2021年09月27日10時44分掲載  無料記事
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教育

都立高の男女別定員撤廃論・4 性の多様性と女性保護・母性保護 石川多加子

 都立高の男女別定員制撤廃を訴える側は更に、「性の多様性」を示し、LGBTIQの生徒達への対応の必要性も理由に挙げている。性が多様なのは恐らく古からであって現代に始まったのではない。広く認知されるようになって来たのはひとえに、当事者や支援者達による運動の成果であろう。 
 LGBTIQの内問題となるのはこの場合主に、トランスジェンダー(性別違和)とクエスチョニング、それにインターセックス(性分化疾患)の場合であろう。確かに、自認と異なる性を有するとして扱われることに苦痛を感じる生徒、市民に何らかの配慮をしなければならないことは、無論である。 
 但し、多様な性とは言え、男女の別はあって、その上での性自認、性別違和の言わば濃淡が一人ひとり異なっていると捉えるのが自然である。骨格や体力、何より妊娠・出産をするか否かは、やはり男女の大きな違いである。従って、両性の差異によって分けることが必須である場合を除いては、同様に計らわなければならない。男女を均しく扱わないことに合理的な理由があれば合理的区別であって実質的・相対的平等に近づき、反対に無ければ不合理な差別となって、法の下の平等及び両性の本質的平等に反することとなる。 
 
▽均等法による「女性の社会的進出」の美名の下で 
 性の多様性とジェンダー平等議論が高まるに連れ、女性保護・母性保護の観点が掻き消されて行くのではないかと危機感を募らせている。性別による違いが、個人のそれにすり替えられてしまう危うさである。都立高の男女別定員等に関しては、TIQとはいったん別にし、不合理な女性差別か合理的区別かを論じるべきである。 
 性差別をめぐっては、「保護」と「平(対)等」を二項対立のように解するジェンダー論者が散見される。2021年3月初めの記事では、桜井龍子元最高裁判所裁判官が日本社会のジェンダー問題に関して問われ、「戦後からしばらくの時代を、私は『保護の時代』と呼んでいます。女性は『か弱く、能力が低いから一定時間以上の残業や深夜勤務、危険な作業などをさせてはいけない』という保護すべき対象であり、就業制限がたくさんありました。それが変化したのが、1986年の男女雇用機会均等法施行から。同時に国連の女性差別撤廃条約が批准され、女性は保護の対象ではなく、平等に扱うべき対象だという考え方が理念として日本社会に導入されました」と説いている。同元裁判官は、「最高裁の判事は男女半々であるのが理想です。当面は30%が現実的な目標(東京新聞Web2021年3月8日6時https://www.tokyo-np.co.jp/article/90096(東京新聞Web2021年3月8日6時https://www.tokyo-np.co.jp/article/90096 東京新聞Web2021年3月5日12時https://www.tokyo-np.co.jp/article/89651 2021年8月30日取得)とも訴えている。 
 保護は、平等に近付ける為に行うものであるから、本来両者は対立しない。つまり、上述した合理的差別に該当する。それにも拘わらず労働の場に於ける女性保護・母性保護は男女雇用機会均等法(「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」1985〈昭和60〉年6月1日法律第45号。以下、「均等法」と略)制定以降、“女性の社会進出”や“労働の自由化”といった美名の下で縮小され続けている。 
 均等法は「勤労婦人福祉法」(1972〈昭和47〉年法律第113号)を改正して成立したのであるが(1986年4月1日施行)、「法案作成の前提となった婦人少年問題審議会は難航をきわめ、男女平等問題専門家会議での議論を含めて6年間にもわたる議論」を経ている。「使用者、労働者、学識経験者それぞれの側の代表が互いに主張を譲らず、コンセンサスが得られなかった」のは「“保護と平等”をめぐる問題」であった。「使用者側は労働の場での男女平等を受け入れることに抵抗感があり、長年続けてきた(男女差別的な)雇用管理のあり方を急激に変えることには反対であった。しかも、女子保護規定については全面的な廃止を求める声が消えなかった。これに対して労働者側は、条約批准、男女平等のための具体的な規定を強く要請しながら、同時に女子保護規定の存続も強く主張した」のである(板垣まさる・松本侑壬子「働く」、前掲『都民女性の戦後50年──通史』188〜189頁)。改正案を巡っては、第102回国会で激しい議論が闘わされただけでなく、多くの女性たちが連日、「女たちは労基法改悪を阻止するぞ!決起集会」を初めとする集会を開いたり、「署名運動や請願行動、デモを行い、国会に傍聴に押し掛ける」等して抗議活動を続けていたのである(松本「前掲書」191頁)。 
 均等法制定に伴う労働基準法改正により、女性保護・母性保護規定は格段に変えられてしまった。残業規制の上限を引き上げ、 深夜就労業務を拡大し、妊産婦以外の危険有害業務規制を大幅に解除し、かつ、生理休暇取得要件を縮小する(生理日の就業が著しく困難な女子、生理に有害な業務に従事する女子が取得出来たが、後者を廃した)等したのである(伊岐典子「女性労働政策の展開−『正義』『活用』『福祉』の視点から──」労働政策レポート第9号、2011年10月、100〜101頁)。 
 これに留まらず、1997年には妊産婦を除く深夜業の禁止規定を削除し、2006年には女性の坑内労働規制を緩和するに至った(「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律及び労働基準法の一部を改正する法律」2006〈平成18〉年6月21日法律第82号)。 
 そもそも敗戦後に成立した労働基準法(1947〈昭和22〉年4月7日法律第49号)が女性保護の目玉としたのは、深夜業禁止と生理休暇条項であった(小川津根子「女三代の戦前・戦中・戦後──14条・24条を中心に。女性条項はまだ登りの3合目─―」子どもの育ちと法制度を考える21世紀市民の会主宰、2021年6月19日開催の憲法リレートーク学習会に於ける配布資料)。今や前者は雲散霧消し、後者は条文こそ残ってはいるものの形骸化している。2020年度「雇用均等基本調査」によると、女性労働者がいる事業所の内、2018年度の間に請求者がいた事業所は3.3%、請求した者の割合は0.9%に過ぎず、 休暇中の賃金を有給とする事業所の割合は29%(内5.6%が全期間100%支給は5.6%。厚生労働省「2020〈令和2年〉度雇用均等基本調査 事業所調査結果概要」26頁)しかない。 
 
