2019年08月20日10時57分掲載
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検証・メディア
昭和天皇の戦争「反省」報道への疑問 何を反省し、なぜ国民に表明しないのかは不明
昭和天皇が戦争への強い「反省」の気持ちを表明していた、という文書が大きく報道された。では戦争の何について反省していたのか、なぜ国民にそれを示さなかったのかは、メディアは解説してくれない。天皇は1975年の記者会見で戦争責任を問われ、答えをはぐらかし、広島、長崎への原爆投下についても「戦争中なのでやむを得ない」と述べている。日本国憲法が施行された直後の1947年には、天皇は米軍による沖縄の軍事占領の継続を希望するメッセージを米政府に伝えている。こうした姿と今回の文書での発言はどう関係するのだろうか。(永井浩)
報道された文書は、初代宮内庁長官だった田島道治が在任中の昭和天皇とのやりとりを詳細に記した「拝謁記」。田島の遺族から提供された文書をNHKが放映し、NHKが新聞などのメディアに公開した一部が報道された。
それによると、昭和天皇は、戦争への後悔を繰り返し語り、敗戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したが、当時の吉田茂首相の反対でその一節が削られていたことがわかったという。
NHKは、文書の分析にあたった専門家の、「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」との話も紹介している。
報道された事実は間違いなくその通りだろう。だとしたらなおさら、その後の天皇の公的発言とは何だったのかという疑問がわいてくる。
▽昭和天皇の戦争責任は不問
昭和天皇は、初の訪米を終えて帰国したあとの1975年10月31日の記者会見で、訪米の成果について問われると、「日米両国の友好親善が深まると信じている」述べた。しかし、天皇の戦争責任について問われると、「そういう言葉のアヤについては、私は文学方面を研究していないのでわかりません。したがってそういうことにはお答えできません」とかわした。つづいて、「原爆投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか」との質問に対しては、「遺憾に思っているが、戦争中のことでもあり、市民に対して気の毒だったが、やむ得ないことだと思っています」と述べた。
戦争責任について質問したのは、英国メディアの記者だった。原爆投下の質問者は、広島から上京した中国放送記者だった。いずれも在京の日本の大手メディアではなかった。
内外記者50人が出席した会見の様子は、同日夕のテレビで放映され、新聞は翌日付朝刊の一面トップで報じた。だが、朝日、毎日、読売は、戦争責任と原爆投下に関する天皇発言について社説で論評することはしなかった。
そして1988年9月の天皇重体報道とともに、全国に「自粛」ムードが広がり、翌89年1月7日の天皇死去を報じる新聞、テレビは、昭和天皇を「慈悲深い平和主義者」に仕立て上げた。開戦防止は立憲君主として不可能だったがその制約を超えて終戦の「ご聖断」を下した苦労や、戦後の平和と繁栄への象徴としての貢献、天皇の人柄の賛美、そして新天皇への期待とそのもとでの国民統合が各紙の基本的なトーンだった。
今回の戦争への反省発言報道は、こうした昭和天皇像をあらたに補強する役割を果たしていないだろうか。
昭和天皇の死去は世界のほとんどの国のマスメディアでトップニュースとして流されたが、多くは日本メディアの報道とは異なる内容だった。
韓国の東亜日報は、アジア諸国に対する日本の支配が「天皇」の名で行われたことは厳然たる事実であると指摘、「にもかかわらず、彼の戦争責任は峻厳に問われていない。ドイツやイタリアとは異なる戦後処理だ」と書いた。米紙ニューヨーク・タイムズは、歴史家や日本国民自身の間では、ヒロヒトが戦争中に果たした役割の詳細な点については意見が分かれているとしながらも、「彼はその後、日本が目覚ましい勢いで繁栄し、大国となっていく過程で、国民統合の象徴としての役割を果たしきった」と評した。英紙タイムズは、天皇だけでなく日本人の戦争への向き合い方にも目を向けた。ヒロヒトの死は、彼の名の下で行われた侵略戦争の犠牲者に哀悼の気持ちよりも苦痛に満ちた記憶を呼び起こすだろうから、「その死を喜びとさえ感じる人がいるかもしれない」。また「ヒロヒトが戦後も天皇であり続けたことは、日本人の戦争への罪悪感を軽減させ」、ヒロヒト個人が果たした役割について今も覆い隠されたままなのは、「西洋の目では集団的な責任隠しと映る」と手厳しい。
▽沖縄の犠牲「やむを得ぬ」で一貫
国内では、沖縄タイムスが「『天皇メッセージ』の真相」と題する社説を掲載した。
同メッセージは、日本国憲法が施行された直後の1947年9月に、昭和天皇が側近を通してGHQに伝えたもので、米軍による沖縄の軍事占領の継続を希望し、それが「米国に役立ち、また、日本に保護を与えることになる」としている。また沖縄の統治方式にも言及して、「天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の、二五年から五十年ないしそれ以上、貸与をするという擬制のうえになさるべきである」とも述べている。
1975年に明らかにされた同メッセージは、日本の安全のためには沖縄を犠牲にしてもいいという考え方が、沖縄戦から戦後の現在まで続いていることを示すものとして、沖縄県民に大きな衝撃を与えた。
沖縄タイムスの社説は、天皇メッセージの真相について1988年の天皇の記者会見で記者が質問しようとしたところ、宮内庁に「尋問のような質問にお答えいただくわけにはいかない」と拒否された事実を明らかにし、「直接、ご本人からお伺いする機会は永久に閉ざされてしまった」と記す。そして「平成の時代に移ったが、沖縄は昭和を忘れるわけにはいかない。住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦、戦後も安保条約の下で膨大な米軍基地を押し付けられている沖縄。二度と沖縄が本土防衛の�犲里得亅瓩砲覆襪茲Δ覆海箸�あってはならない。沖縄戦の体験を抜きにして平和は語れない。時代が変わっても、沖縄が『昭和』を問い続ける理由である」とむすぶ。
今回の「拝謁記」についても、琉球新報は本土メディアとは違う角度から報じた。「一部の犠牲やむ得ぬ 昭和天皇、米軍基地で言及」と題する社説は、以下のように論じている。
全国各地で反米軍基地闘争が起きる中、昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。
専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の「天皇メッセージと同じ路線だ」と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について「反省していたかは疑問だ」と述べた。
田島元長官の遺族から史料提供を受けたNHKが19日、遺族の意向を踏まえ一部を公開した。
それによると、対日講和条約発効により琉球諸島が日本から切り離され米統治となった一方、日本が独立した翌年の53年11月24日の拝謁で昭和天皇は沖縄への具体的言及はないものの基地問題について発言した。
昭和天皇は「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為ニ之がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ一部の犠牲となる人ニハ全体から補償するといふ事にしなければ国として存立して行く以上やりやうない話」だとした。
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