2021年02月05日17時53分掲載  無料記事
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アジア

アジアの女性政治指導者たちの栄光と失脚 新しい指導者像を予感させたスーチー氏の復権は可能か?

 ミャンマーのアウンサンスーチーが国軍のクーデターで政治指導者の座を追われたニュースであらためて気づくことは、アジアでは女性の政治指導者は珍しい存在ではないという事実である。20世紀後半以降でも、フィリピンのアキノ、アロヨの両大統領、インドネシアのメガワティ大統領、タイのインラック首相、パキスタンのブット首相、韓国の朴大統領、それにスーチー国家顧問が活躍してきた。アジアの先進国を自負しながら、いまだに女性宰相が誕生せず、元首相が「女性が多い会議は時間がかかる」と発言する、どこかの国とは異なる。なぜアジアの女性トップリーダーなのか、彼女たちはどのような政治的業績をあげたのか、そうでなかったのかを振り返ってみよう。(永井浩) 
 
▽いずれも名門の出身者 
 彼女たちを政権トップに押し上げた背景は、各国で女性の権利が向上したからではない。女性のトップに国民の抵抗感が少ないことはあるが、彼女たちに共通しているのは、いずれも名門の出身であり、彼女たちの父や夫の業績を評価する国民が現状改革の旗手として、娘や妻、肉親に希望を託した面が強い。 
 アウンサンスーチーは、英国の植民地支配からのビルマ独立の英雄アウンサン将軍の長女である。彼女が1988年に彗星のように民主化運動の指導者として登場したときの第一声は、「民主化運動は第二の独立闘争である」だった。独立直後に政敵に暗殺された父がめざしていたのは、現在の軍事政権下のような祖国ではない、と彼女は国民に訴えた。 
 「建国の父」の娘という栄光を背負ったスーチーは、たちまちカリスマ的人気を博し、彼女もその父の名を汚さないように軍政の過酷な弾圧に屈しなかった。その姿が多くの国民を勇気づけ、さらに彼女の人気をたかめ、計15年におよぶ自宅軟禁をへてついに2016年にアウンサンスーチー政権を誕生させた。 
 
 1986年の大統領選で勝利したコラソン・アキノは、マルコス政権に暗殺されたアキノ上院議員の妻であり、フィリピン有数の大財閥の一員である。マルコス大統領の独裁政治に反対する軍部首脳の一部と民主化を要求する「ピープルパワー」に押されて、彼女は同国初の女性大統領に就任した。 
 その後、2001年に副大統領から大統領に昇格したグロリア・アロヨは、第9代大統領マカパガルの娘として生まれた。米国の名門大学で後の米大統領クリントンとクラスメートだった彼女は、帰国後アキノ大統領に抜擢されて政界入りした超エリートである。前任のエストラダ大統領が違法賭博献金疑惑で同国初の弾劾裁判にかけられ、市民の辞任要求が高まったのを受けて、大統領選で元大統領をおさえて勝利した。 
 インドネシアのメガワティ・スカルノプトリ大統領は、「建国の英雄」で初代大統領のスカルノの長女として生まれた。1980年代末に政界入りすると、強権的なスハルト体制に対抗する民主化のシンボルとなった。98年にスハルト大統領が民主化要求デモで退陣したあと、99年の選挙で党首をつとめる闘争民主党が第一党になり、2001年に初の女性大統領に就任した。 
 
 2011年にタイで初の女性首相に就任したインラック・シナワットは、タクシン元首相の妹で、シナワット一族はタイ有数の大富豪である。 
 タクシンは、通信事業で巨万の富を築いたのちタイ愛国党を結成、2001年の総選挙における同党の圧勝で首相に就任した。彼は歴代政権が軽視してきた農村などの貧困問題に本格的に取り組み、農民や都市下層民から強い支持を得たが、独断専行的な姿勢やメディアへの介入にくわえ、首相一族の株売却疑惑が明るみになったことで、首都バンコクで首相退陣を要求する市民集会が相次ぐようになり、2006年の軍のクーデターで政権の座を追われた。 
 彼女もビジネスエリートで政治経験はゼロだったが、2011年の総選挙でタイ貢献党から出馬すると、タクシン人気にくわえ、エリート臭さを感じさせない親しみやすさとかわいらしさ、それに美貌で「インラック旋風」を巻き起こし、同党に地滑り的勝利をもたらした。同党は彼女を首相候補に指名した。 
 
 パキスタンのベナジル・ブットは、父のズルフィカール・アリー・ブット元首相が設立したパキスタン人民党の総裁をつとめ、1988年の民政移管選挙でイスラム圏最初の首相に就任した。 
 2013年の大統領選で韓国初、東アジア初の女性大統領に選出された朴槿恵(パク・クネ)の父は、第5〜9代大統領の朴正煕である。 
 
