2019年12月21日14時38分掲載  無料記事
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教育

日本国憲法と教員養成「改革」(2)“教養解体社会”と大学のゆくえ 石川多加子

 2019年12月3日、0ECD(経済協力開発機構)が79か国・地域の約 60 万人の15歳を対象とし、2000年より3年毎に読解力、科学的活用力、数学的活用力を問うPISA(生徒の学習到達度調査)2018の結果が公表された。この内、読解力の平均点・順位が504点・15位(2015年は516点・8位)に続落したことで、“PISAショック再び”等と報じられている。科学的活用力は529点・5位(2015年は538点・2位)、数学的活用力は527点・6位(2015年は532点・5位)といずれも低下した。 
 
▽“PISAショック再び”の深層 
 日本では、2003・2006年の調査において数学的活用力等の得点が低下したPISAショックを受け、2007年度から全国学力テスト(「全国学力・学習状況調査」)を復活させ、今日に至っている。 
 
 かつて1956年から1966年に亘って「全国中学校一せい学力調査」(旧全国学力テスト)が行われたが、悉皆調査であった1961〜1964年の間を中心に(1956年に抽出調査が開始し、4年間を除き1966年迄実施された)、模擬試験はもとより、平均点を上げる目的で教員が生徒を休ませたり、正答を示す等した例が後を絶たなかった。1961年、当該調査を実力で中止させようとした教員が公務執行妨害罪等に問われた旭川学力テスト事件を筆頭に、日本教職員組合による指示の下、組合員や保護者を中心とした反対闘争が各地で展開されたのである。 
 そして、1966年に同事件第1審判決が、一せい学力調査は地方教育行政の組織及び運営に関する法律54条2項に規定する通常の行政的事実調査の枠を超えており、日常の教育活動が調査の文部省(当時)の方針・意向に沿って行われるという傾向を生み、文部省による本件調査を通じた教育内容に対する統制に当たる等として違法と判断し(旭川地判1966年5月25日)、以後中止が決定された。 
 
 このような経緯があるにも関わらず、第1次安倍政権は全国学力・学習状況調査を再開したのだが、その甲斐?も無く“PISAショック再び”である。PISA型学力を必ずしも良しとはしないが、文章や言葉の意味するところを理解し、また、他者に分かるように文章を表し、話すことは、文系・理系を問わずあらゆる分野において、無論ICT(情報通信技術)・AI(人工知能)学習以前に必要な力である。このような基盤となる力が充分備わらない理由は、文芸書を読まず、思考も議論(ディベートではない)もしないからである。2022年には高校の国語科に「論理国語」が新設される予定であるが、生徒達は教科書からでさえ小説や詩句に触れなくなってしまう。寧ろ日頃から文学と親しんでいれば、自ずから契約書等の文言は解し得るのではないだろうか。 
 
 些か回りくどくなったが、すぐ役に立つ?“実学”が重視される風潮の中、役に立たない!基礎科学や芸術の素養、教養が大学教育、教員養成においても隅に追いやられている状況に警鐘を鳴らしたいと思う。 
 
▽民主社会の市民育成より「産業報国」を優先 
 この連載の(1)で述べたように、敗戦後の教員養成は師範教育への反省から改革が開始した。日本の高等教育機関について第1次米国教育使節団報告書は、教養教育の貧しさと狭隘な実学的教育の傾向を指摘している。同報告書はまた教員養成教育は、「一般教育ないしは自由教育」(=教養教育・一般教養科目)、「教える事柄についての特別な知識」の教育(=教科専門科目)、教員の「仕事の専門的側面についての特別な知識」の教育(=教職専門科目)という三層から成るべきとしており、大学における養成原則はその提案を具現化しようとしたものと言える。 
 
 1947年に制定された学校教育法(昭和22年法律第26号)は、新制大学の目的として「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」と定めている。かつて大学令(大正7年12月6日勅令第388号)が「国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スル」機関と位置付けていた旧制大学とは、まるで別個のものとして再生させたのである。 
 
 日本国憲法の下、新たな大学の基準は初め、大学基準協会(国・公・私立大学が発起した自発的団体として1947年に誕生した)が設定していた。4年の修業年限で学士資格取得に必要な最低履修総単位数が124単位、その内一般教育科目は外国語も含めて、文系で40単位以上、理系で36単位以上とし、人文・社会・自然科学の3領域に分けた一般教養科目を、学生にはそれぞれの科目をほぼ均等に履修することを義務付けていた。 
 
 大学基準はその後しばらく改定を重ねながら認可基準の役割を果たしていたが、1956年にはこれに代わり省令として「大学設置基準」(昭和31年10月22日文部省令第28号)が制定され、一般教育に関連して重大な変更がなされた。省令化は大学に対する国家統制の第一歩であり、「基礎教育科目」の新設は教養教育軽視の始点である。従前大学基準は開設すべき授業科目について、一般教育科目、外国語科目、保健体育科目及び専門教育科目の4種としてきたが、基礎教育科目を加え、しかも一般教育科目の一部の単位数に充て得るようにしたのである。 
 