▽労働者派遣法で男性の労働条件も過酷に 
 2度の石油危機が世界の経済に大きな打撃を与え、その後の1980年代には「新自由主義に代表される『福祉国家批判』が思想的にも現実政治においても一定の影響力を持つに至」ることとなった(伊藤新一郎「福祉国家論の理論的基盤に関する批判的考察:社会契約論−国民国家論の視点から」 北星学園大学社会福祉学部北勢論集第49号〈2012年3月〉81頁)。すなわち、新自由主義者達は「様々な規制緩和、国有企業の民営化」を導入させる一方、労働市場の規制縮小や、英国のように最低賃金の撤廃(!)といった「社会保障・福祉国家の『見直し』を進めさせていった(厚生労働省「2012〈平成24〉年版厚生労働白書」10頁)。 
 均等法と同じ1985年、労働者派遣法(「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の保護等に関する法律」1985年7月5日法律第88号)も公布、翌年7月1日に施行された。以降、労働基準法等が相次いで改正され、女性ばかりでなく男性も過酷な労働環境に苦しむこととなる。1987年にはフレックスタイム制と3箇月単位の変形労働時間制が、1993年には最長1年単位の変形労働時間制がそれぞれ導入された。1998年の改正で創設された企画型裁量労働制は、2003年の改正により対象が拡大された。そして2008年の改正では時間外労働に係る割増賃金の支払に替わる「代替休暇制度」が、2018年の改正では「高度プロフェッショナル制度」(残業代ゼロ制度!)が導入された。 
 なお、2020年の改正法は、賃金請求権の消滅時効を「5年間」(115条)に延長するとしながら、「当分の間」は「3年間」とするもので(附則143条)、同年4月1日から施行されている(「労働基準法の一部を改正する法律」2020〈令和2〉年3月31日法律第13号)。これは、民法の消滅時効条項が「債権者が権利を行使することができることを知ったときから5年間」(166条)に改められたことに伴うものであり、労働者保護を目的とする労働基準法では少なくとも「5年間」と規定しなければならない筈である。改正前は、民法が1年としていた時効期間を労働基準法は2年としていたのである。しかしながら、使用者側の抵抗が強かった。労働政策審議会労働条件分科会では、使用者代表委員の輪島忍日本経済団体連合会労働法制本部長が「労基法は刑罰法規ということでございますので、民法が改正されたということをもって、連動して改正をする必要はない」等と主張している(第156回労働政策審議会労働条件分科会議事録、2019年11月25日https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_08932.html)。それ故同審議会は、「賃金請求権の消滅時効の在り方について(建議)」(労審発第1127号2020年12月27日)が「直ちに長期間の消滅時効期間を定めることは、労使の権利関係を不安定化するおそれがあり、紛争の早期解決・未然防止という賃金請求権の消滅時効が果たす役割への影響等も踏まえて慎重に検討する必要がある」とし、「当分の間」は「3年とすること」 を示したのであった。2020年の改正は、民法の私的自治の原則を修正し労働者保護を強化せねばならない労働法が寧ろ弱める効果をもたらすものとなった意味で、大きな分岐点と感じる。 
 「男女平等をより徹底して社会のあらゆる分野へ男女が共に参加するという最終目標を達成するためには生活と調和する労働条件、労働環境を形成することが不可欠である」(鈴木敏則「男女雇用機会均等法の問題点」名古屋文理短期大学紀要第21号、1996年、46〜47頁)にも関わらず、現実には均等法施行以降、返って退行してしまった。元々労働基準法は「戦前の工場法が国家のための労働力の維持培養のために労働者を『保護』していたのとは異なる、基本的人権の一部をなす最低労働基準としての『保護』」(伊岐「前掲書」21頁)を志向していた。「保護」の視点に立ち返らなければならない。 
 
