2022年04月12日21時02分掲載  無料記事
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反戦・平和

「戦争放棄」を再構築するために(上)民衆の安全保障再考  小倉利丸

 ウクライナに対するプーチンの戦争は、さまざまな難問を私たちに突き付けている。軍隊、兵士、民衆の武装と抵抗、自衛と戦争、国家と領土と民衆。経済学者で思想家である小倉利丸さんは、いま私たちに突き付けられている問いに、改めて民衆の安全保障を再考しようと問いかける。小倉さんのブログ「no more capitarisum」から転載する。小倉さんはこの論考の趣意を以下のように述べる。「民衆の安全保障という20年以上前に沖縄で提起された議論を再検討しています。軍隊は民衆を守らないという基本的な軍隊理解が現在の平和運動にはもはやほとんど見出せなくなっています。後半は私が考える戦争放棄とは何かを書いています。とくに目新しいことはないです。ウクライナの多くの人が実践していることであり、これまでの世界中の紛争や戦争地域で多くの人々がやってきた当たり前のことです。ディアスポラとかノマドとか多くの知識人たちも論じてきたことです」(大野和興) 
 
 
 
1. 民衆の安全保障再考 
(1) 軍隊が民衆を守るという「神話」 
 
ウクライナへのロシアによる侵略戦争があからさまな形で顕在化した今年の2月からの1ヶ月半の戦争反対の声の大半は、ロシアの侵略戦争に反対しつつ、侵略に抵抗するウクライナの民衆の武装抵抗をウクライナの軍であれ義勇軍であれ、いずれにせよ、もっと多くのもっと高性能の武器・兵器を提供して武装能力を高めることについては大いに支援するような雰囲気が一般的なように思う。だから別のところ(注)に書いたように、日本の平和運動や大衆運動のウクライナ戦争から得ている教訓は、日本を侵略から守るための自衛力は必要だということになり、そうであるなら、自衛隊をまともな軍隊として憲法上も認めることに前のめりになりつつあるように思う。もはや日本政府と革新野党の間にはほとんど戦争への向き合い方に差がない。 
 
(注)ウクライナ経由ナショナリズムと愛国心をそれとなく煽るマスメディア 
 
軍隊は、国家の「防衛」のために兵士としての民衆(敵であれ味方であれ)を犠牲にするか、国家に敵対する自国の民衆に銃口を向けることを通じて、国家権力の安全を確保しようとするものであって、民衆の安全を確保することは、その従属変数、あるいは行き掛かりの駄賃に過ぎない。ある時期までの日本の反戦平和運動は、自衛隊を違憲とし、一切の武力の保持を認めないことを平和の原則としてきた。しかし、1990年代以降、つまり冷戦終結以降、日本の平和運動は次第に、最低限の自衛力の保持を容認することに始まり、すでに存在する自衛隊と防衛省を合憲とみなすことが常識にすらなってしまった。憲法学者の自衛隊違憲論者は今では少数派だ。(注) 
 
(注)吉川勇一「世論の動向に寄り添うのではなく、それを変えさせる努力が必要なのだ」ピープルズプラン研究所編、2006所収。 
 
しかし、私は、むしろ、2000年に入って一時期活発に議論されていた「民衆の安全保障」の主張を今一度想起する必要があると考えている。沖縄の少女暴行事件をきっかけに沖縄で繰り広げられた基地反対運動の高揚のなかで、戦前・戦中・戦後、そして復帰以後の沖縄が経験してきた、自国の軍隊、敵の軍隊、外国の軍隊がもたらした暴力の経験から提起された国家安全保障とは真っ向から対立する民衆の安全保障の提起は、ウクライナの戦争への私たちのスタンスを再確認する上での重要な出発点を与えてくれる。(注) 
 
