2019年12月14日00時33分掲載  無料記事
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佐藤忠男著「ヌーベルバーグ以後 〜自由をめざす映画〜」

  仕事で長い電車移動の前に古書店の店頭で一冊の本を手にした。それは映画評論家・佐藤忠男の「ヌーベルバーグ以後 〜自由をめざす映画〜」で、1971年に刊行された、つまり50年近く昔の新書だった。学生時代に手にして読んだはずで、電車で読み始めるとある程度は昔読んだな、という感慨を持ちながら懐かしくもあった。とはいえ、今読んでも遜色なく面白かった。戦後25年間くらいの映画の歴史をひも解いた本がなぜ、今読んでも面白かったか。その核心にあるものは、フランスのヌーベルバーグを育てた映画評論家・アンドレ・バザンに関する記述にある。アンドレ・バザン、伝説の人物だが、実際にはその著作をきちんと読んだことがなかったのだ。 
 
  佐藤氏は、バザンがモンタージュ万能主義的な映画の製作法を否定したことを例を引いて、説明している。 
 
  「では、バザンはそのモンタージュ否定論をどんな風に展開したか。バザンは、まず、ドキュメンタリー映画の古典であるロバート・フラハーティの『ナヌーク』(1920年)に、非モンタージュ的な表現の感動的な一例を紹介する。これはカナダエスキモーの生活を記録した傑作であるが、この中の有名な場面に、主人公のナヌークというエスキモーが仲間たちと一緒にあざらしを仕留めて氷原の上に引き上げる場面がある。ナヌークはあざらしと向かいあってしばらくじっとしているが、これを、フラハティは、すえっぱなしのワン・ショットで撮っている。そのために、一見ただじっと向い合っているだけであるようなその時間が緊張感に満たされている。これはすえっぱなしのワン・ショットであるからこそとらえ得た実感であって、もしモンタージュ的な方法をつかったらかえって感動は減少しただろう。」 
 
  実を言えば、学生時代に本書を読んだとき、僕は「ナヌーク」を見たことがなかったが、今は見たことがあり、ここで指摘されているシーンが目に浮かぶばかりか、感動をもって見た記憶が生々しく僕の中にも刻まれているのだ。だから、このくだりの文章の訴求力が全然違う、ということがある。 
 
  しかし、これまでアンドレ・バザンとは疎遠なままに過ごし、バザンの代表的著作であろう「映画とは何か?」の原書も持っているのだが、怠けものであるゆえに未だ通読できていない。東大で仏文を教えていた野崎歓氏が行ったバザンに関するシンポジウムも、開かれることを知りながら行けなかった。こんな風に見ると、まじめに映画理論を勉強しようという動機づけが自分の中には弱かった、ということになるだろう。とはいえ、「ヌーベルバーグ以後 〜自由をめざす映画〜」を読むと、バザンの提唱した方向性は、単にモンタージュかどうか、というだけでなく、まさに「自由をめざす」という点で、映画人に大きな影響力を与えていたことが理解できた。 
 
  「理論家としてのバザンの功績は、非モンタージュ的な映画のつくり方の意義として、映像にアンビギティ(あいまいさ)を導きいれた、ということをあげているところにあると思われる」 
 
  こうした映像の進化の歴史を振り返ることは、歴史を振り返る意味と同じ意味を持っていて、その作業なしには「お前は単なる現在に過ぎない」ということになってしまう。 
 
 
村上良太 


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