2020年09月21日02時44分掲載  無料記事
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欧州

ドイツ通信第160号 新型コロナ感染のなかでドイツはどう変わるのか(8) T・K生:ドイツ在住   

8月29日は、ベルリンで〈反コロナ規制〉グループの中央集会になり、警察発表で3万8千人の結集といわれ、それに対して参加者側からは、数十万、あるいは100万人との過大な発言と触れ込みの声が聞かれます。しかし、この勢力を過小評価できない背景は、もう一度8月1日のドイツ全土での集会、デモの全体像を振り返ってみれば理解できるところです。 
 
この日はベルリンで2万人、そしてマンハイム、シュトゥットガルト、ハンブルク、ドルトムント、フランクフルト、ダルムシュタットでそれぞれ数百人から数千人規模の集会・デモが同時に取り組まれていました。シュトゥットガルトで始まった運動が、各州に広がっていることがすでに読み取れ、それを受けての29日のベルリン中央集会ですから、政府、市民のなかに政治的影響力とコロナ感染への脅威と不安が広がり、この運動の評価をめぐる調査、議論が公然となってきました。 
 
最近の世論調査では、国民全体の90%が反コロナ運動に反対し、70%が政府のコロナ規制に同意しているという報告がある一方、他方でコロナ規制による生活・経済負担から、消極的あるいは積極的かの如何を問わず30%近くが反コロナ運動に同調、支持を表明しているというアンケート調査結果も出され、テーマの複雑さと深さを知らされます。 
 
「民主主義の破壊」、「極右派グループに連なる運動」云々といって一概にすまされない問題があります。 
 
私は実際にこのグループに接したことがないですが、可能な限り収集できる資料の中から問題の所在を浮かび上がらせてみます。 
 
1.組織力あるいは組織性に関してです。 
 
「Der Spiegel」 Nr.32/1.8.2020に興味深い記事―タイトル名は“Immer wieder sonntags von Christian Volk”が掲載されていますから、これを参考にします。あまたとある資料のなかでも、私には最も説得力を持っていると思われるからです。 
 
ザクセン州のツィッタウ(Zittau)から延びる国道96号(B96)線 をバウツェン(Bautzen)まで行く途中に小さな村(注)があります。ここで5月初旬から毎週日曜日に、反コロナ規制の抗議行動が取り組まれています。 
 
(注)エーベルスバッハ‐ノイゲルスドルフ(Ebersbach-Neugersdorf) 
 
午前10時になれば、住民が誰彼なしにと道路を挟むように両側の歩道に立ち尽くし、一時間抗議の意思表示をして11時に解散していきます。大きな集会、デモはマスコミ・メディアが取り上げますから衆目の注意をひきやすいです。こうした辺境の小さい村の抗議行動は、しかし、ほとんど知られず、注目されることがないのが通常です。すでに4ヵ月間近く持続されてきた抗議行動で、まずその持続力に驚かされ、つぎに同様な運動が、知られないだけで、まだまだあちこちにいくつも存在しているのではないかと想像させられれば、自ずと気が重くなります。それ故に、この運動の持っている意味を知り尽くさねばならないのです。 
 
ここに、そのうち一人の男性が紹介されています。彼は、ドイツ帝国国旗をかざし、何も言わず沈黙で抗議の一時間、他の住民たちと立ち続けます。それだけです。それを4ヵ月間続けてきました。 
 
彼がこの行動に立つのは、「(人間の?筆者注)尊厳が奪われたからだ」といいます。しかし、謀略論者のレッテルを貼られ、職場を失わないために名前も年齢も匿名にしています。 公然たる行動のようで、しかし、「他の側」の視線も気になっている緊張感も伝わってきます。 
 
ここに集う人たちを不愉快にしているのが、〈マスクの着用義務〉だといいます。理由は、 
 
・マスクはウイルスに効果がないと信じる 
 
・だから、マスクは口輪=言論抑圧でしかない 
 
道路傍には、毎回、数百名の人たちが立ち並び、黒‐白‐赤三色の帝国国旗と並んで、カイザー時代の戦旗も見られます。 
 
上記男性を行動に駆り立てたのは、コロナ感染による「学校の閉鎖」だったと動機を説明します。 
 
子どもたちには、何週間も続く在宅生活です。 
 
・親が子どもに授業できれば、学校の必要はない。しかし、自分はそれができない 
 
・妻は短縮労働で、家計が逼迫してくる 
 
こうした生活の窮境は、誰からも、どこからも聞かれます。切羽詰まった救助を求める声です。彼は、それを沈黙と帝国国旗で示しました。誰も聞き入れてくれないからです。 
 
・挑発する必要があった 
 
・しかし、民主主義は拒否しない 
 
彼は妻とともに、家族と子どもの将来のために精一杯仕事をしてきたことが、その話しぶりから伝わってきます。私たちもそうでしたが、コロナ感染からロックダウン、そして〈コロナ規制〉へと生活環境が変化するにつれて、意識の変化が起きてきます。生活の足場を見直す機会になりました。 
 
