2020年04月27日15時15分掲載  無料記事
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反戦・平和

憲法九条誓願桜「九条乙女」(1)桜守として人類の平和な未来を願う 浅利政俊

 「北国の桜」は、これからが満開となる。北海道を代表するオオヤマザクラの大振りで濃い紅色の花とともに、九条乙女(クジョウオトメ)も小輪の薄い淡紅色の花を咲かす。これは、世界の平和を願って私が育成した新種で、別名「憲法九条誓願桜」。2007年(平成19年)5月3日の憲法記念日に命名し、普及につとめてきた。一桜守として、60年にわたり新種の開発に取り組み、子どもたちと一緒に苗木を育ててきた私の到達点でもある。そこに至るまでの道のりを振り返りながら、桜とは何なのかを考えてみたい。 
 
▽「函館空襲を記録する会」 
 函館市称名寺に、私が代表をつとめる「函館空襲を記録する会」が建立させていただいた、北海道空襲による津軽海峡、噴火湾、陸奥湾船舶犠牲者の碑があります。以下の碑文が刻まれている。 
 
「1945年7月14日・15日、第二次世界大戦末期、函館・青森を中心とした津軽海峡、噴火湾、陸奥湾などで、米軍機の攻撃により艦艇・汽船・機帆船で 犠牲になられた人は多い。その犠牲者を悼み、艦艇名・汽船名・機帆船名と犠牲者数を刻み、その歴史を後世に伝えたい。 
 翔鳳丸48人、飛鸞丸32人、津軽丸134人、松前丸28人、第二青函丸26人、第三青函丸71人、第四青函丸54人、第六青函丸37人、花咲丸1人、乾国丸1人、第二北拓丸2人、興洋丸1人、永徳丸1人、俊丸4人、第67忠洋丸1人、第43北興丸1人、平野丸5人、神栄丸1人、第三星丸3人、明神丸1人、第二神威丸1人、鷹丸3人、温州丸3人、下総丸3人、大征丸7人、千鳥丸(第13大栄丸か)1人、第11孝栄丸2人、永保丸26人、第六日鮮丸35人、第一菊丸1人、正●丸1人、幸丸13人、第43忠洋丸1人、第九多聞丸1人、阿波丸5人、興隆丸1人 
 以下は、海軍艦艇と特設船艇。橘140人、柳21人、第215号海防艦11人、第219号海防艦194人、第24号掃海艇153人、豊国丸135人、第18榮徳丸2人、朝洋丸2人以上、第二朝洋丸12人、第二号明治丸6人以上、千歳丸7人、黒崎丸2人 
 この海域に現在も津軽丸、第三青函丸、第四青函丸、第219海防艦など、多数の犠牲者が海底で船体を横たえ、静かに眠っている。犠牲者の冥福を祈り、永遠の世界平和を守り抜く決意を、日本国憲法に則り、堅持し誓いの碑とした」 
 
 ここにあげた艦艇・船舶乗組員数は1248人以上。撃沈された青函連絡船、輸送船あわせて36。護衛した軍艦や特別に運用された軍艦12.殉職者、犠牲者が出なかった沈没船、大破・中破船40余。 
 空襲は日中で爆弾、ロケット弾、機銃掃射による攻撃で、焼夷弾皆無の市街地空襲であったので、死者は100余人であった。米軍機は、函館駅・函館桟橋輸送施設の破壊に集中攻撃を加えた。この場所を中心に約1キロメートル範囲に函館市の中枢的機能施設が集中していたので攻撃され、犠牲者も多く出た。 
 
▽記録を平和学習に生かす 
 北海道で生産された武器、軍需品、石炭、食料を本州に向けて、この三都市の輸送施設が大きく作動した。日本の第二次世界大戦末期の軍需・民需の諸品の命綱として日本政府は認識し、重要視していた。 
 東北・北海道空襲の重大な被害について、空襲直後、当時の軍人閣僚豊田貞次郎軍需大臣は、政府官邸定例会議で次のように発言している。 
「即チ青函航送石炭15万トン喪失ハ関東・信越地区石炭総消費量ヲ半減セシムルモニシテ、特定兵器ノ生産ニ深刻ナル影響ヲ及ボスノミナラズ、自余ノ十万トン余ノ北海道物資ノ脱落ハ軍需生産並ニ食糧確保上特ニ厳選セル重要物資ニシテ代替策ヲ他ニ求メ難シ……」(「日本戦争経済史」) 
 