(注)民衆の安全保障のコンセプトの構築と沖縄の反基地運動については、武藤一羊「民衆が動かなければ戦争はできない」前掲『9条と民衆の安全保障』所収、参照。 
 
2000年7月に出された「<民衆の安全保障>沖縄国際フォーラム宣言」(以下、民衆の安全保障宣言と呼ぶ)(注)は、「国家の安全は民衆の安全と矛盾します。軍隊は民衆を守りません。軍隊は社会の安定を脅かします」として、軍事化された安全保障の問題点を三点にわたり指摘した。第一に、日本の安全保障なるものは「企業利益と、米国とその同盟国の経済的利益を擁護する以外の目的を持っていない」こと。第二に、「自国の軍隊が私たちの日常生活と自国の歴史とを支配し、影響を及ぼしてきた経験から、私たちは、軍隊組織というものが、民衆を保護するのではなく、軍隊自身を防衛し保護するだけであること」、第三に「軍事機構とそのイデオロギーが、しばしばもっとも残酷で暴力的な男性支配、性的な抑圧と搾取に基礎を置いているばかりか、それを永続させ、増殖させている」と指摘した。そして次のように、民衆の安全保障の主体における女性が果たしてきた重要な役割を強調した。 
 
(注)<民衆の安全保障>沖縄国際フォーラムのウエッブが現在でも存在している。 宣言はここ。 
 
「軍隊は、しばしば、いけにえとして、またその暴力と支配の対象として、女性、少女、子どもを求め、狙います。軍隊、軍事基地、軍国主義へのもっとも強力な批判が、女性と女性運動から起こっているのは驚くにあたりません。女性の闘いと平和への女性の努力の歴史、そしてとくに、戦争と軍事化のだなかで伝統的な境界を越え、国境を越える女性たちの連帯の成果は、民衆の安全保障のためのオルタナティブなシステムと構造を作り上げ、平和をかちとるよう、私たちを励まし、私たちに教訓を与えてくれます」 
 
軍隊と戦争のなかで抑圧され安全を奪われた民衆自身による民衆の安全を創出する主体の構築こそが目指されるべきであり、そのための手段は非暴力に基くものでなければならないということを強調している。 
 
「私たちは、人種、宗教、エスにシティ、性差、性的指向の差、地域差などを越えて、合流し、民衆の連合をつくり、その中で不平等を永続化し維持するさまざまな構造を変革することで、民衆の安全を創り出そうとつとめます。民衆自身、とくに社会的に抑圧され、安全を奪われている人々こそが、恐怖と不安なく暮らせる民衆の安全保障を創り出す主役です。民衆の安全保障は、人権、ジェンダーにおける正義、エコロジーにおける正義、そして社会的連帯にもとづくものです。民衆の安全保障は非軍事化を要求します。そしてそれを達成する手段は非暴力的なものです。」 
 
そして6点にわたって民衆としての「私たち」が取り組むべき長期的な行動目標を定めている。そのなかには以下のような指摘がある。 
 
「民衆間の争い、また過去の憎しみや猜疑心を、率直な話し合いと相互の働きかけを通じて乗り越えなければなりません。このような紛争は、しばしば軍事機構自身によってけしかけられています。」 
 
「私たち自身の社会の紛争状況に取り組み、地域社会や民族や民衆集団の間に相互信頼と尊敬を築くために活動することが必要です。ある地域社会の安全が他の地域社会の安全を犠牲にすることがあってはなりません。」 
 
(2) ウクライナ戦争のなかで民衆の安全保障をどう提起できるか 
 
ウクライナの戦争をどのように判断し、どのようなスタンスで戦争に反対するのかを見定めるためにも上に指摘されている論点は重要だ。ウクライナとロシアの間の国家間の戦争は、同時に、両国の民衆相互の敵意を醸成するだけでなく、それぞれの国内に暮す、相手国の住民たち、とりわけ、ウクライナ東部のロシア語系住民や、ロシア国内のウクライナ系の住民、そして、ロマなどもともと差別と迫害を被ってきたエスニックマイノリティの人々の存在をはっきりと視野に入れた「民衆」の相互理解を構築することが重要になる。 
 
