2021年09月08日10時28分掲載  無料記事
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検証・メディア

アフガニスタン報道再考・4 「文明」擁護でメディアの日米同盟 「国際貢献」に自衛隊派兵

 これまで見てきた米国の「物語」としての9・11とアフガニスタンへの報復攻撃に、日本の政府とメディアはどのように対応したのかをつぎに確認しておこう。ここでのキーワードは「文明」である。同時多発テロを米国の自由への攻撃と叫ぶブッシュ大統領は、対テロ戦争を「世界の、文明全体の戦いである」として、国際社会に米国につくかテロ組織につくかの踏み絵をせまった。小泉首相はすぐさま、ブッシュを支持した。同盟国が守れという文明とは何かは問われなかった。メディアもおなじだった。 
 
▽「文明世界」の軍楽隊の一員に 
 同時テロがおきた翌朝(日本時間)、1991年9月12日付の朝刊各紙(東京版)には「テロは許さない」を合言葉にした社説が並んだ。 
 朝日は、「これは、単なる対米テロを超えている。世界への、いや、近代文明が築き上げてきた成果への挑戦である」ととらえ、日本は世界が混乱に陥ることを回避するために、国際社会の結束と知恵を求めるよう積極的な役割を果たさなければならないと主張する。毎日は、経済のグローバル化による繁栄と貧困の格差が進行するなかで、テロリストは米国を頂点とする先進諸国の「強者の論理」を暴力によって否定することを正当化しようとしていると指摘し、だが、「国際社会の基盤を無差別の暴力によって覆そうとするテロ組織」に対しては国際的な団結が最大の防御策とうったえる。読売は、米国を標的としたテロは「国際社会への重大な挑戦」であり、「日本を含め、犯罪集団を厳しく追い詰めることがまず重要だ」と説く。 
 「文明」擁護論はその後も朝日で繰り返される。「これは世界の、文明全体の戦いである」というブッシュ演説を受け、同紙社説(9月25日)は「この言葉に異存はない」と言い切った。文明と非文明を分かつものは何か。社説によれば、罪のない数千の人びとを巻き添えにするテロは非文明であるのに対して、テロに自制と忍耐で立ち向かうのが文明である。朝日の看板コラムニスト船橋洋一は「世界震撼」と題する連載で、「全文明を守る戦い」において、米国一国だけではテロリズムに勝つことはできないから他国との多角的な問題解決の取り組みが必要となるとして、「そうしてこそ、国際社会の文明の質も高まる」とうったえる。 
 こうした「文明に対する攻撃」論は、米国文明だけが文明世界であるという前提にもとづいている。テロリストたちが標的とした世界貿易センター、国防総省、ホワイトハウス(?)は冷戦後世界の経済・軍事・政治の覇権(一極構造)の最もシンボリックな巨大建築、すなわち米国文明である。だが、米国によって文明世界が代表されるわけでないことはいうまでもないし、その米国文明にはいくつもの顔があることは前回確認した。 
 テロの頭目とされるビンラディンは、「米政府が生み出したフランケンシュタイン」(マラドーラ)、「米大統領の影の分身。美しく開明的であるべき全てのものの裏にある、野蛮な息子の片割れ」(ロイ)とされた。 
 だが、アーミテージ米国務副長官の「ショー・ザ・フラッグ(Show the flag)」(旗幟を鮮明にせよ)発言が伝えられると、小泉首相は米国の同盟国としての国際貢献を果たすべく、テロ対策特別措置法の成立を急ぐ。海上自衛隊をインド洋に派遣し、アフガン攻撃をする米軍機に給油する後方支援のためである。 
 読売新聞は10月6日の朝刊一面トップに、「世界の危機 日本の責任」と題する緊急提言を載せ、同法の成立を急ぐ小泉政権を援護射撃した。提言には「自衛隊に不要な足かせをはめるな」「集団的自衛権の行使を認めよ」「首相は憲法解釈の変更に踏み切れ」「「一国平和主義」意識を捨てよ」などが並び、これを受けた連載キャンペーンを展開していく。 
 NHKの「ニュース7」には軍事評論家の江畑謙介がたびたび登場し、9月18日のテーマ「新たな戦争と日本」で、日本は「これだけのことをします」と言わないと、「国際社会で孤立するのは間違いない」と主張した。同26日、「後方支援 中谷元・防衛庁長官に聞く」で、長官は自衛隊の派兵を「日本として国際社会のなかで尊敬され評価される行動」と力説した。同19日朝の「おはよう日本」は、パウエル国務長官の「(日本が)湾岸戦争と同様、なしうる範囲での支援をしてくれると確信している」という発言を放映し、武内陶子アナウンサーは、「同盟国日本の役割に期待をしめしました」と紹介した。「同盟国日本」という表現は、NHKワシントン支局長の手島龍一によって何度もくりかえされた。 
 こうして日本のマスコミは、ホワイトハウスと米国主流メディアがお膳立てした曲目とメロディーに合わせて、米国のアフガン攻撃への「日本の貢献」を奏でる軍楽隊の一員となっていった。 
 
