい。 
(2019年8月3日) 
 
 
澤藤統一郎(さわふじとういちろう):弁護士 
 
 
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.8.3より許可を得て転載 
 
http://article9.jp/wordpress/?p=13072 
 
ちきゅう座から転載 


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