2019年12月01日21時43分掲載  無料記事
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政治

 中曽根康弘、死去。その悼み方は? 根本行雄

 中曽根康弘元首相が、11月29日、死去した。101歳だった。人の評価は死後に定まるという。政治家ならば、功罪半ばというのがは当たり前だろうが、今のところ、マスコミなどでは、あまりにも、中曽根を褒める声が多い。このような評価がはびこるのはどんなものだろうか。 
 
 人の評価は死後に定まるという。しかし、今のところ、マスコミなどでは、あまりにも、褒める声が多い。ほんとうに、中曽根は褒められるばかりの政治家だっただろうか。大いに疑問である。 
 
 中曽根の略歴を、ウィキペディアの記事から引用しておこう。 
 
1918年(大正7年)5月27日 - 群馬県高崎市末広町に生まれる。 
 
1941年(昭和16年) - 東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、内務省に入るが、海軍短期現役制度により海軍主計中尉に任官[2]。呉鎮守府に配属され、第二設営隊の主計長に任命される。終戦時は海軍主計少佐。終戦後、内務省に復帰。 
 
1946年(昭和21年) - 内務省を依願退職。 
 
1947年(昭和22年) - 第23回衆議院議員総選挙で立候補、初当選。 
 
1953年(昭和28年) - ハーバード大学の夏期セミナーに留学。大学院生だったキッシンジャーなどと人脈を築いた。 
 
1954年(昭和29年)- 3月、当時、日本学術会議を飛び越して、日本で初めて超党派の政治家らと「原子力予算[3]」を国会に提出して成立させる。この頃、正力松太郎に近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。正力と2人で政界における日本の原子力政策推進の両軸となる。 
 
1955年(昭和30年) - 12月、原子力基本法案を議員立法で成立させる。 
 
1959年(昭和34年) - 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。 
 
1966年(昭和41年) - 旧河野派が分裂し、中曽根派が結成される。 
 
1967年(昭和42年) - 第2次佐藤内閣第1次改造内閣の運輸大臣に就任。 第12代拓殖大学総長に就任(1971年より名誉総長)。 
 
1968年(昭和43年) - プロスポーツ団体の連合体である日本プロスポーツ会議創立に伴い初代会長に就任。 
 
1970年(昭和45年) - 第3次佐藤内閣で防衛庁長官となる。 
 
1971年(昭和46年) - 第3次佐藤内閣改造内閣で自民党総務会長に就任。 
 
1972年(昭和47年) - 第1次田中角栄内閣の通商産業大臣に就任(科学技術庁長官兼務)。第2次田中角栄内閣では通産大臣専任となる。 
 
1974年(昭和49年) - 三木内閣で幹事長に就任。 
 
1977年(昭和52年) - 福田赳夫内閣改造内閣でまた総務会長となる。 
 
1978年(昭和53年) - 自由民主党総裁選挙に初出馬する。 
 
1979年(昭和54年) - 総選挙の敗北を受けた「四十日抗争」時には大平正芳首相に対して退陣を要求する。 
 
1980年(昭和55年) - 鈴木善幸内閣の行政管理庁長官に就任。 
 
1982年(昭和57年) - 第71代内閣総理大臣に就任。第1次中曽根内閣を発足。国鉄、電電公社、専売公社の民営化を行う。外務大臣に安倍晋太郎を起用。 
 
1983年(昭和58年) - 第2次中曽根内閣発足。内閣官房長官に藤波孝生、文部大臣に森喜朗を任命。 
 
1984年(昭和59年) - 第2次中曽根内閣第1次改造内閣発足。内閣官房副長官に山崎拓を抜擢した。 
 
1985年(昭和60年) - プラザ合意により、円高を容認。12月には内閣改造を行う(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)。農林水産大臣に羽田孜を、自治大臣に小沢一郎を起用する。 
 
