2020年06月11日16時58分掲載  無料記事
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アフリカ

【西サハラ最新情報】  サラー 西サハラ難民アスリート その➁サラー少年、モロッコ・ランナーをぶち抜く 平田伊都子

 突然、コースに入ってきた子供がプロのランナーを次々と追い抜いていく、アフリカのマラソン・レースではよく見る光景です。 訓練しなくても、速い子は速いのです。 
➁ サラー少年、モロッコ・ランナーをぶち抜く! 
 
1− サラー10才の頃(1992年) : 
 「僕が10才の頃、ラユーンの外れを友だちと歩いていたら、マラソンの集団に出くわした」サラーは生まれて初めて<走る人々>を見た。いい大人がランニングとパンツという、殆どヌード姿で、息も切れ切れに走っているのだ。脇腹を押さえて歩き出すのもいる。へたり込むのもいる、、疲労困憊の集団はサラーたち子供にとって、奇妙にしか映らなかった。 
 走る集団を追ってきた自転車の男が、「ゴールはハッサン二世広場だ!」と、サラーたちを促した。サラーたちは歓声を上げて、<走る集団>を追いかけた。友達は途中で歩き出したが、サラーは<走る集団>に追いつき追い越した。 
 首都ラユーンの中心にあるハッサン二世広場には、<走る集団>を迎えるモロッコ人とモロッコ兵とモロッコ警察がいた。そこに、普通の格好をした占領民西サハラの男の子が入ってきた。驚きはしたが、モロッコ人たちは面白がって男の子を拍手で迎えた。 
「僕たちはレースで走ることなんて、全くなかった。が、レースに参加してみようということになった」と、サラーは生まれて初めての<走る>体験を語る。モロッコ臣民は、スポーツ好きのハッサン二世国王(当時)を喜ばせるにはスポーツが一番と思っていた。海外でモロッコ選手が賞を取ると、国王自らが凱旋者を迎えて祝福を与えた。 
 モロッコ占領当局が主催するマラソン大会は、7月9日のハッサン二世・モロッコ国王誕生日を祝して行われた。ラユーンの中心・ハッサン二世広場が出発点で、モロッコ人入植者の臨時テント村を折り返し、ハッサン二世広場に戻ってくる。約40人の大人のランナーたちに交じって、数人の子供たちが、モロッコ兵の本物のピストルを合図にスタートを切った。広場を出ると、舗装されたハッサン二世通りに出る。ハッサン二世モスク、ハッサン二世小学校、、、新しく建てられたモロッコ占領当局の建物は白塗りで、そのすべてにハッサン二世の名前がつけられていた。大人のランナーは、軍人、警官、公務員といったモロッコ人たちで、モロッコ旗を付けたランニングとモロッコ象徴の赤いパンツで決めていて、マニュアル通りのマラソン・スタイルで走った。西サハラ占領民の子供たちは、いつものシャツに半ズボン。子供たちは、始めて目にするラユーンのモロッコ式街並みに、キョロキョロと見回しながら観光気分で中心街を抜けた。普段は西サハラ被占領民地区に隔離されていて、滅多に繁華街へ来ることなどなかったのだ。白い建物が途切れると舗装道路も終わり、ラフな一本道が折り返し点のモロッコ人入植者テント村に導く。この年1992年にモロッコ帰属か西サハラ独立かを人民が決める、二者択一の国連西サハラ人民投票が行われる予定だった。人民投票を受け入れたモロッコ王ハッサン二世は、モロッコ帰属を選ぶ西サハラ人民を増やすため、たくさんのモロッコ人を西サハラに送り込んだ。入植したモロッコ人たちは臨時のテント村で、住宅の完成を待っていた。白くて屋根が三角錐のモロッコ風テントは、西サハラ難民が住む布製の簡易テントとは違って、丈夫で暑さ寒さに耐え、居心地が良い。折り返し点のテント村に住むモロッコ人入植者たちは、マラソン参加者たちを拍手で迎え、夫々に水を配った。モロッコの子供ではない西サハラの子供ランナーを見た入植者たちは、些か驚いたが、「頑張れよ!」とモロッコ訛りのアラビア語で激励し、ペットボトルの水をくれた。1992年のこの頃、国連西サハラ人民投票を待つラユーンには、束の間の平和が訪れていた。 
 折り返し点を過ぎると、観光に飽きたサラーは、全速力で先頭集団を追いかけた。一人、二人、三人、四人、五人とごぼう抜きをし、あと一人のところでテープは切れなかった。 
「みんな僕より年上だったけど、僕は二等賞を取った。これが僕の<走る人生>の始まりだ」と、サラーは語る。 
 
