2021年02月12日12時01分掲載  無料記事
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アジア

軍は再び民主化デモへの武力弾圧に乗り出すか ミャンマー国軍に「ファシスト」日本軍の負の遺産

 軍政に反対する国民の民主化デモが日を追って広範な高まりを見せるミャンマーで、最も懸念されるのは軍の無差別発砲による弾圧だ。軍はこれまでにたびたび、民主化運動を“血の海”に沈めてきたからだ。朝日新聞の11日のオピニオン面で社説は「流血を避け民意尊重を」とうったえ、読者の声は「民主化の灯火がともるよう」願っている。だが忘れてはならないことがある。それは、このような残虐な軍の行動に第2次大戦中にこの国に攻め入った日本軍の負の遺産が引き継がれていることだ。(永井浩) 
 
▽いまも流れる日本の軍歌 
 社説は「国民の安全を守るべき軍が国民に銃口を向けてはならない。強く自制を求める」として、国軍はこれまでも大規模な民主化運動に直面して、無差別に市民に発砲した経緯があると指摘している。 
 1988年8月にネーウイン独裁体制の打破を叫ぶミャンマー史上最大の民主化デモが全土に広がったとき、軍はヤンゴンで非武装のデモ隊に無差別発砲を繰り返した。デモ隊の犠牲者の正確な数はいまだに不明だが、西側機関の調べでは、死者だけでゆうに千人をこえると推定されている。たまたま母を見舞うために英国から一時帰国していたアウンサンスーチーは衝撃をうけ、それまで無縁であった政治活動に身を投じる決意をした。 
 2007年の僧侶が率いた反軍政デモでは、死亡、行方不明者は100人以上にのぼった。取材中のジャーナリスト長井健司も犠牲になった。 
 
 ではミャンマー国軍とはどのようにして誕生したのか。見逃せないのが、大日本帝国軍との関係である。 
 英国からの独立運動の指導者アウンサンとその同志たちは、植民地当局の追及で苦境に立たされていた。英国にかわってビルマ(現ミャンマー)での支配権を確立しようとした日本軍は、彼らをひそかに日本に招き、中国の海南島で軍事訓練をほどこした。のちに「30人の志士」と呼ばれることになるアウンサンらは、タイのバンコクでビルマ独立義勇軍(BIA)を結成し、1941年末に日本軍とともに祖国に進撃し、英国を追い出すことに成功する。 
 だが、日本の真意を見抜いていた彼は、まもなくして「反ファシスト人民自由連盟」を組織し、45年に抗日蜂起する。ファシストとは、ビルマ人に横暴に振る舞う日本軍を指す。ビルマは48年に英国からの独立を勝ちとるが、アウンサンは独立の直前に何者かに暗殺された。長女のスーチーが2歳のときである。独立後の歴史教科書には「ファシスト日本の侵略と支配」の一章がある。 
 
 独立後のビルマ国軍はBIAが母体となり、そのメンバーや日本軍が教育した幹部候補生らの多くが政府の閣僚や軍の幹部となった。新生ビルマは議会制民主主義をめざすが、「30人の志士」の一人だったネーウイン将軍が1962年にクーデターで政権を掌握、「ビルマ式社会主義」を掲げて軍事独裁体制を確立する。しかし経済は破綻、ビルマは世界の最貧国に転落する。 
 88年の民主化運動でネーウインは退陣に追い込まれるが、軍事独裁体制はつづいた。後任者はネーウインの子飼いの将軍たちで、彼らはこの民主化運動もその後の反軍政デモにも銃口を向けてきた。 
 日本政府はこうした旧軍時代からの人的関係もあり、独立後のビルマとの友好関係を維持し、最大の経済援助国でありつづけた。それは、民主化を弾圧する軍事政権に対して欧米諸国が経済制裁を科したあとでも変わりなかった。 
 
 だが、人びとの心のなかには侵略者日本軍の記憶は残った。NHK国際局で長年ビルマ語番組を制作してきた田辺寿夫によれば、軍人にすり寄ることをよしとしない知識人たちのあいだには、「日本軍がビルマに残した最悪のものはビルマ国軍だよ」という言い方がある。その見方は、1988年の民衆蜂起の弾圧以降、さらに真実味を帯びてきたという。 
 言論や政治活動へのきびしい制限、人権を無視した強制立ち退き、勤労奉仕やポーター狩りといった国民への有無をいわさぬ負担の押しつけなど、ネーウイン時代にはじまった軍人支配のやり方は、はるか半世紀以上まえの日本軍のやり方とそっくりだと考える人たちもいる。 
 
 日本軍の遺産がいまも日常生活にあらわれているのが、軍歌だ。「歩兵の歌」「愛馬行進曲」「軍艦マーチ」などの日本の軍歌が、歌詞をビルマ語にかえて流されている。 
 アウンサンスーチーは『ビルマからの手紙』で、ミャンマーを現在訪れて、テレビを観た日本人たちが、驚きやら嘲笑、あるいはその両方をこめて尋ねることが多いと書いている。「なぜあなたの国では、こんな古いファシストの歌を演奏しているのですか」 
 そこで彼女は、日本からきたビルマ語ができる学生に「歩兵の歌」の歌詞の日本語を示してもらった。 
 