1986年(昭和61年) - 衆参同日選で大勝。第3次中曽根内閣発足。大蔵大臣に宮澤喜一を、運輸大臣に橋本龍太郎を任命。 
 
1987年(昭和62年) - 売上税の導入失敗が原因で支持率が急降下するが、やがて人気を取り復した。竹下登を後継総裁に指名して退陣。 
 
1989年(平成元年) - リクルート事件に関与して自民党から離党。 
 
1990年(平成2年) - 派閥を渡辺美智雄に譲る。 
 
1991年(平成3年) - 自民党に復党。 
 
1996年(平成8年) - 自民党の比例北関東ブロックにおける終身一位を保証される。 
 
1997年(平成9年) - 大勲位菊花大綬章を受章。 
 
1999年(平成11年) - 江藤隆美、中尾栄一、与謝野馨、村上正邦、佐藤静雄らで構成する中曽根派と亀井静香率いる亀井グループが合併し「志帥会」を結成。中曽根は最高顧問に就任。 
 
2001年(平成13年) - 森首相退陣後の総裁選に出馬した亀井静香に総裁選辞退を進言し、亀井はこれを受諾する。 
 
2003年(平成15年) - 小泉純一郎首相から定年制導入のために引退を要請され、当初は反対するも最終的には政界から引退。 
 
では、思いつくままに、チェックしてみよう。□はチェック項目である。 
 
□ 原発の推進 
 
1954年(昭和29年)- 3月、当時、日本学術会議を飛び越して、日本で初めて超党派の政治家らと「原子力予算[3]」を国会に提出して成立させる。この頃、正力松太郎に近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。正力と2人で政界における日本の原子力政策推進の両軸となる。 
 
1955年(昭和30年) - 12月、原子力基本法案を議員立法で成立させる。 
 
1959年(昭和34年) - 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。 
 
中曽根は原子力発電を推進した一人である。 
 
□ 国鉄民営化における人権侵害 
 
 中曽根が主導した国鉄の分割民営化は、政府が組合つぶし、基本的人権の侵害を正当化し、推進したものである。こういう政治手法を容認し続けてきた結果として、現在の日本の現状がある。 
 
□ 防衛費GNP比1%枠の撤廃 
 
 中曽根は、1986年12月に防衛費GNP比1%枠撤廃を决めた。これは自衛隊が実質的な「軍隊」であるための「軍事費」を確保するためのものである。 
 
□ 日教組つぶし 
 
 1984年に自身の私的諮問機関として臨時教育審議会(臨教審)を設置した。その後、1988年に内閣の主導による学習指導要領改訂を成し遂げた。これが日教組つぶしの端緒になっている。 
 
□ 靖国神社公式参拝 
 
 1985年8月15日、戦後の総理大臣として初めて、靖国神社に公式参拝した。しかし、その後、中国などから強い批判を受け、それ以降は参拝をしなかった。 
 
□ 売上税 
 
 中曽根は、直間比率の見直しを標榜し、売上税という間接税(現在の消費税)の導入を計ったが、失敗した。しかし、現在、消費税が成立しているのは中曽根の貢献である。 
 
□ 成田空港二期工事着工 
 
 中曽根は、三里塚闘争が継続中であり、問題が解決していないにもかかわらず、成田空港二期工事の着工を認めた。 
 
□ 改憲 
 
 中曽根は、「改憲」を唱え、推進派の中心的人物であり続けた。 
 
□ 私的諮問機関の悪用 
 
 中曽根は、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関の中心人物に起用し、迅速な決定によるトップダウン型の政策展開に活用(悪用)した。 
 
もっと、チェック項目はあるだろうが、この辺にしておこう。 
 
中曽根康弘が死去した。人の評価は死後に定まるという。今のところ、マスコミなどでは、あまりにも、中曽根を褒める声が多い。このような評価がはびこるのはどんなものだろうか。これが日本の戦後民主主義の現状だ。 
 
 中曽根の標榜した「戦後政治の総決算」とは何だったのか。日本の戦後の政治史は、誰によって、どのように書かれるのだろうか。中曽根康弘はどのように評価されるのだろうか。功罪半ばというよりも、罪の方が多いと思わざるをえない。 


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