ワクチン開発・製造、エネルギー転換、E-Car、自然環境等々が、彼のテーマになってきます。 
 
・ドイツはいつも先頭を行き、先駆者でありたい 
 
・すでに、最も健康で最も清潔な生活を送っているではないか 
 
・ここで一度、速度を落としてゆっくりやってみたい、やってみてはどうか 
 
生活のスピードを落とし、人がゆっくり考えるようになれは、人間生活に必要なテーマに行き当たるのではないかという訴えです。 
 
いくつかの諸点―コロナを信じるか否か、帝国国旗、挑発の必要、マスクは言論抑圧―を除いて、私も含め一般市民と何ら変わらない、どこでも聞かれる見解だといっていいでしょう。 
 
それがどこで、どうして極右派、謀略論神秘主義者の流れと錯綜していくのかと問うとき、その契機が実は〈マスクの着用〉にあるのが、ここに見てとれます。〈マスク〉論争は、こうして政治問題に発展してきました。 
 
国道96号線は、1989年ドイツ統一民主革命の伝統を持っています。当時も同じように96号線に沿って「人間の鎖」ができました。 
 
DDR(旧東ドイツ)スターリン主義独裁制度からの自由を求める解放闘争でした。「コロナ政権」を独裁政権と規定すれば、「伝統的な抵抗意識」の琴に触れることは、当然の成り行きです。 
 
道端に立ちつくす彼(女)たちは、正当な抵抗者になります。それが彼(女)たちの意識と、一部の迷いごとに取りつかれた奇人(集団)ではないという自覚を支えます。 
 
他方で、2019年の州議会選挙でAfDが得票率37%を獲得しているのが、この国道96号線沿いです。2015年の難民受け入れと、それに対する市民の反対意見はPegidaのもとに集約され、最終的には極右派に純化したAfDの政治的躍進を後押しする形となりました。そして社会が、あたかもグラスが割れるように粉々に引き裂かれていきます。「自分は何か?どこにいるのか?」への自問が始まります。アイデンティティの模索です。 
 
2.次の問題は、AfD等極右派と住民の抗議行動の関連性に関してです。誰が、どう組織し たのか? 
 
抜き差しならぬ社会問題が存在し、市民の意見が極端に二極分解して、対立に収拾がつかない状態に入った時、市民の中に憎悪、憎しみが生まれてきます。その空気をさらに過激化させて対立と騒乱、混乱を扇動し、エスカレートさせるのが、とりわけこの間のAfDの手口でした。 
 
その目的は、二つあるでしょう。 
 
・政府および民主主義派の統治能力に猜疑心を抱かせ、 
 
・不安が募る市民の声を代表して、〈法と秩序〉の護民官になりすます 
 
それ故に、挑発と扇動は休みなく、かつ過激でなくてはならなくなります。極右派グループが、二極分裂した社会の亀裂を暴力的に攻撃してくるとき、民主派および左派の対応が求められます。テーマは、裂かれてしまった社会の亀裂をどうするのか、ということです。 
 
それへの起ち遅れが、アメリカ、ブラジルに顕著な武器使用をも含む暴力的かつ殺人的な抑圧、差別・人種主義を許してしまっているのだと考えています。 
 
もう一人の男性が、この記事のなかで紹介されています。彼は、Pegidaの同調者でした。しかし、AfDは国会で身動き取れない状態におかれ、それによってまた党内の権力闘争が激化してきます。(注) 彼は、AfDに最早「将来が見られない」と突き放し、5月の初めから毎回、傘を持って立ち続け、「直接民主主義の必要性」を強調します。彼の批判点は、 
 
・異なる意見を排除するのではなく、議論への興味をひきだす 
 
・しかし、既成政党の政治家は誰もここに立ち寄り、耳をかそうとしない 
 
(注)確かにAfDは、議会審議で既成政党から猛抵抗を受けていますが、審議を妨害しているのがAfD自身であることも見逃してはならないでしょう。 
 
以上、2人の男性の声を記事に従って紹介しました。 
 
私が〈反コロナ規制〉運動に結集する人たちをファシストと一概に決めつけられない理由は、いくつかの諸点を除いて、以上のような全うな批判意見であるからです。 
 
では、ファシズムの危険性はどこにあるのか? 
 
