2020年03月29日00時53分掲載  無料記事
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辻静雄著「料理人の休日」(新潮文庫)

  辻静雄氏と言えばフランス料理の日本における啓蒙活動をした人で、調理師学校の創設者としても著名ですが、もう亡くなって長い時間が経つため、最近の若い方々にはなじみがなくなっているように思われます。しかし、おそらくはフランス料理に関してもっともたくさんの文章を文庫版などを通して世に出してきた人物である辻氏の作品群は今日も捨てるのはあまりにももったいない貴重な宝に思えます。 
 
  前に書きましたが、辻氏のアプローチはフランスにおける料理の古い価値のある文献をできるだけ集めて、料理の技法の成り立ちを理解することにありました。しかし、この「料理人の休日」は新潮文庫から出ているエッセイ集で、これ自体は古い文献のリストなどは出ていないのですが、逆に興味深いのは「私の勉強法」という一文で出てくる辻氏のそうしたアプローチの由来が、アメリカのフランス料理研究家の助言によるものだった、というエピソードです。読売新聞の記者だった辻氏がそもそも料理の道に進むことになったのは、奥さんの実家が料理の店だったからで、この文章の中でもアメリカに1年間住んでいたことのある奥さんの存在が、フランスでの料理の勉強の前にまずアメリカでヒントを得ることにつながったことが書かれています。 
 
  直にフランスに渡ってゼロから知識を得るのではなく、一度、「外国人」の研究家に会ってアドバイスを得たことはかなり大きな意味を持つように思えました。そうすることで、多分、フランスに直に言った場合に直面しうる、何らかの不快な体験を避けることができたでしょうし、また、あらかじめ、どんな古い料理人のどんな文献を読めばいいか、一通りリストを教わっていたこともプラスになったようです。辻氏は、二人のアメリカ人の研究者(※)に会ってアドバイスを受けることも含め、フランスに渡る前に2年間、本を買いそろえて予習していた、ということで、このことはとても役に立ったのでしょうし、だからこそ、辻氏は他の本の中でもなるだけ直に原書に当たってみることを促しているのです。 
 
 「アメリカでこのお二人にお会いしたことが、私の残る一生を決定したといえる。お二人とも、今にして思えば、この私をどうみてとったのであろうか、懇切丁寧にフランス料理の学び方を教えてくれたばかりでなく、もっと大切なこと、つまりフランス人とつき合う方法をそれとなく語り聞かせてくれたことが、どれだけ後になって役に立ったかしれない」(「私の勉強法」) 
 
  本書は「休日」にふさわしく、辻氏の発想ややってきたことの原点に何があったのか、どんな出会いがあったのかといったことを書いたもので、たとえばアメリカのフランス料理の研究家でTVの解説者でもあるジュリア・チャイルド(※)についても触れられています。辻氏はジュリア・チャイルドの料理番組は失敗のプロセスもしっかり見せるところが教育に良い、と言っています。今の日本の料理番組は成功したシーンだけ切り張りしているから面白くないのだ、と。おそらくインターネット時代に入っていなければ、なかなか普通の暮らしの中で出会えない人々や情報に満ちていて、それが今読むととても刺激的です。多分、20年前、30年前とは違った魅力があるという風に思えました。 
 
  辻氏の本が次々と世に出てきたのは1970年代から80年代にかけてで、今思えばこの時代は高度経済成長から「次の時代」への転換期だったのです。次の時代は「成熟の時代」になるべきでした。年を重ねるにつれて豊かになることができ、あくせく長時間働くのでなく休暇を楽しむことができ、福祉の充実した社会です。ところが不幸なことに1980年代にバブル時代を迎え、金余りの時代の中で金を浪費し、挙句の果てに長い不況に突入し、成熟の時代を作る資金も、エートスも枯渇してしまったかのようです。しかし、もう一度、この辻氏のエッセイが流行した1970年代を振り返ってみると、高度経済成長から「次の時代」に移行するヒントがたくさんあるのです。時代の限界はあり、すべてが今より良かったとは言えないでしょうが、基本的に、教養も感性も豊かだし、何より心にゆとりがあります。もう一度、やり直してみることが必要ではないでしょうか。一度失敗したとしても。そのためには、今の時代の空気から一度、抜け出して、1970年代の空気を浴びて、そこでヒントをつかむ、ということが大切ではないか、と思うのです。 
 
 
※MFK Fisher 
 辻氏がアメリカでフランス渡航前に会って情報収集した一人がフードライターの女性、MFKフィッシャー氏。彼女はブリヤ・サヴァランの「味覚の生理学」を英訳した人でもあるが、カリフォルニア大学教授でもあった。まずもって、最初にこういう人にアクセスできるところに辻氏がいた、ということは特筆に値するだろう。 
https://www.theguardian.com/books/mfk-fisher 
 
※サミュエル・チェンバレイン 
 辻氏がもう一人、アメリカでフランス料理に詳しい人物で直接会ったと言っているのがサミュエル・チェンバレインなるMITの元教授である。インターネット検索すると、MITのミュージアムにその名の人物のエッチングなどの画像が展示されていた。欧州の建築物のスケッチを多数描いているようである。 
https://webmuseum.mit.edu/detail.php?module=people&type=related&kv=9272 
https://www.gf.org/fellows/all-fellows/samuel-chamberlain/ 
 「まだ古い文献は手に入り易いし、値段もそれほど高くはない。それでも君、ちょっとラ・ヴァレンヌ、マッシャロ、ムノン、マラン、キャレーム、ユルバン=デュボワ、グーフェ、ギャルランなどの古い料理書、ル・グラン・ドッシなどのような風俗史関係のものを揃えるとなると、必要最低限の文献だけでも7〜800万円はかかるかもしれないよ、とおっしゃった」(「私の勉強法」) 
 
 
※ジュリア・チャイルドの紹介映像(PBS) 
https://www.youtube.com/watch?v=-OP08hW602U 
 メリル・ストリープがジュリア・チャイルドを演じる映画についても紹介している。アメリカと言えばハンバーガーとか、ステーキしかないように思われるだろうが、このようなフランス料理の指南をする番組があり、その解説者であるジュリア・チャイルドは気さくなキャラクターで人気を博した。ルイジアナ州などの南部においてはもともとフランス植民地だった影響で、フランス料理の伝統のある地域もある。 
 
 
 
村上良太 
 
 
 
■辻静雄著「フランス料理の学び方」(中公文庫) 
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