▽教育にも経済界の「改革」路線 
 教育の領域でも軌を一にし、1984年1月に中曽根康弘総理大臣の諮問機関として設けられた臨時教育審議会が、「戦後政治の総決算」の一つとして「見直し」を開始した。臨教審は3年の間に4次に亘る答申を公表した。それらの基本方針は、同「年2月、中曽根ブレーン会議(筆者注「世界を考える京都座会」)に提出された『21世紀のための教育改革の5原則について(案)』という文書」が示した「教育『改革』の基本方向」──国際化・自由化・多様化・情報化・人格重視─―を下敷きとしている(野上修市「高等教育に関する臨時教育審議会答申の憲法・教育法的考察」同『解明 教育法問題』1993年、東京教学社、 25〜27頁)。この内、自由化と多様化は、第1次答申(「教育改革に関する第1次答申」1985〈昭和60〉年6月26日)が「他のすべてを通ずる基本的な原則」とみなした「個性化重視の原則」を「整理・統合したもの」と解されている(野上「前掲書」28頁)。第4次答申(「教育改革に関する第4次答申(最終答申)」1987年8月7日)が、「今次教育改革において最も重要なことは、これまでの我が国の根深い病弊である画一性、硬直性、閉鎖性を打破して、個人の尊厳、自由・規律、自己責任の原則、すなわち『個性重視の原則』を確立すること」と述べているのは(文部省第115年報、1987〈昭和62〉年https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/287175/www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaf198701/hpaf198701_2_257.html)、新自由主義的諸「改革」の本質を示すもので非常に重要である。「審議会発足当初、いわゆる教育の自由化をめぐって意見が交わされたが、自由化というよりは個性重視という表現に固ま」った経緯を看過してはならない(文部省「学制120年史」1992年https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318297.htm 2021年9月6日取得)。 
 「個性重視」は、1989年に改定された学習指導要領に於いて「自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成」・「個性を生かす教育」という「教育課程編成の一般方針」に反映されている 
(文部科学省「中学校学習指導要領」1989年3月15日https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/old-cs/1322457.htm 2021年9月6日取得)。 
 同要領は、「教育課程審議会」の答申(「幼稚園、小学校、中学校及び高等学校の教育課程の基準の改善について1987〈昭和62〉年12月24日」 )に基づくものである。審議会委員にはリクルート創業者の江副浩正氏等が就いており、経済界による教育への介入があからさまであると共に、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に尽くすとともに、優れた伝統の継承と新しい文化の創造に役立つように努める」(小・中学校の「道徳」)、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国家を斉唱するよう指導するものとする」小・中・高校の「特別活動」)といった新保守主義的記述が登場したことに留意する必要がある。 
 因みに告示から約2週間後、江副氏と同氏を選任した高石邦夫文部事務次官(当時)等が贈収賄罪の疑いで次々と逮捕された。いわゆるリクルート事件である。この為、学習指導要領の撤回等を求める意見書が多くの地方議会で採択されることとなった(浪本勝年「<論説>解説・地方議会の『新学習指導要領の撤回を求める意見書』立正大学文学部論叢93号、57〜85頁」。 
1980年代以降、大学入学者選抜制度改革(1990年度から「大学入試センター試験」実施)、高等教育の多様化(1991年に大綱化された「大学設置基準」が施行)、6年制中等学校設置(1999年に「中等教育学校」創設)、単位制高校(1988年から定時制・通信制課程に、1999年から全日制課程に導入)、初等・中等教育改革(1989年度より初任者研修制度が全面実施、1997年に通知「通学区域制度の弾力的運用について 文初第78号平成9年1月27日」が発出・翌年に三重県紀宝町で導入、2018年度に小学校で、2019年度に中学校で「特別の教科 道徳」が新設)等々、臨教審が提案した教育「改革」策は、「自由化路線とナシ ョナリズムとの連携の発展のなかで」(熊谷一乗「現代教育政策におけるナショナリズム」日本教育政策学会年報7巻、2000年6月、49頁) 次々に実現していくこととなった。今尚我々は、世界を考える京都座会〜臨教審がかざした個性重視=自由化・多様化、国際化、情報化を促進すべく日夜追い立てられている。 
(つづく) 


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