2021年09月21日20時54分掲載
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国際
【アフガニスタンで何が?2002ー2006回想②】住民を敵に回した対テロ戦争 谷山博史
タリバーンが政権に復帰しタリバーンに注目が集まっていますが、アフガニスタンの地方で米軍や中央政府に対峙していたのはタリバーンだけではありません。一括りにタリバーンといっても、定住タリバーンと旅人タリバーンとでは地域の人間には明らかに違います。また地方の軍閥もタリバーンと抗争したり手をつないだりして反米・反政府勢力の裾野を広げています。今日は定住タリバーンと旅人タリバーンの話と地方の軍閥の話をします。今日も少し長いので時間がある時にでも読んでいただければと思います。
1.定住のタリバーン、旅人タリバーン
2.住民を敵に回した対テロ戦争
3.軍閥間の抗争と米軍の作戦
4.今日の味方は明日の敵
5.眠っているトラを起こすCIAの秘密工作
6.報復のために武器を取るもの
1.定住のタリバーン、旅人タリバーン
ナンガルハル県にあるJVCの診療所で働いていた検査技師がその後就職したガズニ県の診療所で起こったことを話してくれました。ある日タリバーンと名乗るグループが診療所にやってきました。彼らは診療所のスタッフが村のために尽くしてくれていることに対して礼を述べた後忠告の言葉を残していきました。自分たちは地域のために戦っているから診療所に迷惑をかけないが、他所から来たタリバーンには気をつけるようにと言うのです。
パシュトーン地域の村で活動している私たちは、タリバーンには定住タリバーンと余所者タリバーンがいるということを知っています。定住タリバーンには以前タリバーンに連なっていた人もいるでしょうし、イスラム教に根ざしたタリバーン流の世直し運動の共鳴者もいるでしょう。彼らは私たちが村に損害を与えたり、イスラムの教えにもとる行為をしなければ援助関係者だからと言って危害を加えることはありません。しかしパキスタンから国境を越えてきたタリバーンや外国のゲリラ戦士は地元で受け入れられているか否かに関わらず外国人や援助関係者を敵とみているのです。
2.住民を敵に回した対テロ戦争
住民の協力がないところでタリバーンやその他の反政府グループが活動できるはずがない。これが4年間アフガン東部の地方都市に居て農村での活動に関わってきた私の偽らざる感覚です。もともとアフガニスタンの南部・東南部・東部の農村はタリバーン支持の基盤があったところです。タリバーン時代もタリバーンの圧制があったわけではありません。これらの地域での米軍によるタリバーン掃討作戦は、誤爆、誤射、家宅捜査と住民捕縛などによって住民の犠牲を強い、結果的に住民をタリバーンの側に追いやってしまっているのです。
さらに芥子の撲滅、武装解除等によって生活の糧を失った人々の醸し出す社会的なストレスがその背景に存在します。村人の誇りを守るためにはどんな強力な相手とも戦う、このアフガン人の強烈なパトスを対テロ戦争の指導者は完全に見落としています、あるいは意識的に無視しているのです。米軍やNATO軍や政府軍が住民を敵に回し、住民が地元のタリバーン共鳴者と同調し、さらに他所から戦いに来た旅人タリバーンと結びついたらもはや手遅れです。外国軍にもアフガン政府にも勝ち目はありません。
3.軍閥間の抗争と米軍の作戦
2007年現在タリバーン政権が崩壊してから6年も経っています。しかし治安は悪くなる一方で、国の復興は期待通りには進んでいません。南部や南東部でタリバーンが勢力を伸ばしていることは事実ですが、タリバーンだけを見ていては地方の現実は見えてきません。
反米・反政府武装グループはタリバーンだけではなく、タリバーン以前に地域を支配していた武装グープから対テロ戦争後この戦争で犠牲になった者の報復のために武器を取った者たちまでその裾野はきわめて広いからです。2002年から2003年にかけて地方で武装グループが蜂起したいきさつを見ることは現在の状況を理解する上で重要だと思います。そこにはカルザイと地方の武装グループとの確執や米軍の介入が複雑に絡み合っている様子が見てとれます。
タリバーンに駆逐されていた地方の軍閥は、米軍と北部同盟の攻撃によってタリバーン政権が壊滅した直後いち早くそれまで支配していた地域に帰り影響力を取り戻しました。北部マザリシャリフ周辺を支配するラシッド・ドスタムやヘラート県を中心に勢力を張るイスマイル・カーンはよく知られていますが、その他にも無数の地元のボス的な存在が地域地域に跋扈し、対立と抗争を繰り返していました。中央でも北部同盟の影響力を排して国軍を作ろうとするカルザイと北部同盟(特にタジク人中でもパンジシールグループ)の実権を維持しようとするファーヒムとの対立の構図があり、この対立が地方の軍閥間の対立・抗争に蔭を投げていました。
これらの地方軍閥の対立をより複雑にしているのが米軍の介入です。米軍は「対テロ戦争」を有利に進めるためには、これらの軍閥を利用し武器や資金を提供するのみならず、軍閥間の対立を利用して米軍への協力を競わせ、時には利用価値のなくなったものを駆逐して地域での影響力を確保しようとしました。米軍の掃討作戦は、地元の対立勢力の一方のたれ込みをよりどころにすることが多いのです。そのためアル・カイーダやタリバン一味と名指しされたものが米軍の攻撃の対象になるという密告政治を生んでおり、軍閥間の疑心暗鬼を煽る結果になっていました。
4.今日の味方は明日の敵