2− サラー12才、モロッコ・ナショナル・チームからお誘い: 
 サラーがモロッコ占領地・西サハラで走り出した前年の1991年、モロッコ国王ハッサン二世とポリサリオ戦線西サハラ難民政府代表が国連事務総長デクエヤルの和平提案を受け入れた。1975年から16年間にわたり西サハラ砂漠で戦闘を続けてきた両当事者は、停戦した。1991年4月29日、国連安理決議690号が出され、住民投票を行うためにMINURSOが設立された。MINURSOミヌルソ(国連西サハラ人民投票監視団)の目的は 
1.停戦の監視および両軍の配置の確認 
2.政治犯の釈放 
3.難民などの故郷帰還の支援 
4.人民投票の有権者の確定および人民投票の実施 
と明記されていた。1992年に独立かモロッコへの帰属かを決定する4番目の人民投票を行う予定だった。が、未だに行われていない。他の3項目も、全く手を付けられていない。 
 
 もともと、モロッコやアルジェリアなどマグレブと呼ばれる北アフリカの人々は、運動能力に長けていてオリンピックのメダルを競っていた。モロッコ人もハッサン二世もスポーツ好きだ。ハッサン二世はそんなモロッコ人気質を利用し、なおかつ、王の威厳を高めるため、スポーツに金をつぎ込んだ。目標は2000年のシドニー(オーストラリア)オリンピックだった。そして、将来のオリンピック選手発掘のため、アトラス山から砂漠の占領地・西サハラにいたるまで、スカウトを派遣した。 
 「12才、1993年、僕が中等学校を終えた頃のレースの後で、モロッコ・ナショナル・チームに所属してみないかと、一人のスカウトが僕に声をかけてきた。彼は僕の個人情報を聞いた。そして父に、チーム入団の条件を、こと大袈裟に誇張して並べ立てた。僕は、彼が宣伝する有利な条件に動かされたわけではない。が、この<申し出>に応じた。なぜなら、それは、唯一、僕がレースを続けれる道だったからだ」と、サラーは<12才の決意>を語る。父親もこの<申し出>を受け入れた。が、父親も、<有利な条件>だったから受けたわけではない。断ったら、家族全員が酷い仕打ちに襲われるからだ。モロッコ占領当局の<申し出>とは、西サハラ被占領民にとって<命令>なのだ。 
 遊牧民だったサラーの父は、サラーが生まれる3年前に地雷で片足を失っていた。サラーの父は不帰順魂を持つ西サハラ遊牧民だ。その血を引くサラーも、父と同様に尾っぽを振ってモロッコに靡いたわけではない。 
 