 万朶(ばんだ)の桜か 襟の色 
 花は吉野に 嵐吹く 
 大和(やまと)男子(おのこ)と 生まれなば 
 散兵戦の花と散れ 
 
 彼女の率いる国民民主連盟(NLD)の長老幹部には、こうした歌詞のどこが軍国主義的なのかといぶかる者もいる。だが日本語を解する彼女はこう反論する。歌はたしかに、可憐な桜の花々のイメージを喚起し、自然への愛情をしめしている。だがそれが、「日本軍がファシスト軍国主義政府の指揮に従って、行く先々に荒廃を残しながらアジアに進撃した際に繰り返し歌われたために、まさにその曲自体が軍隊を反映する不吉な音楽とみなされるようになってしまったのだ」。 
 この文章は、父アウンサンが抗日運動に立ち上がった反ファシスト記念日の講演会のようすを記したもので、いまなおかくしゃくとした「30人の志士」の一人の体験談を紹介したあと、こう結ばれている。「ビルマ、日本、あるいは世界の他のどこにおいてであれ、けがれのない歌を居丈高な戦争の詠唱歌に変えてしまう非理性的で過激な軍隊から身を守る力としてもっとも信頼できるのは、普通の人々の正義と平和と自由への愛である」。 
 
▽『ビルマの竪琴』幻想 
 いま日本で、ミャンマーの民主化運動を支持し、軍が武力弾圧に乗り出すのを懸念する声を上げる人たちが、私たちの国とアジアの隣人たちとの負の遺産をどれだけ知っているかは疑わしい。それだけでなく、私たちのミャンマー理解にはまだ不十分な点があるようだ。 
 朝日新聞の声の投書子は61歳の社会教育指導員で、民主化支援の理由として小学5年生のとき担任教師から読み聞かせてもらった『ビルマの竪琴』をあげている。若いが気骨ある反戦派の教師が戦争を知らない子供たちに教えてくれた作品から、ビルマのイメージをいだくようになったという。 
 
 戦後文学の名作とされる竹山道雄の小説『ビルマの竪琴』は、日本人の平和観を象徴する作品である。 
 物語の主人公、水島上等兵は、敗戦を迎えビルマから日本へ帰還する戦友たちの隊列に加わらず、一人かつての戦地にとどまる決意をする。僧侶となって亡き戦友たちの霊を弔うためだ。僧衣に身をつつんだ水島は、ビルマの伝統楽器竪琴で卒業式の別れの曲「あおげばとうとし……」を奏でて、帰国を急ぐ戦友に別れを告げる。 
 1948年に刊行されたこの作品は、市川崑監督によって二度映画化され、国語の教科書にも長く収録され、ここに込められた戦死者の鎮魂と平和国家再建のメッセージが日本人の戦争の記憶のなかに刻み込まれていった。 
 朝日の声は、「ミャンマーの軍部のクーデターで、民主化の旗手アウンサンスーチー氏が拘束され、各地でデモが頻発していると聞き、いたたままれない。戦争の相手となった日本の兵士たちさえ、包み込んでくれた旧ビルマ。そして上等兵の思いを醸成した心優しい地に、民主主義の温かい灯火がともるよう、今は願わずにはいられない」という。 
 
 この作品にミャンマーのイメージを重ねる日本人は、朝日の投書子だけではない。 
 平成天皇は2016年11月、来日中のアウンサンスーチー国家顧問兼外相と会見した。天皇は「ミャンマーでは先の大戦で多くの日本人が命を落とし、ミャンマーの人たちにもいろんな困難を与えた」と述べ、現地の人びとたちが日本人を温かく弔ったことへの感謝を伝えた。これに対して、スーチー氏は「ミャンマーの人たちは日本人を友人だと思っている。文化などいろんな違いはあるが、すぐ仲が良くなる」と話した。 
 また『ビルマの竪琴』が話題となり、天皇、皇后は小説や映画を目にしたと伝えた。彼女がこれにどう応じたのかは宮内庁の発表では明らかにされていないが、天皇はおそらく映画『ビルマの竪琴』がいまだにミャンマーでは上映を許されていないこと、またその理由を知らないのであろう。 
 
 不思議なことに、小説からも映画からも、なぜ日本軍がビルマにいたのかはまったくわからない。ビルマ人は仏教を信じる退嬰的な国民として、進取の気性に富む日本人の引き立て役として登場するだけである。また、戒律の厳しい上座仏教の国で、僧侶が竪琴を奏でることはあり得ない。そのような行為は即破戒であり、仏門から追われてしまうであろう。国民の約9割が仏教の教えに従って暮らし、僧は聖なる存在として人々から尊敬されている。つまり、この「名作」は、ビルマでないビルマを利用して日本人の平和の願いをうたいあげるという、アジアの国の文化の根幹への無知と歪曲なしには成り立たないのである。だから映画『ビルマの竪琴』は、いまだにミャンマーで上映が許されていない。 
 この作品の主題は、戦争の日本人犠牲者をいかに弔うかであって、私たちの内向きの平和観を象徴するものであった。アジアへの加害責任という外の世界にまで開かれた平和への理解は生まれにくかった。 
 
 軍人支配に立ち向かい、平和と民主主義を願うミャンマーの人びとに共感を示すなら、私たちはこうした日本とミャンマーの関係をこの際あらためて問い直し、現在の危機的状況を真の相互理解を深めた友好関係を築いていく好機としたい。 


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