2020年09月03日15時28分掲載  無料記事
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欧州

イタリア現代史ミステリー 第一弾「イラリア・アルピの死」(その3)〜チャオ!イタリア通信

(前回記事) 
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→(イタリア国営放送局記者のイラリア・アルピの死から26年。彼女はなぜ死ななければなからなかったのか。事件の経過を振り返る) 
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 まず、3月20日事件当日のインタビューでは、現場に駆け付けたマロッキーノ氏、イタリア人ジャーナリストガブリエッラ・シモーニ氏、当時の多国籍軍のイタリア軍長カルミネ・フィオーレ氏はイラリアとミランは狙われて殺害されたと証言している。また、イラリアの母は、事件を知らされた後、イラリアの遺体は弾丸を多く撃ち込まれていると聞かされ、遺体確認には自分の兄と義兄にしてもらったが、二人は遺体確認後、イラリアの遺体は頭に包帯が巻かれていただけと証言している。さらに、最初に二人の遺体を検査したのは、イタリア艦隊「ガリバルディ」の医師と、モガディシュの空港にある遺体安置所(アメリカ軍のための会社)の医師たちである。彼らの報告書によると、イラリアは左側のうなじに撃たれた跡があり、指が一本破損していた。撃たれた時に、顔や頭をふさいだために破損したと思われる。ミランは右側のこめかみの上から下へ弾丸が撃たれていた。ミランの右腕には数か所の擦り傷があり、やはりミランも身を守っていたと思われる。 
 
 不思議なことに、「ガリバルディ」の医師による報告書と遺体安置所の医師たちによる報告書は、後に紛失する。これらの証言や報告を裏付けたのは、最初にイラリアの遺体を検死したジュリオ・サケッティ氏の検死報告である。イラリアのうなじからカリブロ9の弾を取り出し、傷は頭に一つしかなかったと報告している。つまり、イラリアは小さな武器による一撃で至近距離から殺害されたという見方である。 
 
 一方、イラリアとミランの運転手をしていたアリ・アブディは、LandRover からカラシニコフを持った二人の男が降りてきて、トヨタに向かって撃ち始めたと証言している。カラシニコフは機関銃で、連射されたことになる。となると、イラリアの遺体に傷が一ヶ所というのはおかしいことになる。至近距離から狙われて殺害されたのか、遠くから連射でその弾にたまたま当たって殺害されたのかでは、まったく彼らの死の意味が異なってくる。 
 
 1995年から96年の国会の調査委員会のメンバーであったマリアンジェラ・グリッタ・グライネル氏の発言によると、一目で至近距離からの殺害と明らかなため、検察は検死解剖を行わなかったとなっている。事件から2年後の1996年には、検察がイラリアの遺体を検死解剖し、弾道鑑定も行い、遠くから撃たれたと判断する。ただ、イラリアの家族は至近距離から撃たれたと考えており、2004年には再び国会の調査委員会の命令で、イラリアの遺体が検死され、再度遠くから撃たれたと判断される。 
 
 検察や国会調査委員会の判断は、結局遠距離からの殺害となったが、それではなぜ事件当初の現場目撃者や遺体を見た医師たちの証言は皆至近距離からの殺害となっていたのか。唯一、カラシニコフでの遠距離からの攻撃と証言したアリ・アブディは事件後イタリアにおり、その後大金を持ってソマリアに帰ってきたという話がある。そして、1998年にアリ・アブディは、カラシニコフでイラリアを撃ったという男の顔認識もしている。その男は、オマール・ハサンという。1996年の夏にソマリアのイタリア大使によって、突如事件の証人として見つけられた「ジェッレ」という人物がいる。「ジェッレ」は、LandRoverに乗った男たちを知っているとして、証人になるためにイタリアに連れてこられたが、検察官の前では一人の男の名前しか言わなかった。それが、オマール・ハサンである。1998年1月にオマール・ハサンは、イタリアで他の10人のソマリア人たちと見つかる。そして、裁判にかけられる。ハサンは、事件当日にはモガディシュにはいなかった、具合の悪い親戚のところにいたと証言する。また、証人の「ジェッレ」が、この時には行方不明になっており、ハサンは無罪放免となる。その後、ハサンはオランダへ行き、仕事も見つかり、裁判の控訴を待つ身となる。2000年11月には控訴があり、ハサンは一転して無期懲役となる。主に、「ジェッレ」の証言を元に罪を確定しているが、その「ジェッレ」はイタリアに来た後、2000年から政治的理由でイギリスに滞在している。ただ、その時から捜査関係者は誰も「ジェッレ」に会いに行っていない。結局、ハサンは2002年の裁判で懲役20年という罪を課せられる。しかし、2007年に、イラリアの両親が異議申し立てをして捜査の継続が決まる。そこから、今日まで事件は解決していない。昨年のニュース記事で、ハサンのインタビューを読んだが、イラリアの両親はハサンの無実を確信しており、ハサンを支援していると書かれていた。 
 
 ハサンの罪が確定して、さらに国会の調査委員会も事件の報告書を作成する。イラリアとミランは誘拐目的で殺害されたという内容である。委員会の多数派は、報告書の内容を支持し、少数派は反対している。誘拐目的での殺害で言えば、なぜ武器を持っていた運転手とボディガードは無事だったのか、武器を持っているものから攻撃されるのではないかという疑問が残る。しかも、誘拐目的だが、イラリアとミランからは何も奪われたものはなかった。 
 
 事件は解決したとするには、早急すぎるようだ。重要な証拠物である、二人が乗っていたトヨタは、事件後すぐ行方不明となる。また、ソマリア側の捜査報告書もある。そして、イラリアとミランがソマリアで何をしていたのか。事件当日、イラリアがモガディシュの空港からホテルに行き、そこで上司に「面白いニュースがある」と電話している。それは何なのか。 
 
(次回へ続く) 


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