2021年03月06日17時15分掲載  無料記事
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アジア

ミャンマーの名もなき英雄たち「恐怖からの自由」を武器に非暴力で軍の銃口に立ち向かう

 クーデターに抗議するミャンマーの民主化デモに対する治安部隊の武力弾圧は、日を追って残虐化し、犠牲者の数は増えつづけている。軍政機関に拘束されて姿を消す市民も後を絶たない。デモ参加者で、本サイトでインタビューを紹介した最大都市ヤンゴンの若い男性のその後も気がかりだ。ファッション会社のマーケティングマネージャーの彼、通称ジャックさんと、彼らが解放をもとめるアウンサンスーチーさんの声に耳を傾けながら、人びとはなぜあくまで素手で軍の銃口に立ち向かうのか、私たち海外の人びとに何をうったえようとしているのかを理解したい。(永井浩) 
 
▽「子どもには私たちの体験を繰り返させたくない」 
 ジャックさんは26歳で、世代的には1988年の民主化運動に立ち上がった世代よりは若い。彼は上の世代の活動には参加していないが、2007年の僧侶たちが主役をになった「サフラン革命」は経験している。現在のデモには彼より若い1995年以降生まれの世代が多数参加しているという。 
 今年2月1日に国軍クーデターの一報を聞いたとき、サフラン革命が軍によって弾圧されたときを思い浮かべ、彼は「どう表現したらいいのかすらわからない恐怖に襲われた」。恐怖だけでなく、絶望感も押し寄せてきた。クーデター後の1、2日間は、誰もが怖くて街に出られなかった。 
 それでも多くの人びとが民主化デモに立ち上がったのは、「われわれが(2016年のスーチー政権発足後の)5年間かけて築き上げてきたものがすべて、軍によって奪われ、恐怖に支配される時代に逆戻りをしてはならない」という想いからだった。ジャックさんが日本人YouTuberからオンラインインタビューを受けたときには、ヤンゴンだけで10万人が「不服従運動」のデモに参加した。労働者や医師らは、彼らの人生をかけてクーデターで政権を奪取した軍政を終わらせようとしていた。 
 彼自身は最近結婚して、子どもをつくることをかんがえていたが、「子どもたちには、自分たち親の世代が体験したような恐怖を味わってほしくなかった」。自分が育ったような、考えることが許されない教育と常に誰かに監視されている社会のなかでは、創造性はすべて阻害された。「でもこの5年間だけで、僕たちは自由を味わってしまった。もうあんな時代にはもどれないんですよ」。いまでは、若い男女がデモに参加するだけでなく、5歳や7歳の子どもたちまでがお互いに助け合い守り合っているという。 
 
 日本人インタビュアーは彼に、あなたの顔や名前を出してもいいのかと、繰り返し念を押している。反軍政の行動に関係しているとして、多くの人が拘束されているからだ、 
 ジャックさんは「正直怖いけど」と言いながら、「もし顔をさらけだすという行為が、どれだけミャンマー国民が助けをもとめているのかの象徴になるのなら」とOKする。「僕よりもっとリスクを取って、みんなのために戦っている人たちがいます。市民的不服従運動をしている人たちです」。だから彼は、きっぱりと言い切る。「僕はやります」 
 そして彼は、自分の声を拾いあげてくれたことに謝意を表し、「この現実をあなたの周りの人たちに伝えてください」とうったえる。「僕たちの自由をとりもどすために、あなたの国の政府、国の代表、国連人権委員会、国連、できるだけ多くの人たちに対して、どんな方法でもいいので働きかけてほしい。それが、私たちへの大きな助けになります」 
 
 ジャックさんのその後は、現時点ではわからない。まさか治安部隊の攻撃で命を落としていることはないものと祈るが、あるいは負傷しているかもしれない。そうでなくても、ひとたび身柄を拘束されれば、軍政機関によるどのような過酷な仕打ちが待ち受けているかを、私はこれまでの軍政下で獄中生活を強いられた体験者の何人かから聞いている。拷問、暴力、さらに若い女性のなかには強姦されて妊娠させられる者も少なくないことは、さまざまな証言や報告書、報道で明らかにされている。 
 私は民主化世代の若いミャンマー市民の声を聴きながら、スーチーさんがいう「名もなき英雄たち」とはこういう人なのであろうということが実感として理解できたように思える。 
 彼女は、自分が3度目の自宅軟禁から解放された翌年の2011年から毎日新聞で再開した『ビルマからの手紙』で、こう記している。 
 「ビルマでは2200人以上の政治犯が投獄されたままだ。そのうち、世界的に名前が知られているのはわずか20人。それ以外の無名の戦士である2000余人は、黙々と懸命に民主化運動を支えてきたにもかかわらず、称賛を受けたことのない英雄たちだ」 
 
