2021年02月15日09時22分掲載  無料記事
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アジア

利権集団と化したミャンマー国軍 クーデター首謀者の背後には中国の影も 宇崎真

 アウンサンスーチーの父アウンサン将軍が「建国の父」であると同時に「建軍の父」ともいわれるように、ミャンマーの歴史は国軍の存在抜きに語ることは出来ない。軍人たちは、われわれの使命は国を守ることにあるとの大義をかかげて軍の政治支配を正当化してきたが、実体は独裁の長期化とともにみずからの利権と権力を争う集団へと変質していった。今回のクーデターの首謀者ミンアウンフライン総司令官も例外ではない。彼は一部の少数民族軍と結託して、中国の「一帯一路」関連の巨大プロジェクトを進めている事実がミャンマーのジャーナリストによって暴かれた。 
 
▽東南アジア有数の軍事国家 
 ミャンマー国軍の兵力は現在40万余とみられる。人口5,600万として国民140人あたりに1名の国軍兵士をもつ。予備役兵力を除いて比較すれば、ミャンマーは実は世界でも屈指の国軍兵士の対人口比が高い国である。その意味では有数の軍事国家といっていい。ちなみに兵力40万人は東南アジアではベトナム(48.5万人)に次ぎ、人口が約5倍のインドネシアに匹敵する。 
 国土は広く(日本の1.8倍)肥沃で資源(石油、天然ガス、鉱物資源、金鉱、宝石、木材など)も豊富である。かつては世界一のコメ輸出国であった。 
 1962年にネウィン将軍がクーデターで全権掌握、「ビルマ式社会主義」がはじまる。その時点ではビルマは東南アジアで最も高い生活水準を享受していた。タイよりもずっと暮らしは楽だったのである。 
 
 ネウィン独裁の四半世紀余りで「ビルマ式社会主義」は失敗、とりわけ経済の失政は国民を「世界の最貧国」グループに陥れた。だがネウィンにはまだ建国事業の中心となった「三十人の志士」という栄誉もあり「ビルマ社会主義計画党」議長として君臨し、そして権力維持のため軍兵力倍化(10万から20万へ)が統治を保証した。 
しかし溜まりにたまった人びとの不満のマグマは1988年に噴火した。建国以来初めて国軍が公然と大規模に嫌悪と指弾の対象とされた。ネウィンは辞任したが軍政に隠然たる影響を及ぼし、セインルイン政権をたちあげた。同年9月ソウマウン将軍によるクーデターが起き、「複数政党制の導入と総選挙実施」を約束した。 
 それを受けてアウンサンスーチーらはNLD(国民民主連盟)を設立し、そこからビルマで政党を軸とする政治闘争が開始されることとなった。しかし弾圧は熾烈を極め、軍事政権はその後も長期にわたってつづく。 
 
 1988年のクーデター後これまでと異なるタイプの軍人が実権を握りはじめる。軍情報部出身のキンニュンである。彼は1983年に国軍情報部長になって以来、広範な情報網をつくりあげてきた。反政府活動家だけでなく軍幹部、政権高官まで調査対象とした。要するにスパイマフィアのトップだった。軍政のナンバー3とされたが、実質はタンシュエ上級大将と同等かそれ以上の力を時にもち得た。 
 が、結局は他の軍最高指導部の将軍らの支持を得たタンシュエはキンニュンを失脚させる。キンニュンを逮捕し、軍情報部(従って国防省情報局と国家情報総局も)を解体してキンニュン派を根こそぎ追い払うことに成功した。2004年10月に起きた軍部内「政変」とも言え、タンシュエは独裁体制を確固なものとした。 
 その三年後に民主化運動の大デモが起きる。軍は明らかに慌てていた。確かで系統的な情報が入ってこなくなっていたのだ。予想をはるかに上回る民衆の総決起を前に軍部は俄か仕立ての情報網=スパイを送り込み住民のなかの「密告システム」の再建を図った。 
 2008年のサイクロン大災害のときも独裁軍事政権の情報収集、分析力は極めて不正確、恣意的なものになっていた。その結果として「疑わしきは罰せよ」方式が横行する。 
 
