2020年06月17日15時44分掲載  無料記事
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アフリカ

【西サハラ最新情報】  サラー 西サハラ難民アスリート➂ サラー、血染めの旗のために走った?

 「僕は数々のレースで、血に染まった旗のために勝たねばならなかった。その旗とは、かって数万人の人々をナパーム弾でなぎ倒し、そして、約10万の人々を砂漠に放り出した、モロッコ国旗だ!」と、サラーはモロッコのために走らなければならなかった<ハイティーン時代>を回想します。 
 ちなみに、モロッコ国旗は、深紅の真ん中に緑の五芒星(悪魔の象徴とも言われる)が配置されています。 一方、西サハラ国旗は、汎アラブ色の黒・白・緑・赤に、イスラム教の象徴である三日月と星を組み合わせています。 
 
➂ サラー、血染めの旗のために走った? 
1− モロッコ・ナショナル・ランニング・少年チームの合宿生活4年間 : 
 「モロッコ首都ラバトの普通のモロッコ人たちは、ごく普通に僕と付き合ってくれた。むしろ、僕を<サハラっ子>と呼び、遠くから来た子供として受け入れてくれた」と、サラーはモロッコ・ナショナル・ランニング・少年チーム4年間の学校生活を語った。抜群に足が速くしかも勉強のできるサラーに、同級生も一般教科の先生方も一目置いていたようだ。一目も置かず問題児扱いをしたのは、国営スポーツセンターのお偉方だった。「スポーツセンターの上層部は、子供の僕を不穏分子のように差別した。僕が訓練を受けていたスポーツセンターの長は、モロッコ国王、王室高官、警察長官と直結する人物で、スポーツ界も牛耳っていた。彼らは平素から、僕がチームメートに、モロッコと西サハラの紛争に関する話をしていないかと、探りを入れてきた」と、サラーは特別保護観察下にあったことを明かす。しかし、サラーの話から、いかにモロッコ国王がスポーツに入れ込んでいたかが伺えるし、と同時に、モロッコスポーツ界がサラーに期待をかけていたことも容易に推察できる。「モロッコの王室高官と繋がっているトレーナーたちは、モロッコ訛りのアラビア語で話しかけてきた。最初のうち何を言ってるのか分からなかった。僕は正則(文語)アラビア語で行儀よく対応したが、彼らは正則(文語体)アラビア語が気に入らなかったようでヒステリーを起こし、僕にモロッコ訛りを押し付けようとした」と、サラーは言葉差別を語った。サラーはモロッコ方言に、あくまで正則(文語体)アラビア語で逆った。トレーナーたちはサラーに<生意気で反抗的なガキ>というレッテルを貼った。 
 可愛い少年ランナーチームは、よくパーテイ―などの余興に借りだされた。外交官や王族などが居並ぶ席で、「モロッコの新星サラーだ〜〜!」と、トレ−ナーたちがモロッコ訛りで紹介すると、サラーは「ショコラン・ジッダン(まことにありがとうでございます)」と、正則(文語体)アラビア語で答える。いくら注意されても、サラーは言葉遣いを直さなかった。 
 根負けしたトレーナーたちやモロッコのメデイアは、「モロッコ・サハラからきたサラー」と、紹介するようになった。「トレーナーたちは僕に、モロッコの慣習にも従うようしつこく迫った。僕たち少年チームがパーテイ―に呼ばれた時など、モロッコ人の同級生は、お偉いさんの腕にキスをするんだ。西サハラ人にそんな習慣はない。僕は礼儀正しく握手をするだけだった。が、それがまた、彼らの気に障った、、仮にモロッコ国王が僕の前に来ても、彼の腕にキスなどしない。なんで、そんな事をしなければならないんだ!」と、サラーはいまいましく吐き捨てる。トレーナーの手綱を次々に断ち切るサラーは、ことごとく物議を醸した。 
 
2− モロッコ選手として故郷西サハラで走る : 
 モロッコ・ナショナル。ランニング・少年チームの4年間は、陸上競技を中心に、一般高校(フランス式)と同じようなカリキュラムが組まれていた。6月に終業式が済むと、サラーはトレーナーから受け取った航空券を握りしめ、カサブランカ国際空港から故郷ラユーンへ、モロッコ王国機で飛んで帰った。ラバトの学校と同様に故郷の実家でも、サラーは常にモロッコ警察に監視されていた。 「故郷ラユーンの生活は、占領下の毎日だ。誰もが監視下にあり、何もかもがコントロールされている。住人には行動する自由がない。占領当局の命令に従うしかない」と、サラーは完全管理社会のモロッコ占領地生活を語る。モロッコ占領地・西サハラは巨大な監獄だった。それでもサラーにとって約3か月間の休暇は、家族の懐に潜り込んで最高に幸せな時だった。 
 モロッコ占領当局は、サラーの休暇帰郷に合わせてマラソン大会を開いた。モロッコ本国の首都ラバトで訓練するサラーは地元のアイドルだった。ハッサン二世広場を出発し戻ってくるというコースは、1993年にサラーが生まれて初めてマラソンとやらに参加した時と、変わらない。ただし、折り返し点のモロッコ人入植者キャンプは、テントに代わって年々住宅が増えていく。ハッサン二世モロッコ国王は国連西サハラ人民投票をズルズル延ばせるだけ延ばして、その間に出来るだけモロッコ人入植者を増やし、人民投票ではモロッコ帰属を入植者たちに選ばせようとする、選挙操作をした。サラーは毎年、故郷のマラソンに参加し、トラックレースでの優勝も入れると15個以上の優勝杯をものにした。 
 1998年1月末、サラーはモロッコ・ナショナル・ランニング少年チームの寮で、チームメートと一緒に断食月の行をしていた。昼間は飲食が禁じられていても、日が沈むと飲めや食えやのお祭り月で、サラーはみんなで楽しく断食月を過ごしていた。 
 同じ断食月の末頃、SJJA(サハラ.ジャパン.ジャーナリスト.アソシエーション)と筆者はアルジェリアのオラン港で、輸送船マースクの到着を待っていた。一か月前の1997年12月21日に神戸港から、西サハラ難民援助薬品の大型コンテナ一個を送り出していた。兵庫日赤から頼まれた阪神大震災援助薬品の一部、約1,000万円相当の医療品を満載したコンテナは、オラン港から他の援助トラックとコンボイを組み、山賊が横行する雪のアトラス山脈を越えサハラ砂漠に入る。全工程約2,000キロメートルを走破し、アルジェリア西端の軍事基地ティンドゥフに着く。そこからさらに約50キロメートル、砂漠の奥深く入った所にある西サハラ難民政府センターで、援助トラックはエンジンを止める。 
 2月に入り積み荷の確認をした後、SJJAの日本人グループは、飛行機でオランからティンドゥーフに先乗りした。外国人の陸路移動が禁じられていたため、コンボイに同行できなかったからだ。 
 
