2019年08月17日00時11分掲載  無料記事
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コラム

ニューヨークタイムズへのイアン・ブルマの寄稿文 明仁天皇(当時)の退位前の発言と東アジアの未来像

  イアン・ブルマと言えば日本とドイツの戦争体験の記憶を書いた”The Wages of Guilt"(戦争の記憶〜日本人とドイツ人〜)で知られるオランダの研究者です。第二次大戦の歴史と記憶の問題を、ドイツと日本の双方を比較しながら語った、という点で画期的な本でした。 
 
  そのブルマ氏が8月14日付のニューヨークタイムズに”Cold War in East Asia never ended "(東アジアの冷戦は決して終わらなかった)という一文を寄稿しています。これは現在、韓国と日本が対立を深めていることを題材にしています。「戦争の記憶」でもそうでしたが、歴史を見つめながら、広い視野でものごとを語っていくスタイルです。今回もブルマ氏は中国とアメリカ、ロシアの関係も含めて、過去の近代の頃から語っていますが、とくに筆者が驚いたのは、明仁天皇(当時)が退位前に天皇家の先祖に朝鮮のルーツがあった、と語った言葉を紹介していたことです。ブルマ氏によるとこの言葉は退位の時に語って日本人をびっくりさせた、とありましたが、筆者は知りませんでした。 
 
 インターネットで検索してみると、2001年にも英国のガーディアン紙でジョナサン・ワッツという人が明仁天皇(当時)の発言に関する記事を書いていました。この時は2002年のワールドカップの日韓共催の前。 
https://www.theguardian.com/world/2001/dec/28/japan.worlddispatch?fbclid=IwAR32QUUMo6k4pCQueasq9_Ih7c9PfFZK-BDuQL9hQYJ8c4FiD54JjIr2x9I 
  "I, on my part, feel a certain kinship with Korea, given the fact that it is recorded in the Chronicles of Japan that the mother of Emperor Kammu was of the line of King Muryong of Paekche," he told reporters.”(The Guardian) 
 
  ここでは明仁天皇(当時)が朝鮮半島にある種の親しみを感じており、その理由は「日本書紀」の中に桓武天皇の母が百済の武寧王の血族である、という記述があるから、という話を記者に語ったと記されています。また、ガーディアン紙は宮内庁が天皇陵の調査を規制している理由として天皇家のルーツが朝鮮からだったことが暴かれるのを恐れている、という見方があることを紹介しています。天皇を神と見なす人にとって朝鮮ルーツ説は認めることができないことかもしれません。 
 
 さて、14日のニューヨークタイムズで、ブルマ氏は激しさを増す日韓の衝突によって未来の東アジア像が変わっていく可能性を示唆しています。アメリカが日米安保条約から手を引いた場合、日本と関係の悪化した韓国は日本と組むのではなく中国と組み、日本は憲法改正をして核武装して東アジアで孤立を保ち続ける、という1つのイメージです。もちろん、必ずこうなると言っているのではないですが、1つの可能性があると言うのです。これは核兵器を保有した徳川幕府の300年みたいなイメージでしょう。この見方の背後にはアメリカのトランプ大統領の行動がはっきりと見通せないため、不安定な要素があることがあります。 
 
 
※イアン・ブルマ著「戦争の記憶〜日本人とドイツ人〜」より 
  「(アウシュビッツ記念館の)第11収用棟は〜ここでは多くの人々が拷問にあったのだが〜今は受難者の聖堂となっている。花輪と蝋燭が受難者を追悼する。展示される受難者の大半は冷戦終結で展示の内容が変わり始めるまでは共産主義者だった。受難と言うものは信念や理念、国家あるいは信仰という枠組みの中にある見方である。受難の死は悲惨であるが、しかし、そこには深い意味を見出すことができる。プリモ・レヴィにとっての悪夢はユダヤ人が迫害されているその訴えに耳を貸すことがなかった静謐な「世界」で生き延びてしまったことであり、その耐え難い苦しみだった。数百万人もの人々が意味もなく殺されたそのことが耐えられないことなのだ。だからこそ、人々は受難者と呼んだり、十字架を立てたり、信仰の儀式を行うことなどによって、そこに意味を見出したいのである。」(拙訳による) 
 
 「(東ドイツの場合)1950年に行われた悪名高いヴァルトハイマー裁判では、任命された判事や検察官たちは、(ナチ戦犯の)被告たちの罪は明白であるから証人も弁護人も記録などの証拠も不要だと告げられた。これは東独で行われた一連のナチ犯罪の裁判の末期のものの1つである。その後、1957年までにあと2回、裁判は行われたが以後は皆無だ。結局、およそ3万人が裁判にかけられ、500人が死刑となった。西ドイツの場合は被告はおよそ91000人に上ったが、一人も死刑にならなかった。というのは西独では1949年に作られた憲法で死刑が廃止されたからだった」(拙訳による) 


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