 米軍機による日本艦船への攻撃は激烈を極め、乗組員は血達磨になっていた。米国にあった「Naval Historical Center」の映像フィルムを見ると、米軍機による青函連絡船、輸送船などへの爆撃は数回に及ぶものであった。 
 次にあげるのは、戦後75年の現在も津軽海峡に沈没した状況の第三青函丸が攻撃された様子である。 
 
「七機からなる戦闘機隊が攻撃を開始した。500ポンド通常爆弾七発が投じられ、ロケット弾八発が火焔とともに吐き出された。ロケット三発が中央に、三発は後部を襲った。 
 次いでキンケイド大尉率いる戦闘爆撃機中隊のコルセア八機が急降下、500ポンド爆弾八発、ロケット弾三二発が発射され、爆弾二発とロケット弾一五発が命中したのが確認された。 
 攻撃の更なる追加、第三四雷撃機中隊のムーニー大尉は30メートルにまで降下、四機数珠繋ぎになって船を横切った。ムーニーの爆弾1発が船体中央に、もう一発が船体中央に、もう一発が船底真下で炸裂した。小隊は七発の爆弾を命中させたが、とりわけスティンベル少尉は海上7・5メートルにまで降下し、二発を船首に激突させ、すさまじい爆発を生じさせた。攻撃はきわめて効果的で、第三青函丸はただ回り続けるだけになっていた。 
 攻撃は更に加えられた。第八三爆撃機中隊の第二小隊五機は、750メートル上空から45度の滑空攻撃を試みた。右舷中央に一発命中、一発至近が記録された。しかし、連絡船は依然として全速力を出していた。 
 爆撃機に続いて雷撃機への攻撃許可が告げられた。第八三雷撃機中隊の四機が攻撃体勢に入った。爆弾一六発が放たれ、三発が船尾に、二発が船橋の真後ろを直撃した。船はすでにバラバラになる程打ちのめされていた。ここに至るも第三青函丸はまだ沈みはしなかった。 
 スチュアート少佐は爆撃機の第一・第三小隊を呼び出し、その仕上げを命じた。第一小隊四機を率いる中隊長クロフォード大尉は七〇度の急角度での急降下を命じた。投下した七発全弾が命中し、全船は炎に包まれた。第三小隊が攻撃に入ったとき、船はまだゆっくり走っていた。 
 小隊は今度は六〇度の滑空攻撃を試みることにした。最終攻撃は始まって一分内に第三青函丸は矢越岬の南南東約四マイルに沈没した。沈没は第四番機が投弾する直前のことで攻撃開始から二〇分のことであった」 
(青函連絡船戦災史編集委員会『白い航跡・青函連絡船戦災史』p.117〜120) 
 
 函館空襲を記録する会では、映像(米国側記録)による第四青函丸などへの爆弾・ロケット弾・機銃掃射の実際を見ることも出来る資料で、平和学習に生かしている。 
(つづく) 
 
<筆者略歴> 
1931年(昭和6年)渡島管内七飯町に農家の次男に生まれる。大野農業学校(現・大野農高=北斗市)、北海道第二師範学校、北海道学芸大学函館分校(現・道教大函館校)を卒業後、松前町の清部小教員に。松城小に転勤後、町の教育植物園づくりの植物調査を委嘱され、松前公園の教育植物園づくりに携わる。同時に桜の研究を進め、59年に新品種第一号、マツマエアヤニシキ(松前綾錦)が誕生。国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の桜研究の第一人者、竹中要博士の指導も受け、104種の新品種を開発した。2005年には財団法人「日本さくらの会」から、全国6人の「桜守」に選ばれた。 


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