2020年06月24日12時05分掲載  無料記事
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ロラン・バルト著 「エッフェル塔」  〜「豊か」だった70年代や80年代よりむしろ、今日が読み頃では?〜

  ちくま学芸文庫のロラン・バルト著「エッフェル塔」を読み返してみた。かれこれもう20年ぶりにはなるだろう。前回、読んだときは正直ポイントがわからず、読めども頭を直撃する何かを感じることがなかった。しかし、モーリス・ナド―とバルトの対談を読んだことで、バルトのねらいが鮮明になってくると(少なくともそう自分に思えると)、「エッフェル塔」も極めて明快な本であることがわかった。この本はパリのエッフェル塔が様々なシンボルになっているが〜つまり、様々な人々にとって様々なシンボルとして生きている〜それがどのような機能や理由でそうなっているのかを書いているのである。バルトによれば、それはエッフェル塔が機能を持たない無用のオブジェであるからだということになる。実際には科学目的とか様々な理由はあったけれど、そういう目的はエッフェル塔の無用性に比べると、大したことがないと割り切っているところがすごいし、本書の土台となる。人によっては、この点でひっかかってしまうかもしれない。 
 
  「物の有用性とは、実のところ物の真の意味をおおいかくしているものにほかならない」 
  「エッフェル塔もその誕生の口実となった科学的根拠からすみやかに解放されて(この塔が現実の有用性を持つかどうかは問題ではなくて)、変化する様々な意味がまざりあう、1つの壮大な人間の夢の出発点となったのである。塔は、それが人間の想像力の世界で生きるための根本的な無益性を獲得したのである」 
 
  本の序盤でバルトは明快に本書の姿勢を示し、その後、実際にエッフェル塔がどのような変化にとんだ人間の想像力の対象になっているかを記していく。エッフェル塔が何よりも鉄塔であり、鉄が近代のシンボルであったことは言うまでもないが、同時にそれは網目を示し、軽さのシンボルでもあることを示す。エッフェル塔の建築が遠くから見るとレースやストッキングなどの透かし模様に似て、それが空虚を示す、としているところはバルトの想像力を強く喚起したことだろう。この発想はおそらく後の日本文化論でもある「表徴の帝国」とおそらく通底することだろう。 
 
  バルトは一貫して1つの意味や解釈を押し付けられることを嫌った。そのことは間違いがないようだ。ロラン・バルトが日本で競って読まれたのは1970年代から80年代くらいではないかと思われる。その頃の日本は高度経済成長から抜け出し、脱工業化社会になろうとしていた。その頃、「不思議大好き」というようなコピーも生まれた。それまでの物の1つの機能性だけでなく、商品は夢やライフスタイルを示す、というような考え方が広まりつつあった。こうした時代とバルトは響き合っていたのかもしれない。しかしながら、現代はむしろ逆とも言える。だからこそ今の時代とバルトはむしろ本質的に響き合っているように感じられる。なぜなら、意味の押し付け、解釈の押し付けは30年前の比ではなくなっているからだと思う。現実のはらむ多義性とか、それを見る時の多角的な視点というものがどんどん削られて1つのナレーションに固定されつつあるのである。 
 
   現代を象徴するメッセージが自民党の安倍首相が展開した「この道しかない」というもので、かつてウッディ・アレンを起用して展開した西武のコピー「不思議大好き」と比べると、日本人の窮乏化をシンボライズした言葉に聞こえる。金も物も豊富に持ち合わせる人は物に幻想を抱くことができるし、選択の幅も解釈の幅も持ちえる。しかし、所持金が少なくなると、選択肢がなくなってくるから「不思議大好き」などと言ってはいられない。ミルトン・フリードマンはネオリベラリズムを「選択の自由」という言葉で称賛していたと思うけれど、庶民はどこに生活上の選択肢があるのだろうか。もう値札しか見えない人も少なくなかろう。だからだんだん価値観もシンプルになっていくのではないだろうか。だからこそ、どのくらい私たちが世界に固定されているかを確かめるにはよい1冊のように思った。つまり、ロラン・バルトが論じていることは経済的な豊かさとは別の次元のことだからだ。 


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