2020年08月03日11時37分掲載  無料記事
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反戦・平和

「黒い雨」と高丸矢須子 「正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」

 75回目の原爆忌を控えた7月29日、広島への原爆投下後に降った「黒い雨」による健康被害をめぐる訴訟で、広島地裁は国の援護対象地域外にいた原告たちを「被害者」と認めた。「ようやく声が届いた」と勝訴を喜ぶ高齢の原告たちの姿に、私は井伏鱒二の小説『黒い雨』の主人公、高丸矢須子を重ね合わせた。おなじ雨を浴びて若い命を絶たれた彼女は、この判決を天国からどのように見ているだろうか。戦争と核、そして平和について、矢須子とともに考えてみた。(永井浩) 
 
▽矢須子の日記 
 広島に米軍が投下した原爆の恐怖と悲劇を描いた井伏の小説は1965年に発表され、89年には今村昌平監督によって映画化された。 
 矢須子は直接被爆したわけではないが、放射能の黒い雨を浴び、被爆した叔父、叔母とともに福山市郊外の田園地帯に帰る。美しく気立てのよい娘は、被爆者あつかいされ、縁談はかたっぱしから破談になる。 
 叔父の閑間(しずま)重松は、真実を知ってもらおうと彼女の日記を清書するが、矢須子も原爆症で発病する。死を直前にした矢須子を病院に見送る重松がつぶやく。「今、もし、向こうの山に虹が出たら奇跡が起こる。白い虹でなく五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」 
 
 8月10日の日記に、こう記されている。「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」。映画では、ラジオのスイッチを入れた重松の耳に朝鮮戦争のうごきを伝えるニュースが飛び込んできたときに、彼がおなじ言葉を発する。「正義の戦争よりも不正義の平和の方がいいちゅうことを、なんで人間はわからんのじゃ」。朝鮮半島で激戦をつづける国連軍(米軍)が、中共軍への原爆使用も辞さない方針をあきらかにした、というアナウンサーの声が流れている。 
 
 広島・長崎への原爆投下を、米国政府は「戦争の終結を早めた」と正当化し、戦後一貫して公式見解として堅持している。原爆投下による日本の降伏で本土侵攻作戦が避けられ、100万人の米兵とそれ以上の日本人が救われたというのだ。この「原爆神話」は、いまも多くの米国民に信じられつづけている。 
 
▽井伏鱒二のシンガポール体験 
 叔父が清書をつづける矢須子の日記の8月9日には、つぎのような一節がある。「新型兵器」とうわさされる爆弾の煙が広島市街の上空たかく昇り、上になるほど大きく広がっていく光景を、岩陰から両膝の震えが止まらぬ状態で目撃したときの感想である。 
 「私はいつか写真で見たシンガポールの石油タンクの燃える光景を思い出した。日本軍がシンガポールを陥落させた直後に写した写真だが、こんなことをしてもいいのだろうかと疑いを持ったほど恐ろしい光景であった」 
 原爆のきのこ雲の下でおびえる矢須子は、かつて自分の国がアジアの都市に投下した爆弾の下に自分と同じ人間がいたことを想起できた。 
 
 私はこの一節を読んだとき、これは作家井伏の創作に違いないが、なぜ彼はこのような視点をもちえたのかに興味をそそられた。 
 この疑問は、のちに井伏のアジア太平洋戦争中の体験を知ることで解けた。彼は、大本営の陸軍報道班員として徴用されマレー戦線に狩りだされていた。 
 班員は新聞記者、雑誌編集者、作家、画家らで、国策「大東亜戦争」を美化し、宣伝することが仕事だったが、東京新聞記者から班員となった松本直治によれば、戦争への考えはさまざまだった。松本は戦後、その体験記を『大本営派遣の記者たち』(桂書房)にまとめ、マレー半島のゴム林のなかにつづく道を一緒に進み、シンガポールに入港してからも同じ宿舎に住んで交友を深めた「戦友」井伏班員についても記している。 
 
 日本軍は、1941年12月8日の真珠湾攻撃の数時間前に英領マレーに上陸、英国軍の拠点シンガポールにむけて進軍したが、その先々で華僑(中国系住民)を抗日分子として虐殺した。さらにシンガポール陥落後、「粛清」と称する華僑の大量虐殺を行った。その犠牲者の数は定かでないが、数千人から4、5万人ともいわれている。 
 