 これは、1950年代頃から経済団体が教育に関する要望等を公表し始めたことと無関係では無い。日経連(日本経営者連盟)の「新教育制度の再検討に関する要望」(1952年)は、「実業高等学校の充実」と共に「新大学制度の改善」を挙げて以下のように主張している。 
 
 戦後発足した新教育制度においては、わが国従来の教育体系、内容及び方法等全般に亘り根本的改革が実施された。しかしこの改革は殆ど無準備且つ急激に行われ、しかもわが国の実情を無視したものであるため、最近新制度実施に伴う初版の欠陥につき幾多の批判が起こりつつあり経営者側においてもまたわが国の将来に思いを致し、新教育制度再検討の必要を痛感するものである。 
 もともと高等学校以上の学校においては、学生生徒の知識能力に応じそれぞれ職業乃至産業面の教育指導が行われ、学校卒業時にはその習得した学體技術技能を通じ職業人として社会国家の進歩に貢献すべき人物が育成されるべきである。然るに新教育制度について産業人の立場よりこれをみるに社会人としての普通教育を強調する余りこれと並び行われるべき職業乃至産業教育の面が著しく等閑に附され、この点、新教育制度の基本的欠陥というべく、これが是正こそ先づ考慮されねばならぬ重要事である。 
 本連盟は、如上の見地から文教当局において先に新機関として設置されたる中央教育審議会を1日も早く発足ししめ、先二点に関し各方面の意見を聴取して速やかに再検討を加え、産業界の要請に応えられんことを要望する。 
1、実業高等学校の充実(略) 
2、新大学制度の改善 
 大学卒業生はその他数が会社工場事業場等産業界に入り、それぞれ専門の部署について活動し将来は幹部として部下の統率指導計画の樹立、企業経営の推進等にあたるべき人材である。従ってその基礎を作るべき大学教育の充実について産業界は常に多大の関心を持ち、今後とも能う限りの協力を惜しまざるものである。 
 然るに新制下における大学教育の現状は産業人としての人間教育面に遺憾の点が少なくなくまた一般的には教養学科と専門学科との間に一貫性を欠き専門的知識技術の学習を強化するため一部に変則的運営を行うものがあるなど、新制度自体に運営上の無理がすでに露呈されている。大学専門学校別の旧学生がむしろ好ましいとの声さえ起こっている。このこともまた新教育制度に対する企業の不満を表明せる者として看過出来ない事柄である。従って大学は人間教育面を強化すると共に専門教育学術研究等の面に、不徹底なる画一性を排し、それぞれの特性を明確に発揮し得るよう新大学制度の根本的検討を速やかに進められたい。 
 
 敗戦前の産業報国精神―「我等ハ産業報國ノ使命ヲ體シ事業一家職分奉公ノ誠ヲ致シ以テ皇國產業ノ興隆ニ總力ヲ竭サムコトヲ期ス」(大日本產業報國會「大日本產業報國要覧」1942年)―と大差無い感覚、朝鮮戦争特需に沸く産業界の高姿勢が伺える。「社会国家の進歩に貢献すべき人物」はすなわち、「産業界の要請に応えられ」ることなのである。日本国憲法が目指す平和で民主的な社会の市民を育む教育なぞ、考えていないようである。企業は、自らの戦争責任を省みないのであろうか。敗戦から未だ7年余しか経過していないのである! 
 
 少なくとも筆者は、学生達が経済界に好まれるべく日頃の講義等を行なっているのでは無いし、他の多くの教員、学生にしても同じであろう。いずれ、財界の要求に従って国が教育課程を変え、教員、学生の学問研究の自由、教育の自由が侵食される方向は、既に固まりつつあった。 
 
▽新自由主義的教育「改革」の始まり 
 次いで1970年には、一般教育科目の「弾力化」という美名の下、大学設置基準が改定(昭和45年文部省令21号)された。人文・社会・自然科学の3分野についてそれぞれ3科目・12単位以上、合計36単位以上の習得を必要としていたのを、分野毎の最低履修単位数を無くして36単位習得に換えたばかりか、その内12単位迄は外国語・基礎教育・専門教育科目で代替し得るとしたのである。同時に、複数の分野に亘る学際的(?)な「総合科目」の開設が認められた。更に、大学設置基準の改定に伴って教免法施行規則の単位修得方法も改められ、基礎教育科目の修得単位は一般教育科目の修得単位数に含めることができることとされたのである(昭和45年文部省令第22号)。 
 
 教養教育の軽量化は、1991年から施行された大学設置基準(「大学設置基準の一部を改正する省令」平成3年6月3日号外文部省令第24号)によって決定的になる。この時の名目は「大綱化」で、授業科目、卒業要件、教員数等に係る規定を変えたのであった。以後の教養教育衰勢を導く大きな誘因は、取りも直さず一般教育、専門教育、 外国語、保健体育に分かれていた授業科目の区分と科目区分別の最低修得単位数を無くして卒業に必要な総単位数のみ定めたことと推測している。 
 