▽中村哲医師が見た「近代文明の野蛮」 
 そうした日本の姿に危機感をいだいたのが、NGO「ペシャワール会」の現地代表、中村哲医師である。中村は、タリバン政権の誕生以前からアフガニスタンで貧しい人びとの医療支援や農業復興に現地の人びと共に取り組んできた、この国をもっとも深く理解する日本人である。彼は国会でのテロ対策特別措置法案の審議に参考人に呼ばれ、アフガンの現状を説明し、「空爆はテロと同レベルの報復行為。自衛隊派遣は有害無益」と同法案に反対した。 
 アフガンは現在、大干ばつに直面している。それに武力攻撃を加えるのは、アフガンの人びとにしてみれば、天災に人災が加わるということである。だから、「日本がしなければならないのは、難民を作り出す戦争への加担ではなく、新たな難民を作り出さないための努力」であり、「日本が大きな曲がり角にいるからこそ、国民の生命を守るという見地から、あらゆる殺りく行為への協力に反対します」とうったえた。 
 中村が自衛隊派兵に反対するのは、それだけが理由ではない。彼によれば、アフガニスタンの人びとは親日的である。その理由は、日露戦争での日本の勝利とヒロシマ、ナガサキの被爆にある。英国と同様にアフガン征服をねらうロシアは日露戦争での敗北で野望を放棄せざるをえなくなった。広島、長崎を原爆の実験場とした非道な米国への反発と、その犠牲となった日本への同情もある。タリバンを含めて対日感情はきわめていい。 
 そうした伝統的な親日感情が、ペシャワール会のさまざまな活動を支えてきてくれた。ところが、日本はいま、米国の空爆を支持し、自衛隊をインド洋上に派遣することによって、「つくらなくてもいい敵をつくろう」としている。アフガンの人びとから見れば、自分たちに爆弾を落とす米軍機はインド洋に浮かぶ自衛隊の艦艇から補給された油で動いている可能性がある。 
 だから、平和憲法を国是とする日本は、軍事力ではなく非軍事的貢献をおこなうべきだというのが中村の基本姿勢である。 
 それはまた、彼の文明観とも結びついている。ソ連の崩壊をうけて、「自由化と民主化の波」や米国主導の「国際新秩序」が論じられ、同時にのっぺりしたカネ社会の国境を超えた膨張がグローバリゼーションの同義語と化していくなかの1992年、中村は「人間の生死の意味をおきざりに、その定義の議論に熱中する社会は奇怪だとすらうつります」として、世界から見捨てられた辺境の地から見すえてきた「近代文明」の野蛮についてこう記している。(『アフガニスタンの診療所から』) 
 「このヨーロッパ近代文明の傲慢さ、自分の「普遍性」への信仰が、少なくともアフガニスタンで遺憾なくその猛威をふるったのである。自己の文明や価値観の内省はされなかった。それが自明の理であるかのごとく、解放や啓蒙という代物をふりかざして、中央アジア世界の最後の砦を無残にうちくだこうとした。そのさまは、非情な戦車のキャタピラが可憐な野草を蹂躙していくのにも似ていた。 
 老若男女を問わず、罪のない人びとが、街路で、畑で、家で、空陸から浴びせられた銃爆弾にたおれた。原爆以外のあらゆる種類の武器が投入され、先端技術の粋をこらした殺傷兵器が百数十万人の命をうばった。さらにくわえて、六〇〇万人の難民が自給自足の平和な山村からたたきだされ、氷河の水より冷たい現金生活の中で、「近代文明」の実態を骨の髄まで味わわされたのである。その甘さだけを吸い得た者は同胞を裏切って欧米諸国に逃亡し、不器用な者は乞食に身を落として生きのびた。 