▽非暴力と「恐怖からの自由」 
 では若き名もない英雄たちが、ジャックさんのように「正直怖い」と告白しながらも、あくまで非暴力で「民主主義を守れ!」と叫び、軍の銃口に立ち向かうのはなぜなのか。 
 それは、スーチーさんの「非暴力」と「恐怖からの自由」という基本姿勢が多くの国民に受け入れられているからであろう。 
 彼女は、1995年の最初の自宅軟禁解放後に、米国人僧侶アラン・クレメンツと以下のような対話をかわしている。 
 クレメンツ:大学生たちのなかには、「民主化運動は非暴力的な手段より、武力闘争をはじめるべきではないか」との声もあるが。 
 アウンサンスーチー(以下スーチー): 私は武力闘争を信奉しません。というのは、「武力を振るうのに一番ひいでた者が権力を振るう」という伝統を、武力闘争は永久化するからです。武力の力によって民主化運動が成功するとしても、そのような闘争は人びとの心に、「よりすぐれた武力をもつ者が最後に勝つ」という考えを植えつけることになります。そのような考えは民主主義の助けになりません。 
 クレメンツ:いまの世界で、非暴力はどの程度効果的でしょうか。道徳的に恥ずかしいと思う気持ちと良心を持たないようにみえる政権に対して、どの程度効果的でしょうか。 
 スーチー:非暴力とは能動的行為を意味します。望むものをえるためには、行動しなければなりません。何もしないでただ座っていては、望むものがえられる見込みはありません。非暴力とは、うったえる手段が暴力的でないということだけのことです。ある人びとは非暴力を受動的なものと思っていますが、そうではありません。 
 クレメンツ:この国にはたくさんの勇敢な男性と女性がいて、文字通り弾丸と銃剣に身をさらしていました。それにはあなたも含まれます。彼らは非暴力的に能動的であろうとしたのです。その結果、(1988年の民主化運動では)少なくとも3000人が命を落としました。武力攻撃に直面したときの非暴力活動の効果について、疑いをもったことはありませんか。 
 スーチー いいえ、そのことについて少しも疑っていません。それはしばしば、ゆっくりとしたやり方であることは認めます。また、なぜビルマの若い人びとが非暴力はうまくいかないと感じているかもわかっています。しかし私はそのような態度を奨励するわけにはいきません。なぜなら、もし奨励するならば、いつ果てることのない暴力の悪循環を永久化することになるからです。 
 
 彼女はまた、「真理は力強い武器です」とも強調する。「真理が持つ力はじつに偉大です。もし真理の側に立てば、それは大いに力を与えます。真理からの保護がえられます。しかし真理でない側に立てば、真理は大きな脅威になります。真理は私たちの到達目標で、それに向かって絶えず努力しています」 
 