▽国民を裏切らないリーダーへの期待 
 それでは、偉大な父、夫、兄らの威光を後ろ盾にして権力を握った女性指導者たちが、国民の期待にこたえる業績をどれだけ上げたのか、また女性ならでは手腕を発揮しただろうか。 
 アキノはクリーンのイメージでマルコス独裁政権崩壊後の民主主義の回復に貢献したが、大財閥の出身であるがために、自らの政治、経済基盤を掘り崩すことになる改革にまでは踏み込めなかった。アロヨは公金を選挙費用に流用した疑惑などから、国民から見放された。メガワティも指導力不足などで国民の失望を買い、次期大統領選では敗北した。 
 ブットは汚職容疑などで首相を解任され、政界復帰をめざす選挙活動運動中の2007年に暗殺された。朴は職権乱用など一連の不祥事により、2017年に弾劾が成立して罷免され、今年1月に最高裁で懲役20年の実刑が確定したことは記憶にあたらしい。 
 
 以上の例は、現体制にあきたらない国民の支持を集めてきた政治家が、必ずしも国政のすぐれた政治指導者になれるとはかぎならないという、多くの国で実証ずみの事実をあらためて確認したにすぎないと言えるだろう。たとえ肉親の威光に支えられた名門の出であろうと、あるいは女性指導者だからといって、それは例外ではあり得ない。 
 だが一方で、すべてのアジアの女性指導者がおなじだともいえない。 
 インラックは彼女らとは異なっていた。経済が好調で、安定した政治手腕を発揮する彼女は高い支持率を維持した。また「女性が収入を得ることは、国の経済と家計に重要な意味があり、男性にも良い影響を与える」と自負し、1男の面倒を見ながら激務をこなす姿は、女性の社会進出が進むタイで彼女の人気をたかめた。しかし、タクシン支持と反タクシンの両派の対立と混乱に乗じて、反タクシン派勢力が巻き返しに出る。2014年に国家安全保障会議事務局長の人事問題に介入したとして、彼女は憲法違反を認定され失職に追い込まれた。さらに軍のクーデターで身柄を拘束されるが、ひそかに国外に逃亡した。 
 
 アウンサンスーチーは、インラックとも大きく異なる政治家だった。最大の業績は、冷戦の終結後、暴力の応酬が各地で血なまぐさい混迷を招いている現代世界において、非暴力によって「自由で平和な世界」(彼女のノーベル平和賞受賞記念スピーチ)への道を切り拓いていくことが可能であることを、自国だけでなく世界に実証してみせたことであろう。いいかえれば、自国の問題の解決を、国際社会の支援をかちとりながら進めていった、つまりローカルをグローバルにつなぐ戦術はこれまでのアジアの女性政治指導者には見られないものだった。 
 反体制の英雄から権力者の座に就いてからの彼女の政治家としての実績については、たしかに評価は分かれている。公約に掲げていた経済発展は順調に進んでいるとはいえず、少数民族との和解は足踏みをつづけ、とくに大量のロヒンギャ難民を生みだした責任は大きく、人権と民主主義の英雄という彼女の国際社会での評価を大きく傷つけた。しかし、だからといって、国民の利益ではなく軍の利権と特権を守るためだけにクーデターによって民主化を逆転させ、人権を抑圧しようとする暴挙がゆるされていいはずはない。ロヒンギャ問題ではスーチー政権への批判を強めた欧米諸国がいっせいにクーデターを批判し、スーチー氏らの解放を軍部に要求しているのは当然である。また多くの国民も、スーチー政権への批判はあっても、彼女がこれまで民主主義という国民の基本的要求については裏切らない政治家であると認めてきた。だから昨年の総選挙で、彼女が率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝し、ひきつづき国政をになうことができたのである。 
 
 彼女の解放と政治的復権が可能なのかどうかは、わからない。だが私は、彼女の肩をもつわけではないが、アウンサンスーチーの政治家としての真価が問われるまでにはまだかなりの時間が必要だろうと思っていた。半世紀以上にわたる軍事独裁政権下で国のすみずみに根をおろした矛盾を解決するのは、容易ではないからだ。 
 すでに75歳の彼女にどれだけのエネルギーが残されているのかは予測できないが、アジアのこれまでの女性指導者の多くが国民の期待を裏切ってきただけに、彼女がふたたび自由の身になり、なんとしても新しい女性指導者像のモデルになってほしい。スーチー政権への不満はあっても、彼女の人気がミャンマー国民のあいだでいまだに衰えを見せないのは、そのこととも無関係ではないはずだ。 


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