 「大綱化」前の設置基準(昭和60年9月4日文部省令第26号)は、一般教養的科目48単位(一般教育科目36単位、外国語科目8単位、保健体育科目4単位)の履修を求めていた。「大綱化」は、2019年11月に101歳で死去した「大勲位」中曽根康弘総理大臣による臨時教育審議会設置(1984年)が路線を敷き、大学審議会の答申「大学教育の改善について」(1991年)が提案して具体化したのである。 
 同首相は、第101回国会の施政方針演説において「今日における校内暴力、青少年非行の激増等の実情の背景には、戦後今日まで、教育が学校教育にのみ強く依存し」ていること等を挙げ、「今後日指すべき教育改革の視点」として、「教育制度、教育内容の多様化、弾力化、家庭や社会教育の重視」等を示している。また、文部科学省の「我が国の文教施策(平成3年度)」は大綱化の必要性について、「高等教育の規模が拡大し,広く普及した状況では,その中から,研究指向のもの,教育に力点を置くもの,さらには,地域における生涯学習に力を注ぐものといった、様々なタイプの高等教育機関が育っていくことが考えられる。また、各高等教育機関が,それぞれの理念・目標に基づき、個性を発揮し、自由で多様な発展を遂げることにより、高等教育全体として社会や国民の多様な要請に適切に対応し得るものと考えられる」等と説明している。 
 新自由主義的教育「改革」の始まりであった。 
 
▽求められる大学人による議論 
 1991年の設置基準改定による授業科目区分の廃止は、どのような開設科目と教育課程の編成の裁量が大学に任せられることを意味する(19条1・2項)。従って、一般教養的科目と言ってもその区分や内容は大学の判断によって異なり、シラバスを覗くと、初年次教育(「大学・社会生活論」・「東工大立志プロジェクト」・「岡山大学入門講座」等)、キャリア教育(「世界に挑む産業界・官界トッフリーダーによる連続リレー講義:社会基礎学──グローバル人材に不可欠な教養」・「キャリアプラン基礎」等)、地域(「京都創造論」・「地理と古典を活かした京都の旅の創造、提案」・「金沢・能登と世界の地域文化」等)、ボランティアに関するもの(「国際社会とボランティア」・「グローバルボランティア」)の他、「プレゼン・ディベート論」、「ブランディング入門」、「TOEIC準備」といったものまで実に様々であることが分かる。 
 
 「大綱化」後の種々雑多な教養教育を8種に分類した調査によると、「幅広い知識」の教育類型(一般教育の3分野を偏り無い履修を求める)は衰退する一方、「専門教育の基礎的準備的知識」の教育類型には大きく減少せず、理系を中心に教養教育に組み込まれていること、 「情報教育や語学教育等のスキル」の教育類型も増加しているとのことである(飯吉弘子「戦後日本産業界の人材・教育要求変化と大学教養教育」日本労働研究雑誌629号〈2012年〉)。 
 
 2000年代初め以降、「英語をはじめとする外国語の卓越した運用能力、豊かな教養及びグローバルな知識を身につけた実践力ある人材を養成」することを目的に掲げる国際教養大学開学(2004年)を皮切りに、早稲田大学(2004年)・順天堂大学(2015)・千葉大学(2016年)が国際教養学部を、法政大学がグローバル教養学部を(2008年)、山梨学院大学が国際リベラルアーツ学部を(2014年)新設していった。2019年度に立命館大学が開設したグローバル教養学部は、全学生に同大とオーストラリア国立大学の二つの学位取得を義務付け、講義は全て英語で行う「デュアル・ディグリー・プログラム」を実施しているようである。 
 
 しかしながら、2019年2月に発表された全国大学生活協同組合連合会の「第54回学生生活実態調査」によれば、大学生の1日の読書時間は5年ぶりに増加したものの平均30.0分に過ぎず、ゼロと答えた学生は48.0%(2018年は53.1%)を占める。大学外での勉強時間は、1日平均26.6分(2018年は21.8分)である。筆者も、本を読まず、新聞も購読しない学生が年々増加する事実に直面している。この傾向にはしかし、世帯収入の減少やスマートフォン・パソコンの普及も原因しているとは思う。 
 
 教養教育の衰微には、教養教育をなおざりにしてきた教員自身の罪も問われなくてはならない。“教養解体社会”を出現させてしまった責任の少なく無い部分が、大学と教員にあると思う。とは言っても、グローバル人材育・グローバルリーダー育成を声高に唱えて英語力強化や留学を必須とする近年の“新しい教養”には疑問を抱いている。平和や民主主義の重要性を理解し、幅広い学識・知見と人間性を培う教養教育とは異なるのではないだろうか。日本国憲法が謳う国際協調主義と恒久平和主義にそぐうのはグローバル化・英語化ではなく国際化である。民主主義と平等、個人の尊重原理の下では、ディベートやプレゼンではなくディスカッションを重んじるべきであろう。大学が担うべき教養教育とは何か、先ずは大学人自身が考察し議論しなければならないことは確かである。 
(つづく) 


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