2021年08月19日16時08分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=202108191608014

国際

タリバンとは何者か 欧米による「悪」のイメージと日本のNGOが見たもうひとつの顔

 アフガニスタンのタリバンの復権を受けて、本サイトは欧米や日本のメディアで流布するタリバン像に異を唱えるNGO「ペシャワール会」の現地代表、中村哲医師の見方を紹介した。つづいて、やはり同国で長年、人々の暮らしの再興に現地の人びとと一緒に働いてきたNGO「日本国際ボランティアセンター」(JVC)スタッフの見方も紹介した。いずれも、悪の権化というタリバンのイメージには否定的である。もうひとり、旧タリバン政権誕生以前からアフガンの人びととつきあってきたNGO「宝塚・アフガニスタン友好協会」(兵庫県宝塚市)代表の西垣敬子の見方にも耳を傾けてみよう。(永井浩) 
 
▽大国介入のなか、「人びとはみな必死に生きている」 
 西垣の話は、米軍がアフガン空爆を開始し、日本政府が米軍支援のために海上自衛隊をインド洋に派兵したとの決定を受けて、2011年10月24日の毎日新聞(夕刊)に掲載されたものである。 
 西垣のアフガンとの出会いは、1993年に在日アフガニスタン大使館で開かれた写真展だった。79年に侵攻したソ連軍に抵抗する農民ゲリラや負傷した子どもたちの痛ましい写真に衝撃を受け、宝塚で大使館から借りた写真の展示会を企画した。東部ジャララバードで避難民が増えていると聞き、40万円を集めて、翌94年11月に初めて難民キャンプを訪れた。 
 国連と提携しているアラブ系NGOが入国に協力してくれた。地平線までつづく避難民のテントに西垣はぼうぜんとする。赤ん坊のミルク代にとかんがえていた募金は、学校用のテントと文房具にあてた。「赤ちゃんはみんな、夏に死んでしまった」と言われたからだ。 
 その後、パキスタンで手回しミシンを買っては、難民キャンプで裁縫教室を開いたり、イスラムの赤十字「赤新月社」の困窮者施設で、ソ連軍のロケット弾で右足と家族を失った少女のために、奈良市の義足装着者に作製してもらった義足を届けたりもした。少女のいる施設には、目のまえで夫や家族を殺され、精神を病んだ女性たちも暮らす。「私をドイツに連れて行け、そうしたら病気は治る」と大声でわめく女性、一日中イスラムの祈りをつづける女性。そのかたわらで、貧しい食事を一匹の猫と分け合って食べる老女。電気もなく、夜は真っ暗になった。 
 彼女は毎年ほとんど一人でアフガニスタンに入り、ジャララバードを拠点に、女性の「隠れ学校」や孤児院などを支援してきた。学校では、国語(パシュトゥン語とダリ語)と算数、コーランの授業が行われている。納屋の片隅を教室に、周辺に住む小学生から中学生くらいの女子が集まってくる。西垣は教師たちの月給1000ルピー(約2000円)を支給してきた。その数は2人からはじまり、22人まで増えていた。 
 ある日、西垣は高等裁判所の判事宅に呼ばれた。裁判所の奥に住宅があった。裁判所の入口には銃をもったタリバン兵士が4、5人いた。恐る恐る部屋に入ると、なんと子どもがたくさん勉強していた。ここもじつは、隠れ学校だった。「私は思わず笑ってしまった。タリバンだって自分の子どもに教育を受けさせたいのだ」 
 西垣は、強盗やレイプが横行するなかで、銃を携帯した兵士2人を雇ったこともある。タリバンが勢力をもちだした1996年ごろになると、タリバンが武器狩りをしたために、治安はよくなった。「タリバンは嫌だが、前はもっとひどかった」というのが一般の人たちの思いだったという。だから、米軍の爆撃に呼応した北部同盟のカブール進撃は「時計の針を戻したよう」に見える。「北部同盟が勝ったとしてもさらなる混乱が始まるおそれがある。ゲリラが横行した以前のアフガニスタンにもどってしまうのではないか」と心配だ。 
 「アフガン人はみな必死に生きている。現地に行くと逆に励まされて帰って来る」という西垣だが、カブール爆撃の報道を聞くたびに、少女たちがどんなに怖い思いをしているだろうかと想像する。この年も、3月にジャララバード、5月にはカブールを訪れている。アフガニスタンは30年ぶりの大干ばつに見舞われ、すでに大量の難民が出ていた。 
 米国のブッシュ大統領は2001年の9・11同時多発テロを受けて、国際社会に「テロリストと文明のどちらにつくか」の踏み絵をせまり、テロとの戦いを宣言、タリバン政権打倒をめざしてアフガニスタン攻撃を開始した。小泉政権は米軍を後方支援するため、インド洋に海上自衛隊を派兵した。日本のマスコミも、「野蛮」なタリバンというイメージにもとづいて政府の「国際貢献」を支持した。 
 だが西垣は、テロリストにつくか、米国につくか以外の選択肢が日本にはあるはず、と考える。「日本は唯一、利害関係のない国。日本の出番と思うが、私だけではどうしようもない。人脈をもち、仲介役できる政治家が日本にはいない」と嘆く。 
 