▽消えた「三十人の志士」の精神 
 2010年、軍部は「ロードマップ」(民主化にむけた7段階の行程表)に沿うかたちで総選挙を実施した。が、アウンサンスーチーとNLDはボイコットする。2011年にタンシュエは退役、序列2位のマウンエイ、3位のトラシュエマンも引かせ、あるいは権限が大きくないポストに就かせ、4位のテインセインを大統領に据えた。そして二回りほども若くタンシュエに忠実なミンアウンフラインを国軍総司令官とした。 
 タンシュエは軍の作戦将校としての戦績はたいしたことないが上官の覚えはめでたく、彼の死にあたって彼はその上官の妻を迎え結婚して生涯の忠誠心を表したくらいである。だからパオ族出身で占い師への信心深い年上の妻の影響を深く受けていく。’88の国を揺るがす民主化要求の波に動揺したタンシュエが軍役を離れるか悩んだ際に夫人が占い師の「あなたの夫はやがて国のトップになる人だ」のご託宣を聞いて翻意させた、とのエピソードは軍部内にひろく伝わった。世界を驚愕させたネピドーへの遷都もそのご託宣の結果である。 
 
 タンシュエの権力基盤は財力と人事であった。これは’62年以降の国軍の伝統的統治スタイルではあるが、タンシュエはそれを最もうまく行使した軍人であろう。2011年の民政移管の「新体制」もタンシュエはぬかりなく構築したと安心していたようだ。だが、テインセイン大統領はそれを覆す動きにでる。 
 テインセイン大統領は軍最高幹部のなかでは例外的に財力をもたず、係累にも富豪はいなかった。一人娘には佐官クラスの軍人を迎えたが、その義理の息子も国産ジープで仕事をするような利権とは縁遠い人物だった。その義理の息子が軍情報部の立て直しを図ったことがあるが、大きな成果があったという話は伝わってこなかった。 
 
 民政移管への基本方向は変えられない。その過程で国営企業の民営化、「国有地」「軍所有の土地」石油、天然ガス、宝石、木材、金融、航空、ショッピングセンターとありとあらゆる財と利権の争奪戦、分配が露骨に開始された。軍首脳らと取り巻きのクローニー資本家がそのパイを食い尽くした。その過程に一応けりがついたので民政移管は軍にとっても望むところであった。パイの拡大にアウンサンスーチーの果たす役割は甚大だとみた。 
 
 筆者からみると、国軍は変わった。国の独立に身を挺したアウンサンら「三十人の志士」の精神は失せ「ビルマ式社会主義」という「大義」も歴史に葬られた。それ以降国軍は大義も掲げられず、利己的な富の収奪組織に変わってしまったと映る。利権に結びつく情報には敏であっても、国政全般をあずかる組織としての判断は客観性を欠き恣意的にならざるを得ない。 
 2015年の総選挙、2020年の総選挙、これら二つとも軍部は情勢判断を大きく誤った。当然である。そのような軍部に冷静で緻密な情勢分析ができるとは思わない。テインセイン大統領のスポークスマンを兼ねた情報大臣は、記者会見では「汚職追放」を訴えたが、その情報省は大臣、次官はじめ「賄賂」にどっぷり浸かっているのを筆者は間近に目撃している。長い軍政時代の「汚職構造」はまことに根深いのである。 
 アウンサンスーチー政権となっても、その汚職構造は存在する。そして汚職は情報の偏向 
と同義である。 
 今回のクーデターをみると、軍部もNLD側も情勢分析を誤ったと筆者には思える。軍部はまさかあのような惨敗を喫するとは予想していなかっただろう。NLD側もミンアウンフラインの「警句」もブラフだと考えていたに違いない。 
 
▽民主化弾圧とビジネス環境悪化のジレンマ 
 そもそもミャンマーの国土面積は日本の 1.8倍。その国土の半分以上は少数民族が圧倒的多数を占める地域である。つまり日本全土の面積にほぼ匹敵する地域に人口比3割の少数民族が住み、そこにこそ国の命運をにぎる重要資源が埋まっている。少数民族のなかでの 
 アウンサンスーチー政権の支持は政権5年間で明らかに低下していた。ロヒンギャ問題をかかえるラカイン州(アラカン州)のアラカン住民は、 2015年総選挙でNLDを支援した人も殆ど非難の声をあげていた。5年の執政期間に一度もスーチー国家顧問は現地に行くこともできなかったという。(一度空港まで来たが引き返した) 
 経済状況も国民の期待が急速に膨らんだだけに失望も大きい。言論の自由もテインセイン時代より後退した。少数民族武装勢力との平和交渉もみるべき進展はなかった。ロヒンギャ問題で国際社会の評価は急激に変化した。これらの動きをみて、軍部は昨年の総選挙でかなりいい線まで挽回できるとみていたに違いない。退役時期の迫ったミンアウンフラインにとって、総選挙の大敗北は誤算であり失態でもある。 
 ミンアウンフラインは遅れてやってきた国軍総司令官である。利権争奪と分配の時期には大きな存在を示すだけのポジションにいない。ミンスヱ(副大統領から大統領代行)と並んであくまでタンシュエの忠臣として出世したのであって、ボスとの力関係はそう変わっていないのではないか。近年のミャンマー国軍の世界ではまさに財力こそ権力の源泉である。例外的にテインセイン大統領の活躍があったが、財力をもたない故に表舞台に立つことはもはやあり得ないようだ。 
 