 松本によると、井伏班員はある日、若い華僑たちが数千人も大広場に集められ、死刑の場所へ引き立てられていくのを目撃した。そのおびただしい群衆の中で、かつての日本領事館の嘱託だった篠崎護が憲兵とかけあって、「無辜の華僑は解き放してくれ」と10人、20人と束にして必死に救出している。そのすがたに感動した井伏は、篠崎に手を貸した。 
 篠崎はその日の夕刻、井伏が責任者をつとめる宣伝班の昭南タイムズにやってきて、無実の華僑の命を救うために、華僑に「良民証」を発行するよう市当局に提案しているので新聞に記事を掲載してくれないかと言った。良民証は数日後に発行され、昭南タイムズにも一日何十人もがそれをもらいに来た。 
 
 ある日、シンガポール陥落作戦の英雄、山下奉文軍司令官が予告なしに報道班の宿舎にやって来た。全員部屋から出て、司令官に敬礼せよ命じられた。 
 山下が一巡して玄関に出たとき、部屋に引っ込んだ井伏が顔を出した。一瞬のことだったが、目が合った。井伏は、すぐ顔を引っ込めた。これが軍司令官にはカチンときたらしい。 
「あの無礼者は何者か」と問う司令官に、副官が答えた。「小説家です」 
 司令官は、「そんな者は戦争の役に立たん、すぐ帰してしまえ」と命じた。 
 
 戦後独立したシンガポールの小中学校教科書には、「日本の統治はすべての人にとって悪夢だった」と記されている。マレー半島の多くの人びとは、広島・長崎への原爆投下のニュースを知って、「これでやっと日本軍の残虐行為が終わる」と歓迎した。 
 シンガポールには、華僑をふくめ日本占領時代に犠牲になった市民を追悼する「血債の塔」といわれる慰霊碑が建っている。 
 
▽「正義の戦争」への日本の新たな加担 
 「正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」という、原作の矢須子の言葉と映画の叔父の言葉には、米国と日本のそれぞれの戦争の大義に対する、井伏の異議申し立てが投影されているのではないだろうか。日本の降伏を早めるための原爆投下という米国の主張と、白人支配からのアジアの解放という日本の「聖戦」の旗印が、罪のない普通の市民の大量虐殺を正当化できるはずはない。 
 
 だが「正義の戦争」は、21世紀の現在も世界の各地で繰り返されている。 
 米国のブッシュ政権は、2001年にニューヨークで起きた9・11の同時多発テロへの報復としてテロリストの殲滅を叫び、この戦いを「正義の戦争」と呼んだ。テロリストを匿っているとして、米軍は同年にアフガニスタンのタリバン政権を攻撃、さらに次の標的とし03年にイラクに侵攻する。フセイン政権が大量破壊兵器を保持し、テロリストを支援しているという虚偽の情報を根拠にしたものだった。 
 
 小泉政権は、米国の正義の戦争をいちはやく支持し、「国際貢献」の旗印のもとに、自衛隊を海外派兵した。アフガン爆撃に出撃する米軍機に海上で給油するために海上自衛隊がインド洋上に、イラクのサマワには人道復興支援のために陸上自衛隊が派遣された。 
 米軍のイラク攻撃は、国連安保理の承認を得ない「侵略」だったが、日本政府は、その侵略戦争に日本国憲法に違反してまで加担することが正義だと主張した。 
 
 対テロ戦争で米軍に殺されたのは、テロリストではなく、テロとは無関係の一般市民が圧倒的多数だった。 
 アラブ世界のメディアには、米軍の無差別爆撃にさらされるバグダッド市民の悲劇をヒロシマ・ナガサキになぞらえる声が多数伝えられた。アラブ首長国連邦のドバイに拠点を置くアラビア語国際ニューステレビ局アルアラビーヤには、こんな声も紹介された。「ブッシュの天国より、サダムの地獄(のほうがまし)」 
 
 戦後75年の幕開けの今年1月、安倍政権はイランとの対決姿勢を強める米国のトランプ政権に寄りそうかたちで、海上自衛隊を中東海域に派兵した。 
 
「黒い雨」は、いまも降りつづけている。 


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