地方軍閥の軌跡の例をあげましょう。タリバーン崩壊後パクティア県の知事になったパッチャ・カーン・ザドラムという軍閥がいます。ザドラムはタリバーン戦争で米軍に協力して活躍しました。2002年1月アメリカの意向を受けてカルザイは彼をパクチア県の知事に任命しましたが、地元のジルガ(評議会)は自分たちの意向を無視していると反対し、両者の間で戦闘になりました。ことの経緯に驚いたカルザイは任命を取り消しましたが、今度はザドラムが新たに任命された知事やカルザイに反旗を翻して度々戦闘を仕掛けるようになったのです。
このザドラムに対して米軍はその後1年あまりの間、武器を提供し続けていました。米軍は対テロ戦争に利用できるものは政府に反旗を翻すものさえも利用したのです。その後ザドラムは2年間に亘って反政府活動を続けました。あるときはナンガルハル県の元軍閥のハジ・ザマンに対して、反カルザイで提携を呼びかけたとされています。ハジ・ザマンはもともとは米軍の協力者でしたが、アル・カイーダの一味だという誹謗を受けてライバルのハズラット・アリと米軍によって攻撃されアフガニスタンを追い出されてしましました。
5.眠っているトラを起こすCIAの秘密工作
地方には大小さまざまな武装グループがいます。それはそうです。対ソ連の抵抗戦争のときは村々がすべて小さな戦闘部隊を形成していたほどなのですから。しかし多くのグループは銃を置いて戦闘から身を引いていたといっていいでしょう。そんな中に以前ヘクマチアル(急進イスラム主義グループイスラム党の党首、抗米ジハードを訴えている)の司令官だったモーリー・ガフールがいます。
12月初め NGOのメディカルチームを名乗る人間が、このモーリー・ガフールをアフガニスタン東部ヌーリスタン県パルーンの自宅で暗殺しようとしました。CIAがガフールに医者を装って近づき毒物注射で殺そうとしたのです。それを気付いたガフールは逃げましたが、このCIA暗殺団の連絡を受けた米軍がガフールの家を包囲して銃撃戦になりました。地元民も暗殺団のこの行為を怒り、暗殺団が乗り捨てた車2台を焼き払いました。その後モーリー・ガフールは姿をくらませましたが、この頃からヌーリスタン県は反米・反政府闘争が激しくなり治安が悪化。NGOも国連もこの県で活動することが難しくなったのです。
実はこの事件の直後の2002年1月6日、妻の谷山由子がナンガルハル県保健局のモハマッド・アシフ、 DED(ドイツの JICA)のトーマス、 SERVE(NGO)のクリスティン3人とともにヌーリスタンに調査に行く予定にしていましたが、UNAMA(UN Assistance Misssion for Afghanistan)は治安の悪化を理由にこの地方出張に許可を出しませんでした。UN本部から旅行を控えるようにとの指令があったとも聞きます。治安の問題という以上に、クナールなど東部地域の軍事作戦が急を要する事態になったのです。ヌーリスタンはこれまで治安がよかったのですが、米軍の関与が治安を悪化させた一例だと見ることができます。
6.報復のために武器を取るもの
2003年の末には東部地域全体の治安はますます不安定になってきていました。毎日ひっきりなりに米軍の軍用ヘリコプターがジャララバードの事務所の上空を通過するようになりました。ジャララバードの北クナール県とヌーリスタン県で米軍による大規模な「テロリスト」掃討作戦が展開されていたのです。国連は11月4日両県全域へのスタッフの移動一時的に中止しました。これは10月31日の夜クナール県中部ワタプール郡役所をタリバンが襲撃し一時占拠した事件や11月1日米軍機がヌーリスタン県の村を空爆し4人の子どもを含む6人の村人が犠牲になるという事件が起きたことも関係していました。
11月1日の空爆の犠牲者は皆カルザイに解任された前ヌーリスタン県知事モウラビー・ラバニの親戚でした。この時期カルザイ大統領は県知事、県治安部隊司令官、県警察署長を次から次ぎへ更迭していました。抗争を繰り返していた北部シベルガン県とバルク県の県知事と司令官、東部クナール県やヌーリスタン県とJVCの駐在するナンガルハル県の県知事と司令官。南部カンダハル県の県知事と司令官などなどです。
カブールの外では影響力が及ばなかったためカブール市長と揶揄されていたカルザイが、アメリカの支持を得て自らの意向に沿わない地方の有力者の殺ぎ落としにかかったのです。しかしそれはとても危険な賭けでした。地方の知事や治安部隊の司令官は武力を背景にその地位についているものがほとんどでしたが、カルザイ政権はまだ脆弱で軍隊も警察も地方軍閥に対抗できる力はありませんでした。カルザイの強攻策は米軍の軍事力だけが頼みの綱だったのです。
米軍が武力で知事や司令官を追い出したところで、新たにカブールから派遣された人間が地域をコントロールできるはずもありません。ましてや米軍のやり方が地元の人々の反発を買ってしまったところではなおさらです。
カルザイに知事を解任され、米軍に親戚を殺されたモウラビー・ラバニは反米・反政府の武装闘争を開始しました。ヌーリスタン県はNGOに治安情報を提供しているアフガニスタンNGO安全オフィス(ANSO)の危険地図で常に危険度最高と色分けされています。私の友人でノルウェー・アフガニスタン・コミッティー(NAC)というNGOで保健部長をしているザヒドゥラ医師が私に話したことを今でも覚えています。「ヌーリスタン県はソ連に対する抵抗戦争が最初に始まったところだ。今再び同じことが始まるのではないか。今度はソ連ではなくアメリカに対して。」
# 写真はアフガニスタンの村で、村人とのミーティング。2005年。左端筆者。
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