3.次にファシズム運動と〈反コロナ規制〉運動とのつながりです。 
 
上記「Der Spiegel」の記事によれば、国道96号線での〈反コロナ規制〉運動は、当初から極右派の関りが認められるといいます。そのいい証拠が、ドイツ帝国国旗とカイザー時代の戦旗、および極右派の典型的な発言が際立っていたと、州の憲法擁護局の調査でも明らかになっています。 
 
しかし、大衆運動の組織過程においては、彼らの基本的主張、見解を見抜かれないよう姑息に、注意深く振舞ってきたといわれます。これが、「(極右派、ネオナチ等が―筆者注)大衆運動に潜り込んでいる」といわれる所以です。 
 
事実は確かにそのような構造になっていますが、あまりにも客観主義的で、主体的に無責任な分析ではないかと思われ、私がこれを書く動機になりました。 
 
記事が言うように、ドイツ帝国国旗とカイザー時代の戦旗は、法律的には禁止されていません。しかし、それらが極右派、なかでも強硬派(Reichsbuerger-ファシスト・グループ)の象徴であることは、社会の共通認識になっています。それを「承知」で、はたまた「知らない」で、行動を共にしてるのか? 議論の究極的なポイントは、ここにあるでしょう。それは、戦後の民主主義の歴史過程を再検証させることになります。ドイツ(人)にとって「過去の克服」、「ユダヤ人虐殺=ホロコースト」の歴史とは何だったのかとの問いです。 
 
その背景を政治レベルで考察してみると、市民内部に激化してくる暴力的な対立を含む意見対立、社会の二極化に向かう基盤が、「誰も耳を傾けてくれない」という一点にあるように思われます。 
 
議論の必要性が、声高になってきます。しかし〈どう、誰と、何を〉となれば、はっきりした指針がないのが現状です。 
 
一例ですが、既成各政党は、多少の違いがあるといえど、基本的に、 
 
・〈反コロナ規制〉運動は、すでに「一線を越えている」 
 
ことを根拠に、極右派グループとの討論機会を拒否しています。だた、個人的な議論の扉は開かれています。 
 
これを実践的に解釈すれば、政治家側から「一線を越えた」極右派グループのもとに出かけ議論する必要性はないが、しかし、運動参加者が、その必要性から個人的に政党を訪れてくれば、面会時間の枠内で話しに応じることはできるとなります。 
 
2015年のPegidaに対する対応でも同様でした。当時のSPD党代表が、「個人の資格」でドレスデンに足を運び、抗議集会の現状で議論したことについて、即座に党内、そして各方面から激しい批判が投げかけられました。今の状況は、何も変わっていないです。 
 
市民を見放しにしてはいけないことを認めながらも、運動と組織に政治的に危険な傾向が見透かされるだけに、各政党及び市民の対応に苦慮の跡が認められます。 
 
これを別の角度から見れば、〈反コロナ規制〉運動とは、 
 
・市民の不満、不安を寄せ集め、 
 
・「基本的権利」を要求することによって、 
 
・様々な政治的色合いと傾向を持つグループを集合することを可能にした 
 
といえると思います。極右派、ネオナチが直接前面に出ず、陰で動く意味がそれによって理解されます。 
 
政党を動揺させる問題が、実は路線基軸を「ブルジョア中間派」に据えてきたことにあることが、ここで一目瞭然になってきます。政治方針を定めながらも、多数派を形成し政権を狙うためには「ブルジョア中間派」を獲得する必要があり、議論はここをめぐる路線論争であり、それによって政治方針の右或は左への動揺が生じてくることになります。 
 
このジレンマを「政治過激主義」研究者(Kailitz)は、記事のなかで次のようにまとめています。 
 
もし、この人目につく少数派を満足させようとすれば、静かな物言わぬ多数派に猜疑心を植え付けてしまうだろう。 
 
私にとっては、大変興味ある観察と分析だと思われます。 
 
ここで、再度ベルリンの中央集会に戻り、〈何を、誰と、どう〉するかを考えてみます。 
 
(つづく) 
 
T・K生:ドイツ在住 
 
 
ちきゅう座から転載 


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