2023年02月01日11時12分掲載  無料記事
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アジア

ミャンマー「夜明け」への闘い(8)Z世代が優しい抗議行動の前面に 西方浩実

昼間の抗議運動は、2月9日の銃撃後も、ますますピースフルに続いている。武装した警官隊や放水車は今日もデモ隊に睨みを効かせているが、物理的な弾圧はせずに様子を見ているようだ。人々は恐怖に屈することなく、シュプレヒコールを繰り返し、3本指を突き上げて歌を歌っている。友人たちは「さすがに疲れてきたよ」と笑いながら、今日も炎天下の中、出かけていく。 
 
▽「クソみたいな元彼も、国軍よりはマシ!」 
最近の抗議活動では、Generation Zと呼ばれる20代前半の若者たちが目立っている。ドレスアップしてパレードする女の子たちや、上半身裸で歩く筋肉自慢のムキムキ男子たち。交差点でhip-hopを踊るパフォーマンス集団もいれば、各国大使館前で管弦楽を奏でて平和を訴える学生もいる。盾を構える警官隊ひとりひとりに、バラの花を手渡して歩く若者の姿もある。そうしたクリエイティブな表現方法が、SNSに載せられ、世界に配信されていく。 
 
「SAVE MYANMAR(ミャンマーを助けて)」「FREE OUR LEADERS(私たちのリーダーを解放して)」など、お決まりのキャッチコピーが多かったプラカードにも、次第にいろんなバリエーションが出てきた。「あのクソみたいな元彼も、国軍よりはマシ!」「独裁者よりも、恋人がほしい!」段ボールに英語で書かれた、ファニーなメッセージ。もちろんふざけているわけではない。彼らは、世界の注目を集めようと必死なのだ。画面の向こうの、外国にいる誰かに、ミャンマーで今何が起きているのか、気づいてほしいのだ。 
 
たった3週間で、私はミャンマーの軍事独裁政権というものが、いかに腐っているかを思い知った。国民が選んだリーダーたちを捕まえて、政権を奪い、自分たちを批判する者を拘束してまわる。破壊分子を街に放ち、治安を脅かして人々を揺さぶる。インターネットや電話を、軍の都合で遮断する。法律をどんどん作り変え、行動や表現の自由を奪う。ストライキする公務員を、罰則をチラつかせて脅す。 
 
一方で、コロナ禍でずっと閉めていたお寺を解放して、参拝を我慢していた市民の歓心を買おうとする。そして、その手には乗らないぞ、と非暴力で声をあげ続ける市民を撃ち殺す。控えめに言っても、これは、クソだよ。 
 
週末、私も抗議デモに出かけた。行き先はミニゴンの交差点。1988年の民主化運動(注1)の時にもデモ隊と警察とがにらみあった場所だ。高架橋の下には見渡す限りの大群衆が、立錐の余地もないほどに集まっている。人々は声を合わせて、民主化を叫ぶ。拳を突き上げて歌う。願いをのせた声が、高架下に響きわたる。充満する、軍政打倒へのエネルギー。 
 
インド系・バングラ系と思しき、肌の色が濃い人々もいる。ニューハーフの集団は、バッチリメイクで立っている。人種や性別を超えて、今はみんなで闘っている。中心部の熱源から少し離れた場所にはクーデター後に犠牲になった人たちの、小さな祭壇があった。3枚のモノクロ写真(注2) 。感情を乱されるのが怖くて、直視できずに通り過ぎる。 
 
裏通りには、山のようにお弁当を積んだトラックが到着する。売るのではない。デモ参加者に、片っ端から配るのだ。水やジュース、さらにはスイカまで、気前よく配られる。ゴミ袋を持って、デモ隊からゴミを回収して歩く若者たちもいる。そういえばこれだけの大人数が集まっているのに、足元には空き缶一つない。ポイ捨てが当たり前のこの国で。 
 
広い交差点の中央では、若者たちによる抗議のパフォーマンス。車の流れが止まったその横で、せめて端の一車線が車用として機能するよう、汗を流しながら交通整理をする人の姿がある。夕方になると、群衆から少し離れたところに「Free Ferry」と手書きされた紙が貼られたワゴン車やトラックが集まり始める。参加者たちを家に送り届けるために、地域住民が無料の送迎サービスを提供しているのだ。 
 
全体を仕切るリーダーなどいないというのに、みんな自分にできることを考え、足りないものがあれば自発的に補っていく。すべてが秩序だっていて、警察や軍につけいる隙を与えない。ねぇ、この完璧な抗議をどうやって弾圧しようっていうの?できるものならやってごらんよ。そんな風に言いたくなる。 
 
デモを抜けた先には、紺色の警察車両が並んでいた。ぎっしりと警官を乗せたトラックが、5台ほどずらりと待機している。警官が何気なく携えている銃が目に入り、ドキッとする。市民を守るためじゃない。脅すため、殺すための銃だ。 
 