3− サラー13才、1995年にモロッコの首都ラバトへ: 
 「僕がモロッコの首都に移り住み、国際試合でモロッコ国王の代表として参加するようにと、モロッコ占領当局は家族を説得した」と、サラーは語る。「僕は、モロッコに行きたくなかった。僕の生まれ故郷にいたかった。だけど、モロッコ占領当局は家族を脅し、父が首を縦に振るまで引き下がらなかった」と、被占領民を国王の奴隷扱いするモロッコ当局者を詰った。 
 「僕が政治意識に目覚めたのは、この嫌々入った<モロッコ・ナショナル・チーム>でだった。差別主義のモロッコ人は、半面教師だった」と、サラーはモロッコ首都ラバトでの合宿生活を、苦々しく回想する。「僕は、一目で、西サハラの首都ラユーンとモロッコの首都ラバトでは、軍隊と警察の日常姿勢に大きな違いがあることに気付いた。ラユーンの軍隊や警察は平素からデッカイ面をして威圧的で、何かと被占領民の僕たちに挑発を繰り返えす。が、ラバトでは、モロッコ住人に軍隊や警察が威嚇し脅迫してくるという、恐怖の日常性はなかった。また、僕は、西サハラ人とモロッコ人の、日常生活での違いにも気づいた。モロッコのクラスメートたちが喋るモロッコ方言は、同じアラビア語でも僕のと全く違うんだ。4年間の訓練合宿で、モロッコ人とは全く違う西サハラ人としての自覚が、僕の中で日に日に強まっていった」 
 1995年頃のラバトは、元モロッコ植民地宗主国・フランスのおかげで、白いお洒落なビルが立ち並ぶ都会だった。モハンマド五世大通りにあるカフェテリア・バリマでは、ラバトッ子たちがビールを飲みながら、フランス演劇論をパリジャン気取りで楽しむ。禁酒が掟のイスラム教国なのに、、休日も金曜日ではなくヨーロッパ風に日曜日だ。路上で物乞いをする人々や観光客を襲う子供スリ集団を目にしなかったら、フランスの地方都市にいるような錯覚に襲われる。 
 一方、1995年頃の西サハラ難民キャンプは、今とたいして変わらない。1975年に西サハラから逃げてきた約16万の難民(当時)は、国連が約束しモロッコ国王ハッサン二世も受け入れた<国連西サハラ人民投票>に夢を託し、国際社会の援助物資で命を繋いでいた。 
 
 1995年、サラーはモロッコという敵国に入り、以降、思いっきり<差別>という不条理に振り回されます。 強者である<差別者>は、弱者である<被差別者>の無念さと屈辱感に思いを馳せることなど、全くありません。 一方、<被差別者>は、差別がなくなるまで叫び続けます。 アメリカの黒人然り、パレスチナ人民然り、西サハラ人民然りです。 
 
 
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*難民アスリート・サラーの最新ドキュメンタリーがYoutubeにアップしました。 
https://youtu.be/jz7lFr2c_Jk スペイン語ですが、西サハラ難民キャンプが見られます。 
*占領地からの脱出―「アリ 西サハラの難民と被占領民の物語」只今発売中です。 
著者:平田伊都子、写真:川名生十、画像提供:李憲彦、川上リュウ、SPS、 
造本:A5判横組みソフトカバー、4頁のカラー口絵、本文144頁 
発行人:松田健二、 
発行所:株式会社 社会評論社、東京都文京区本郷2―3―10、TEL:03-3814-3861 
2020年2月3日 初版第一刷発行  定価 税抜き2,000円 
*1月22日、「ニューズ・オプエド」で#1323<アフリカ最後の植民地>を放映しました。 
YouTube オプエド平田伊都子 URL https://www.youtube.com/watch?v=citQy4EpU-I 
Youtube2018年7月アップの「人民投票」(Referendum)をご案内。 
「人民投票」日本語版 URL :https://youtu.be/Skx5CP3lMLc 
「Referendum」英語版 URL: https://youtu.be/v0awSc25BUU 
Youtubeに2018年4月アップした「ラストコロニー西サハラ」もよろしくお願いします。 
「ラストコロニー西サハラ 日本語版URL:https://youtu.be/yeZvmTh0kGo 
「Last Colony in Africa]  英語版URL:  https://youtu.be/au5p6mxvheo 
 
 
WSJPO 西サハラ政府・日本代表事務所 所長:川名敏之     2020年6月11日 
SJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)代表:平田伊都子 


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