3− 北アフリカ陸上競技選手権大会で5000メートル第二位! : 
 1998年2月、オランから飛んできたSJJAを待っていたかのように、ミヌルソMINURSO(国連西サハラ人民投票監視団)の活動や西サハラ人認定作業などが始まった。モロッコの拒否で1991年から延び延びになっていた<国連西サハラ人民投票>が、1998年末に行われることになったからだ。それでも人民投票に反対するモロッコは、人民投票など幻想に過ぎないと決めつける。モロッコは、遊牧民はどこにいるのか分からないから、名簿作りも不可能だと言う。が、こうして遊牧民も難民もみんな登録した、1998年の記録はMINURSOの金庫に、今も保管されている。 
 1998年、16才の高校生サラーは、カサブランカで行われた全モロッコ陸上選手権の・クロスカントリーでプロランナーを抑え優勝した。大喜びしたのはモロッコ・ナショナル。ランニング・少年チームのトレーナーたちで、「これからも頼むぞ!」と、サラーの体を抱きしめた。自分たちが指導するランナーが好成績を上げると、特別ボーナスが貰えるからだ。サラーは、「ショコラン、ジッダン(まことにありがとうでございます)」と、短く答えた。 
 そして、ラバトで行われた1998年北アフリカ陸上競技国際選手権大会の5000メートルにモロッコ代表として、16才のサラーが選抜された。当時のモロッコ中長距離界には、ハリド・ブーラミ、ブラヒム・ブーラミ兄弟やヒシャム・エルグルージという名選手がいた。ハリド(1969年生まれ〜)は1996年アトランタオリンピック5000メートルで銅メダルを獲得し、1997年福岡IAAFグランプリファイナル (2002年まで開催されていた陸上競技年間王者決定戦) 5000メートルで優勝した。弟のブラヒムは、1000メートル障害の世界記録保持者だった。ヒシャム・エルゲルージ(1974年生まれ〜)は、1500メートルと2000メートルの世界記録保持者だ。世界陸上選手権やオリンピックなどで、12個の金メダル、4個の銀メダル、3個の銅メダルを獲得している。モロッコの英雄だ。 
 そんな強豪がひしめくモロッコ中長距離陸上界で、16才のサラーが、初めて出た国際試合で二着に入ったのだ! 
 
 「その頃の僕は、チャンピオンになる事が目的だった。そして、オリンピック競技に出るのが、僕の夢だった」と、サラーは、スペインのゲルニカ紙やエジプトのドキュメンタリストたちなど、様々なインタビューでハイティーン時代の夢を語っています。 
 いつの時代でもどこのランナーでも、みんなの抱く夢は<オリンピック競技で走ること>なんです、、ネ! 
 
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*難民アスリート・サラーの最新ドキュメンタリーがYoutubeにアップしました。 
https://youtu.be/jz7lFr2c_Jk スペイン語ですが、西サハラ難民キャンプが見られます。 
*占領地からの脱出―「アリ 西サハラの難民と被占領民の物語」只今発売中です。 
著者:平田伊都子、写真:川名生十、画像提供:李憲彦、川上リュウ、SPS、 
造本:A5判横組みソフトカバー、4頁のカラー口絵、本文144頁 
発行人:松田健二、 
発行所:株式会社 社会評論社、東京都文京区本郷2―3―10、TEL:03-3814-3861 
2020年2月3日 初版第一刷発行  定価 税抜き2,000円 
*1月22日、「ニューズ・オプエド」で#1323<アフリカ最後の植民地>を放映しました。 
YouTube オプエド平田伊都子 URL https://www.youtube.com/watch?v=citQy4EpU-I 
Youtube2018年7月アップの「人民投票」(Referendum)をご案内。 
「人民投票」日本語版 URL :https://youtu.be/Skx5CP3lMLc 
「Referendum」英語版 URL: https://youtu.be/v0awSc25BUU 
Youtubeに2018年4月アップした「ラストコロニー西サハラ」もよろしくお願いします。 
「ラストコロニー西サハラ 日本語版URL:https://youtu.be/yeZvmTh0kGo 
「Last Colony in Africa]  英語版URL:  https://youtu.be/au5p6mxvheo 
 
 
WSJPO 西サハラ政府・日本代表事務所 所長:川名敏之     2020年6月17日 
SJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)代表:平田伊都子 


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