デモから帰ってくる人たちが、トラックの横を通りすぎる。警官たちには目をやらず、でも掲げていたプラカードの向きを少しだけ変えて、トラックの方に向ける。プラカードの文字が、警官たちからよく見えるように。小さな小さな、抵抗。 
 
みんなわかっている。自分たちが睨み合っている警察官は、本当の敵ではないこと。警察や軍隊を動かす見えない敵に向かって、必死で抗議しているのだ。 
 
街では装甲車を見かけることが増えた。警察ではなく、軍が出てきている。自宅の近くでも、プラカードを掲げた市民たちが戦車と対峙していた。見慣れた街路樹、行きつけのコンビニ・・・普段と変わらない景色の中に、まるでコラージュのような軍用車両。 
 
装甲車の前で、デモ隊は声を合わせ、軍への不服従を叫ぶ。民主化の歌を歌う。反軍政のプラカードを持って戦車の前に立ち、写真を撮る。装甲車にこっそり Democracy のステッカーを貼る。ときどき装甲車から兵士が出てきて、ステッカーを剥がす。 
 
なんて平和で、優しい抗議なんだろう。でもこの穏やかさは、実はギリギリのバランスの上にある。市民が、少し調子にのって挑発しすぎれば、そして兵士がカッとなってボタンを押せば、市民は簡単に殺される。 
 
▽「欲しいのはお金じゃない、人権だ」 
「僕たちは、絶対に暴力を使わない」 
カレン族の友達からこの言葉を初めて聞いたのは、クーデター2日目の夜だった。「僕らが少しでも暴力的に抵抗すれば、軍は『国の治安を守る』と言って、徹底的に武力鎮圧しはじめる。そうやって僕らは、何度も弾圧されて、殺されて、負けてきたんだ」。 
 
それはその通りなのだろう。冷静で素晴らしい。だが、そうは言っても、5400万人の国民全員が非暴力を守らなければ、意味がない。誰か一人でも暴発すれば、その時はすべての国民に対する攻撃が始まるだろう。一人残らず非暴力を貫きつづけることなど、できるんだろうか・・・。 
 
その不安は、高まる一方だった。6日から始まったデモはどんどん高揚し、その規模は膨張していった。Facebookには、放水を受けて地面に転がるデモ隊の映像や、警棒で殴られる市民の映像などが、繰り返し流れてくる。街では「抗議運動に参加しない人は殺人者(=軍)と同じだ」などという過激なポスターも見かけるようになった。深夜に家々を回っての逮捕が本格化し、囚人が街に放たれると、住民は交代で夜警を開始。寝ずの番で精神的にも追い詰められていった。 
 
そろそろミャンマーのどこかで、誰かの忍耐がプツンと切れるんじゃないか・・・。何度も不安が胸をよぎる。 
 
しかしクーデターから半月以上が経っても、市民は見事に怒りに耐え、非暴力を貫いている。放水されたら、レインコートを着る。銃を向けられたら、ヘルメットを被る。夜間の不当な逮捕には、地域のおじさんが棒を片手に待ち構える。取り押さえた不審者が自分たちの街に火をつけようとしていても、暴力は振るわない。その背後にあるものを、よく知っているからだ。 
 
何十万、何百万もの人が、暴発せず、なだめあっている。その忍耐が、彼らの怒りや悲しみをさらに深める。奇跡を見ているようだ。 
 
昨日久しぶりに電話したカレン族の友達は、繰り返した。 
「絶対に、絶対に、暴力は使わない。軍は、1988年と全く同じやり方で僕らを挑発している。でも僕たちだって、同じ轍は踏まない。向こうが暴力を使ったら、逃げるよ。逃げて、隠れて、向こうが諦めたらまた出て行く」 
 
私たち日本人にできることはないかな。例えば、日本で募金を集めたりすることは、できるかもしれない。そう尋ねると、彼は、うーん、と少し考えてこう言った。 
 
「お金はいらない。僕らがほしいのは、人権だ。この2週間でわかったでしょう?軍政下には僕らの人権はない。お金じゃない、人権なんだよ」 
 
<注> 
1. 1988年、ヤンゴン大学の学生が中心となって、軍事独裁政権打倒を目指す大規模な民主化運動が行われた。8月8日にはミャンマー全土で大規模なデモ活動が展開されたが、軍はこれを凄惨に弾圧。3000人とも言われる死者を出した。 
2. 2月9日にネピドーで頭部を撃たれた少女のほかにも、クーデター後に数名が何者かに殺害されていた。例えば、外出禁止の夜間に自警団の一員として地域の見張りをしていた住民が銃殺される、など。犯人は捕まっていなかったが、軍の仕業と信じる市民は多かった。 


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