▽難民の群れから誕生したタリバン 
 アフガニスタンでは1989年にソ連軍が撤退、ソ連に支援されていたナジブラ社会主義政権が反政府勢力の大攻勢で92年に崩壊したあとも、権力争奪をめぐり反政府勢力間での激しい戦闘状態がつづいた。戦火を逃れた若者たちの多くは、隣国パキスタンの国境地帯にアフガン人のムラー(イスラム指導者)やパキスタンのイスラム原理主義政党が設けた難民キャンプで、日々をすごした。 
 キャンプには何十校ものマドラサ(イスラム学校)があり、かれらはそこでイスラムの経典コーラン、預言者ムハンマドの言葉とシャリーア(イスラム法)の基礎を、わずかに読み書きができるていどの教師たちの解釈によって学んだ。教師も生徒もだれ一人、数学、科学、歴史あるいは地理の正式な基礎知識をもっていなかった。かれらは古代から大国の思惑に翻弄されつづけてきた自分の国の歴史、ソ連に対する聖戦の物語さえ知らなかった。アフガニスタンの歴史とタリバンの誕生に精通したパキスタンのジャーナリスト、アハメド・ラシッドは、そのような若者たちを「歴史の浜辺にうち寄せられた海の漂流物のように、戦争が投げ捨てた」存在と表現している。 
 1994年、かれらのなかのパシュトゥン人の神学生らが、内戦で疲弊した社会の「世直し」をめざす武装勢力タリバン(パシュトゥー語で「神学生」)を結成する。指導者の多くは内戦で身体障害者となっていた。最高指導者のムラー・ムハンマド・オマルはロケット弾の爆発で右目を、ナンバーツーのハッサン・レマーニは片足を失っていた。「タリバン幹部たちの傷跡は、150万人の死者を生み、国土を荒廃させた二十年間の戦争をいつも思い出させる」と、ラシッドは書いている。 
 国民の期待とパキスタンの支援をうけたタリバンは、北部同盟など他の軍閥勢力を駆逐して快進撃をつづけ、98年秋までに首都カブールをはじめ国土の九割を実効支配するにいたった。彼らはシャリーアの独自な解釈によって、きびしい国内統治を進めた。軍閥の資金源となってきた麻薬の原料のケシ栽培の撲滅にも乗り出した。犯罪者を公開処刑し、女性には就労と勉学を禁止し、全身をすっぽり隠す伝統衣裳ブルカの着用を強制した、と欧米や日本のメディアで報じられた。あらゆる種類の娯楽、音楽、テレビ、ビデオ、トランプ、凧揚げ、そしてほとんどのスポーツとゲームが禁じられたという。米国同時多発テロが起こるすこし前の2001年3月には、偶像崇拝を禁じるイスラムの教えに反するとして、中部バーミヤンの石窟群にある大石仏像を爆破した。 
 こうした行為は欧米諸国や国際社会から、人権を抑圧して世界的な文化遺産を破壊する狂信的政権との批判をまねくようになる。そして9・11を機に、ブッシュ米政権は対テロ戦争の第一弾としてタリバン政権打倒に乗り出す。 
 
▽カブールは「陥落」したのか「解放」されたのか 
 タリバン政権の崩壊とともに、欧米や日本のメディアには「解放を喜ぶ」首都カブール市民の光景が報じられた。ペシャワール会の中村は、日本に帰国中の講演で「素直に私たちも喜んでいいのか」という聴衆の質問に対して、「非常にいい質問です」とつぎのように答えた。「じつは、西側報道とは裏腹に、アフガニスタンはタリバン政権以前の無秩序状態に戻ったのです」 
 中村は9・11まで、カブールにしょっちゅう出入りしていたから市内の実情はよくわかっている。「タリバンがいなくなって、野菜が市場に出るようになりました」という報道について、野菜がないと生きていけないから、野菜はずっとあったのを知っている。「テレビが売られるようになりました」というが、テレビは前年からこっそり売られていた。タリバン政権が禁じていた凧揚げができるようになったという風景が映し出されるが、以前から凧遊びはアフガン中でやっていた。 
 新聞やテレビで伝えられるタリバンのイメージと、中村が日ごろつき合ってきたタリバンの実像との落差も少なくない。女性は教育を禁じられていたというが、西垣も訪れた「隠れ学校」があり、ユニセフを中心に女性のための学校教育がおこなわれていた。カブールだけで数十ヶ所があり、タリバンの子どもたちがいることもある。 
 では、「カブール解放」を喜ぶ人たちは何者なのか。アフガニスタンにかぎらず、途上国全般にあてはまることだが、首都はその国のなかで一部だけ近代化された別世界であり、ほとんどの人たちはそれ以外の貧しい農村部に住んでいる。カブールも例外ではない。アフガン全体が巨大な田舎国家でありながら、ここだけはミニスカートが流行ったりする西洋化した街なのだ。「アフガン人でありながらアフガン人とはいえないような」ごく一部の特権階級の富裕層はタリバン撤退を歓迎するだろう。そうでなくても、これまでいくつかの武装勢力にほんろうされてきた民衆は権力者への身の処し方をこころえている。旗をいくつか用意して、タリバンが来ればタリバンの旗を、北部同盟が来れば北部同盟の旗、米軍が来れば米軍の旗を振る者も出てくるだろう、と中村は観察する。 
 
 それから20年後の今年8月15日に、タリバンはカブールを制圧、米国主導で日本などの先進諸国の後押しで発足した親欧米派のカルザイ政権の後継ガニ政権は崩壊した。「カブール陥落」とともに国外脱出を図ろうとする人びとが空港に殺到する光景が映し出された。メディアには、タリバン復権後のアフガンについて識者や専門家の声が並んでいる。いずれも、タリバンへのネガティブな見方が強く、新政権の前途に警戒や懸念が優先している。日本はどうすべきなのか。 
 カブールはタリバンの制圧で「陥落」したのか、それとも「解放」されたのか。それを判断するにはアフガンの人びとの声を聞かねばならないが、私はかれらと同じ人間として長年汗を流してきた日本のNGOの人たちのタリバン像を信じたい。 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。