この民衆の安全保障宣言は2000年に出された。2001年9月のいわゆる「同時多発デロ」をきっかけに、その後世界は、終りのない対テロ戦争の時代に入り、日本もまた「参戦」してきた。こうした時代にあって、「地域社会や民族や民衆集団の間に相互信頼と尊敬を築くために活動すること」「ある地域社会の安全が他の地域社会の安全を犠牲にすることがあってはなりません」という上の提起が示している「地域」「民衆集団」は、国家の視点からみれば「敵」とみなされている民衆や地域との相互信頼と尊敬でなければならない。 
 
この国の野党やいままで平和運動や護憲運動の中心を担ってきた人達にとって、この民衆の安全保障がどのくらい真剣に受け止められてきたのか、私には判断できない。しかし、たぶん、いわゆる「平和憲法」を擁護する人達のなかで軍隊こそが民衆の安全を脅かすのだ、ということを明確に自覚して、だから自衛を口実とした武力を一切容認しないという立場をとる人達は、政治の世界でもアカデミズムのなかでも、そして市民運動のなかでもますます数が減ってきている。実のところ、多くの平和運動の担い手たちは軍隊を積極的に肯定しているわけではなく、むしろ軍隊などない方がいいという思いは強い。だが、そうであっても、ウクライナの現実を見せられたとき、「もし日本が侵略されたらどうするのか、そうしたときに自衛隊はやはり必要ではないか」という保守派や政権側の脅し文句に対して「国家の安全は民衆の安全と矛盾します。軍隊は民衆を守りません。軍隊は社会の安定を脅かします」では答えにはならないだろう。侵略されたときに、国家の安全が民衆の安全と重なりあう状況が生まれる。軍隊は国家の安全を守る上で民衆の安全を守る必要に迫られる。なぜならば、民衆の安全を国家が守るということを現実に証明してみせることこそが国家権力の正統性を支えるからだ。リスクは相対的なものだ。自国軍隊が民衆に対してもたらすかもしれないリスクよりも侵略者によるリスクが上回るとき、容易に自国軍隊のリスクは容認されてしまう。だからこそ、戦争状態を目の当たりにしてもなお、軍隊は私たちを守らないのだから、私たちは軍隊を認めない、と主張しうる思想的な根拠をきちんと議論しておく必要がある。 
 
 
(3) 国家への向きあいかた―あるいはナショナリズムの問題 
 
民衆の安全保障宣言は正しい原則を提起したと思う。しかし、戦争状態や緊急事態(それがいかに欺瞞的であったとしても)のなかで、敵や侵略者の脅威を誇張し煽る自国政府は、必ず、自国軍隊がもたらすリスクを過小評価して民衆に甘受させようとする。いわゆる「敵」の脅威なるものによって人々の不安を煽り、不安に対する唯一の解決が国家による武力であるという軍備強化の古典的なプロパガンダの常套手段を、この宣言は突破しきれたといえるだろうか。正しい原則を提起したにもかかわらず、反戦平和運動のなかの共通理解を獲得することができなかったのはなぜなのだろうか。この問いは、現下のウクライナ戦争でいえば、ロシアがいかに侵略者としての暴力を振おうとも、ウクライナの民衆に軍隊は民衆を守らないという基本的な視点を提起することがどうしたら可能なのか、という問題でもある。この問いは対テロ戦争のなかで、実際に戦場となり戦火に見舞われた国や地域いずれに対してもあてはまる問い難き問いかもしれない。多分、民衆の安全保障を議論してきた人達の間で、こうした課題については様々議論されてきたのではないかとも思う。日本国内のウクライナ反戦のなかにみられる自衛のための戦争への肯定感はこれまでの次元を明らかに越えて、日本の武力行使を容認する合意形成へと向いはじめているように思う。自衛隊違憲論や非武装中立論はもはやマイナーなたわごとの類いにまでランクダウンしてしまったように感じる。これはウクライナで突然起きてきたことではなく、ポスト冷戦期に少しづつ自衛隊違憲論が切り崩され、同時に日米同盟や日米安保体制を疑問視する声もマイナーになってこれらを当然の前提とした上での「平和」の議論が主流を占めてきた過程の上に登場してきたものだ。 
 