 ミンアウンフラインは現役軍幹部の利益保証をするだけでなく、退役幹部、そしてクロー二―資本家らの財を保証し拡大する役割をも負っている。それは彼の軍人としての個人的な野望を超えた使命であるとみてよい。 
 ミンアウンフライン自身繰り返し、「これまでの軍と同じではない。今回の政権奪取は憲法上の権利を行使したのでありクーデターではない」と声明している。このことは反クーデター運動への大弾圧の手をみずから制限してしまうことをも意味する。そしてなにより、タンシュエはじめ「国軍総司令官の上に立つ」勢力は大弾圧でビジネス環境をひどく悪化することを望んではいない。中国も然りである。それが、国連による制裁決議には反対するが支持表明もせず推移を見守る態度となっている。米国の制裁措置も、いまのところはさほど厳しくなく打つ手を残しながら圧力を加えるやり方のようだ。 
 
▽タイ国境に「ばかでかいチャイナタウンを建設中」 
 ミンアウンフライン総司令官は財力と権力がどの程度のものであるのかを示す一つの実例をあげてみたい。 
 ミャンマー東部のタイ国境ミヤワディの街から北へ国境の川(ムーイ川)に沿って20キロ進むと、突然巨大な建造物の群れが現れる。現地の住民らは口々に「ばかでかいチャイナタウンを建設中だ」と言う。三年前に見て驚嘆し、それ以降も二回現地に足を運んだ。ショッピングセンター、カジノ、ホテル、歓楽街、電気水道施設、コンドミニアム群、工場と明らかに巨大な新都市の姿を見せている。2027年の完工時には百万の人口をもつ中国人の都市が出来あがり、タイ、ラオス、ベトナムに抜ける東西回廊とも連結する工業団地でもあり、「野生動物公園」も建設する計画である。「一帯一路」の関連プロジェクトだという。 
 シュエコッコ・プロジェクト(Shwe Kokko New City Project)と命名されているが、更に驚くべきことに中央政府は許可していない。現地では中国企業とカレン仏教徒武装勢力、そしてミャンマー国軍の三者によるプロジェクトとの説明をうけた。責任者の取材を申し込んだらカレン仏教徒側はOKだが、国軍中央の許可が必要という。要するにミンアウンフライン総司令官の許可が要るとのことだった。 
 
 この巨大プロジェクトは最近まで全く知られていなかった。ヤンゴンの雑誌記者が知って現地取材を敢行したが武装兵士に検挙され目隠しで森に連れていかれ、半ば「拷問」にちかい迫害を受けたという。その記者の記事が掲載されヤンゴンでも問題になりアウンサンスーチー政権も調査を約束したという。ところが習近平はこのプロジェクトは「不正規」なもので「一帯一路」とは無関係と言明、ミャンマー国軍も「現地の武装勢力が勝手に進めてきた」として調査し処罰すると発表するに至った。 
 
 カレン仏教徒軍は 94年にKNU(カレン民族同盟)から分離し軍政側と密接な関係を維持してきた。若干の紆余曲折はあったものの2010年には国境警備隊として国軍傘下に入り、その見返りとして国境貿易(密貿易ふくむ)の権益を保証されている。従って、かくも巨大なプロジェクトは国軍の了解なしに進めることはあり得ないのだ。 
 習近平があれだけ明確に「政府プロジェクトではない」と述べたからには、主導してきた三者は極めて微妙な立場にたたざるを得ないだろう。今後この問題はミャンマー国内のそして国際的な注目を引く事案となる可能性があり、ミンアウンフラインにとっても頭痛のたねとなりかねない。 
 クーデターを起こした日は総選挙後の国会開幕日、そして翌日は大恩人でもあるタンシュエの88歳誕生日であった。国の内外、軍の内外からの冷ややかな視線を浴びてミンアウンフライン国軍総司令官もおちおち寝ておれないのではないだろうか。 


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