 とはいえ、真理を武器に非暴力で民主化を勝ちとろうとしても、恐怖が多くの人びとの行動のまえに立ちふさがるだろう。それを乗り越えるにはどうすべきか。彼女は「恐怖からの自由」(Freedom from fear)を説く。 
 彼女によれば、堕落した独裁者が権力を手放そうとしないのは、権力の座から降りると人びとから復讐されるのではないかという恐怖心のためである。そこで人びとを抑圧する。いっぽう国民は、恐怖のために独裁者に抵抗できない。その結果、「恐怖に満ちた社会では、あらゆる形の堕落が、社会を侵していく」。だから、一人ひとりが自身の心のなかの恐怖に打ち勝つ努力をしないかぎり、民主的な体制をつくりあげることはできない、と彼女は主張する。彼女はそれを「精神の革命」と呼び、ブッダの道なのだという。 
 彼女自身は、恐怖からの自由を何度か実践してきた。 
 1989年4月、エイヤーワディ管区の町ダヌビューで遊説のため、彼女は国民民主連盟(NLD)の党員数人と歩いていたところ、突然、国軍の部隊に道を阻まれた。兵士たちはすぐにも発砲できるよう、銃の引き金に指をかけていた。そのとき彼女は、党員たちを道の端に退かせ、一人で道の真ん中を歩いていった。兵士たちは、上官の発砲命令が出ていたにもかかわらず、黙って銃口を下げた。 
 民主主義を追求するための非暴力と市民的不服従の戦術、仏教の教えにもとづく自己責任の実践は、現在進行中の国軍クーデターに対する広範な国民の民主化デモに確実に受け継がれているのである。 
 クレメンツは、「アウンサンスーチーはマハトマ・ガンジーとマーチン・ルーサー・キングの道を歩みました」と評している。 
 
 「僕たちの自由をとりもどすために、あなた方がどんな方法でもいいので政府や政治家や周りの人たちに働きかけてほしい」というジャックさんの訴えは、スーチーさんが軍政時代に国際社会に発したものとおなじである。「あなた方が享受している自由を私たちの自由のために行使してください」 
 
▽「苦悩への理解」を出発点に 
 私は、民主化デモに参加しなくても運動を黙々と支える名もなき英雄にも出会ったことがある。 
 1995年にスーチー邸で昼食をごちそうになったとき、料理を運んできてくれた女性のお手伝いさんがなぜか気になった。20歳少し過ぎ、顔立ちはインド系とみえた。いつから彼女はここで働いているのだろう、スーチーさんの軟禁解除の後か前か。秘書のエイウイン氏にそのことをたずねた。 
 「6年間の軟禁中、ドー・スー(ドーは女性への敬称)の身の回りの世話をしていたただ一人が、あの娘なんです」。そう答えて、氏は彼女の苦難の日々を話してくれた。 
 軍事政権は当然、彼女にスーチーさんについての情報提供を要求した。しかし、彼女は頑として応じなかった。軍のしつような圧力で精神的な混乱に陥ったこともある。それでも屈しなかった。 
 彼女だけでなく、ヤンゴン在住のある外国人ビジネスマンによれば、軍事政権はNLDの幹部宅のお手伝いさんや運転手を利用しようとしてアメとムチを使い分けてきた。報酬はコメなどの生活実需品の提供。そして納得のいく協力が得られないと、「秘密隠蔽で投獄するぞ」と脅しをかける。 
 このスーチー邸のお手伝いさんは、まだ十代の半ばからそんな軍との闘いを強いられてきたのだ。出身は金持ちでも貧しくもないクリスチャンの家庭で、母、姉と三代つづきで通いのお手伝いさんをしている。「そういう関係もあり、彼女はとりわけ忠誠心が強かったのだと思う」とエイウイン氏は言うが、はたしてそれだけがこの名もなき英雄を支えてきた要因だろうか。 
 
 さてそれでは、私たちはジャックさんやスーチーさんらの訴えに応えて、どうすれば私たちの自由をミャンマーの人びとの自由のために行使することができるだろうか。若い日本人の彼へのオンラインインタビューは、その行動のひとつだが、私にはまだ具体的な行動は思いつかない。ただ、インドの独立運動指導者で初代首相をつとめたジャワハルラール・ネルーの言葉だけは胸に刻んでおきたい。彼は1950年にラクノーで開催された太平洋会議で、西側代表に向かってこう語った。 
 「みなさんがわれわれを理解しようと思われるならば、われわれの経済、社会あるいはその他の問題を討議したところで、たいしてわれわれを理解したことにはなりますまい。もう少し深く見、アジアの心の中にあるこの苦悩を理解してくだされなければならない」 
 ネルーはつづけて、この苦悩の解決は「われわれの負うべき荷なので、われわれ以外はだれもそれを解決できない。他の人びとはそれを助けたり妨げたりすることはできますが、われわれに代わって解決してくれることはできないのであります」と述べた。 
 苦悩に共感するもののみが相手を理解できる、というメッセージへの回答を、私はこれからでもいいから実践していかなければならない。 


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