この民衆の安全保障宣言ではナショナリズムへの言及がない。宣言には「人種、宗教、エスにシティ、性差、性的指向の差、地域差などを越えて」民衆の連帯を構築すべきとする視点は明言されているが、「ネーション」としての人口集合を越えること、あるいは緩やかない意味も含めてナショナリズムを越えることについては明示されていない。つまり民衆がネーションとどのように向き合うべきなのか、についての基本的な問題提起が上記の人種が地域差に含意されていると解釈しうるにすぎない。たぶん、このことがこの宣言の原理的な部分に関する大きな限界だったのではないかと思う。軍隊と戦争を論じる以上、ナショナリズムは避けられない課題だ。 
 
国家の安全から区別される民衆の安全保障の創出にとって、そもそも国家とどのように向き合うべきなのか。軍隊は民衆を守らないとして、それでは、国家はどうなのか。国家は民衆を守るのか?国家が民主主義の統治体制をとり、まがりなりにも主権者が「国民」と呼ばれる狭い枠に限定されるとしても、「民衆」に基盤を置くことでその権力の正統性が支えられているのであれば、そうした国家に対して民衆は、軍隊は民衆を守らないが国家は守りうるものとして向き合うのか、それとも、国家もまた民衆を守らないものとして、向き合うのか。民衆の安全保障の考え方の背景には、国家もまた民衆を守らないという判断がさったと思う。たとえば武藤一羊は、国連の「人間の安全保障」を批判して次のように書いている。 
 
「私たちが人間の安全保障の最大の弱点だと感じたのは、日常生活における人々の安全が何より大事だと宣言されちるのに、それを保障する基本的なパワーがどこにあるのかを語らず、国家が人間の安全を保障するのだと暗黙の内に前提にしちることだった。つまり、民衆自身が自身の安全を守るもっとも大事な行為者と考えられていないこと、「オブ・ザ・ピープル、フォー・ザ・ピープル」はあっても、「バイ・ザ・ピープル」が欠如していることだった」(注) 
 
(注)前掲武藤論文 
 
結局こうなると国家はテロ対策や治安維持から災害、感染症などに至る生活総体を国家国家安全保障に従属させその補完物にしてしまうことになる。この問題は単なる法や行政の制度の問題ではなく、民衆自身が国家をどのようなものと理解し、国家に対してどのように自らがアイデンティティを構築するのか、という国家との向き合い方が問われることになる。国家に依存しない「バイ・ザ・ピープル」を日常生活のなかから実践することは、同時に、民衆自身がネーションを相対化するような生活様式を獲得するということと同義だといってもいい。 
 
この問題はナショナリズムと深く関わる。とりわけ敵対する国家間の摩擦のなかで、民衆が国境を越えて信頼関係を相互に構築するときに、このナショナリズムやネーションの枠組による自他の区別意識は障害になる。この障害をそれぞれの国家はそのイデオロギー装置によって構築しようとするから、こうした意味での国家に「主権者」として巻き込まれている私たちの国家との向き合い方は狭義のいみでの国家安全保障だけでなく、総体としてのこの国が統治する社会のありかた全体に関わる。宣言が「民衆の安全保障を、軍事、外交、政治などの領域ばかりでなく、家族関係、ジェンダー関係、社会運動、文化など日常生活の領域でも追求し、創造するため行動しなければなりません」と指摘していることの意義は、国家が仕切る日常生活領域を、軍事費を削って福祉に回せといった国家に私たちの日常生活領域を従属させかねない要求でいいのかどうか、という問いでもある。戦争する国家はケインズ主義のような国家による福祉と統制を一体化させた統治を展開する。そのなかで民衆の意識は国家による軍事的な庇護だけでなく日常生活上の庇護をも自らの権利だと勘違いしてしまう。実際には国家なしには日常生活すら営めない従属をもたらし、それが戦争への動員の構図をつくることになる。 
(続く) 


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