2020年07月24日01時45分掲載  無料記事
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手塚治虫著「マンガの描き方」   漫画は脳内のイメージで描く 

  確か私が小学5〜6年生の頃だったと思うのです、手塚治虫の「マンガの描き方」という本が最初に出版されたのが。日本の漫画のパイオニアである手塚氏のこの本を最近、また再読する機会がありました。今、読んでみて、一番印象深かった言葉が、漫画は脳内のイメージで描く、というものでした。それはどういうことかというと、手塚氏は漫画を描くためには日ごろから、街を歩いた時にいろんなものを観察して、頭の中でデッサンすることを勧めているのです。そんなものは写真で撮影してあとでそれを見て描く方が正確に描けるんじゃないか、と思ってしまっても不思議ではありませんが、手塚氏はそれを勧めないのです。あくまでできる限り、裸眼で世界を観察して、頭の中で絵を描けと言うのです。漫画はそのようにして脳に蓄えたイメージで描くので、写真をコピーするのとは違うと言うのです。 
 
  これを読んで何年か前の記憶が蘇ってきました。動物園でワニの水槽の前にいた時、ある知らない母親と幼い少年がやってきて、ほとんどすぐにデジカメでワニの写真を撮影したのです。それで、写真を撮って一言子供と言葉を交わしたら、すぐに次のコーナーに行ってしまったのです。親子が裸眼で動物を見る時間は非常に少なかったのです。もちろんどんな事情があったのかもしれませんのでその親子がどうというのではありません。しかし、もったいないことではあると思いました。つまり、目の前にたたずんでいるホンモノを見る絶好の機会なのに、親子はカメラという機械に複写させてしまっただけで満足してしまったであろうからです。 
 
  カメラで撮影したものはホンモノだから、どこがいけないのか。いったい何が違うのか?と思う人もいるかもしれません。しかし、ホンモノと画像データになったものとは全然違っているものなのです。そもそも写真で再現できる形や色は誰が見ても同じようにしか見えません。それが写真です。しかし、手塚氏が言っていたように「脳内で絵を描く」ということは外界の色や形を自分の感受性を通して脳にその印象を蓄えることで、それは絶対に写真画像とは異なるものです。脳内で描かれた動物はその人が意識的に見た動物の性質が色濃く反映する反面、はっきりと意識しなかった部分は弱い印象になります。脳の中でデッサンすることはそのギャップを埋める作業でもありますが、しかし、それは写真と同じ正確さのための作業ではなくて、あくまで自分の心に見えた存在をできるだけ正確に写し取る作業なのだと思います。それができるのはやはりホンモノを前にした時だろうと思います。 
 
   漫画ではデフォルメしたり、省略したりしますが、その時に写真データを見て描こうとすると、どうしても写真画像の印象がホンモノを現地で見た印象と比べると、平板でのっぺらしているためにメリハリをつけることは多分難しくなるのではないでしょうか。感動も乏しいのです。写真画像にはなかなか定着しない、存在の持つ息遣いや空気のようなものもあると思います。写真家はそれを写真に表現として定着させようとするのだと思いますが、そのためには時間をかけて対象とつきあい、何枚も撮影するのではないでしょうか。 
 
  このことは美術館で絵画や写真のホンモノを見ることと、本や雑誌で画像を見ることとの違いとも重なってくるものだと思います。やっぱりホンモノの絵画を見ると、目の前に線や筆致をリアルに感じることができ、画家の息遣いまで感じることができます。しかし、美術本に収録された絵画はデータ以上のものではありません。撮影された写真も、外部の媒体に書き込まれたもので、脳の内側に蓄えられた印象ではないのです。つまり、写真によって外部の事物を外部の媒体に転写しているだけなのですが、その段階で事物が持っていた様々な要素は消え去っています。要するに、現実がはらんでいた情報量に比べて、そのプロセスで、はるかに貧困になっています。その意味では時間がかかっても裸眼でしっかりものを見てその印象を心に刻む方がより大きく、豊かで個性的な経験になる可能性があります。そのためには立ち止まって、ものをじっくりと見る時間が必要です。 
 
  現代は多くの携帯電話で写真も撮影できるために、日常で出会う写真の量は30年前、40年前と比べると半端でない膨大なものだと思います。しかし、その分、個々人が裸眼で無言でホンモノと対峙して、脳の中にイメージを描く力はかなりな速度で衰えているのではないでしょうか。それがどのような影響をリアルな社会に投げかけるのか、あるいはすでに与えてきたのか、これは社会学のテーマでもあると思います。 


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