 これが我われの信じて疑わぬ進歩と民主主義、その断罪する「八紘一宇」となんら変わらぬヨーロッパ近代文明の別の素顔である」 
 それから9年後の2001年、同時テロと米国の報復攻撃をめぐってみなが何かに憑かれたかのようにみえる祖国を見て、中村はあらためて「私たちの文明は大地から足が浮いてしまったのだ」と感じた。 
 翌2002年1月、中村は四ヶ月ぶりにアフガンの大地を踏んだ。日本人であると同時に、もはやアフガニスタン人でもある、という一人の「人間」として。タリバン政権はすでに崩壊していた。欧米のNGOは、米軍の空爆まえから国外退去したままだった。井戸掘りと灌漑用水の工事は空爆下でもつづけられていた。灌漑用井戸はすでに水が出ていた。「いのちを守る活動には、タリバンも、反タリバンも、敵味方を忘れて協力した」のである。 
 人間の非力をあざ笑うかのように、砂塵を巻き上げながら広がるアフガンの乾いた大地。その上空にときおり米軍のヘリが飛来し、機銃掃射をはじめる。中村たちは地面に伏せた。 空爆下のアフガンで死んでいった人たちは、世界貿易センターの犠牲者の数を上回るだろう。「おそらく、空爆下で逃げまどった無数の飢えた女や子どもたちが、次のテロリストの予備軍になるだろう」と、中村は確信する。 
 彼は不幸にも、タリバンの復権をみることなく、2019年12月に武装勢力の凶弾に斃れたが、米国の敗退は彼の言葉の正しさを証明していないだろうか。 
 日本のメディアには、米国のアフガン民主化のための20年間の努力が水泡に帰し、タリバン新政権のもとで恐怖政治と人権侵害が再来するかのような情報があふれている。 
 だが、そのような民主化の努力とはどのようなかたちで進めてきたのかを忘れてはならないだろう。ブラウン大学の調査によると、米軍とNATO(北大西洋条約機構)の軍事作戦の結果、アフガニスタン民間人の死者は推定4万7245人、パキスタン民間人の死者は2万4099人に達した。2020年末には350万人のアフガン人が国内避難民となり、250万人のアフガン難民がいた。中村の言葉にしたがうなら、これが、進歩と民主主義をアジアの辺境の地に根づかせるという大義名分のために、欧米近代文明がアフガンで見せたもうひとつの顔、つまり野蛮な素顔なのである。先の朝日新聞の「罪のない数千の人びとを巻き添えにするテロは非文明であるのに対して、テロに自制と忍耐で立ち向かうのが文明である」という社説を再読するなら、米国文明こそが非文明といえないだろうか。 
 タリバン復権後のアフガンとどう向き合うべきかを考えるとき、私たちは9・11とアフガンへの報復攻撃にたいする日本の政府とマスコミの姿勢を問い直す必要があるだろう。米国文明にすぎない「文明」を守るという旗印のもとに、対米軍事支援という実態をカムフラージュする「国際貢献」を進め、日本国憲法で認められない集団的自衛権の行使に事実上の突破口を開いてしまったのである。            (永井浩) 


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