2023年02月04日13時49分掲載  無料記事
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アジア

ミャンマー「夜明け」への闘い(9)「2222」ゼネスト、全国の経済活動が停止 西方浩美

クーデター後、3週目。あからさまに街に姿を見せはじめた軍や戦車の前で、必死の非暴力デモが続いていた。ところが2月16日、火曜日。市民の運動は、勢いをなくしたように見えた。いつもなら朝9時すぎから響いてくるデモの音楽や掛け声が、お昼前になっても、なかなか聞こえてこない。インターネットのライブ配信には、もはや見慣れたデモの映像が延々と流れている。ヤバイ、みんな疲れてきたかな・・・。 
 
▽.壊れた?車が道路にいっぱい 
デモが始まって半月、いつ弾圧されるかもわからない不安の中、武装警官や戦車と毎日向き合い続けているのだ。この炎天下で連日屋外に立ち続ければ、体力だって消耗する。仕事だって、ずっと欠勤を続けるわけにはいかない。民主化するまでいつまでもデモを続けられるわけではないのだ。だけど抗議することをやめてしまったら・・・軍政は固定化してしまう。 
 
知り合いのミャンマー人は、静かにこう言った。 
「この闘いには、出口がない。朝から夕方までデモをやって、夜8時から鍋を叩いて、それで?2ヶ月、3ヶ月、そのあとは?・・・僕らは今、じわじわと負け始めているんだ」 
 
翌日、朝8時。自宅でぼんやりしていると、遠くから、地鳴りのような叫び声が響いてきた。 
軍事独裁政権はいらない!デモクラシー!うぉぉぉぉ・・・ 
なんだかよくわからないけど、何かが起きている。抵抗運動が、ものすごい規模になって息を吹き返している。 
 
郊外に住む友人から次々と連絡が入る。「人々が道路を封鎖している」「橋が塞がれてヤンゴン市内に入れない」。幹線道路を塞げば、人々は仕事に行けなくなる。国の経済は止まる。軍に国家運営させないための、CDM(市民不服従運動)活動の一環だろう。 
 
慌ててパソコンの電源を入れ、地元メディアが配信するライブ映像を開くと、スーレーパゴダ近くの交差点(ダウンタウンの中心部)に座り込んでいる人の姿。自宅近くの交差点でも、車が斜めに止まって、道を塞いでいた。 
 
あぁ、これはやばい、やりすぎだ・・・。道路を塞ぐという実力行使は、軍の介入を招く。いよいよ市民たちが強制排除されてしまう・・・。一人、パソコンの前で頭をかかえる。 
 
・・・しかし、ヤンゴン市民は一枚上手だった。彼らは道路の中央におもむろに車を止めると、ボンネットを開け「あれ?車が壊れた」と言い始めたのだ。運転手はわざわざ「おかしいなぁ」などとつぶやきながら、ボンネットをあける。首を傾げる。困ったなぁ、車が動かないなぁ。それを遠巻きに眺めていたサイカー(自転車タクシー)のおじさんたちが、笑顔で拍手を送る。夕方になると、あれ、ふしぎだな、車が直ったぞ、ということで、みんな平和に家に帰った。 
 
心が痛くなるほどの民主化への渇望と、ユーモラスな表現方法。うまくやったな、と笑い出したくなる。 
 
交通が遮断された幹線道路上は、人の海となった。地面が見えないほどの群衆が、波のように揺れ、声を轟かせる。警察や軍も、放水車や戦車を出せるような状態ではない。道路は故障車でいっぱいなのだから。 
 
ミャンマー市民は、まだまだ負けない。 
 
▽揺るがぬ軍政、市民は長い闘いを覚悟 
2021年2月22日、「2」が5つ揃うゾロ目の日。ミャンマーの民主化運動の歴史において象徴的な、8888民主化運動(注1)にちなみ、全国で最大規模の「2222」ゼネストが呼びかけられた。工場やショッピングモールはもちろん、地元の市場や、小さな露店にいたるまで、ほとんどすべての店が休業した。そして大勢のミャンマー市民が、怒濤のように街に出た。 
 
自宅前の、普段それほど人通りのない道にも、赤いリボンやハチマキをつけた人が、どこからかワラワラと溢れ出してくる。ヤンゴンの最高気温は35℃。充満する人々の熱気が、さらに体感温度を上げる。 
 
昨日、また軍によって一般市民が撃ち殺された。しかし人々はひるまない。軍が非人道的に振る舞うほど、人々の悲しみや怒りに裏打ちされ、打倒軍政の思いは揺るぎないものになっていく。 
 
2222インヤー湖畔の広い土手には、何百メートルにもわたり、人々が隙間なくぎっしり座って声を上げていた。白い服が多いのは、撃たれた時に血の色がわかるためだという。たとえ撃たれても、その血の色が世界に報道されれば、軍政にダメージを与えられるかもしれない。死んでもあきらめない覚悟。自由や人権とは、命とひきかえにしてでも守るべきものだったのだと、ミャンマー人の行動を見て、思い知る。 
 
すぐ傍の高架下には、警察車両が停まっている。外から警官の姿は見えないが、上層部からの出動命令が下れば、赤スカーフを巻いた「治安部隊」が銃を手に出てくるのだろう。ぞっとする。とはいえ、湖畔に集まった途方もない大群衆と比べると、1台の警察車両はあまりにも非力に見える。高架橋に響き渡るシュプレヒコールや歌声をBGMに、警察車両にくるりと背をむけて歩き出す 
。 
夕方、ヤンゴンのデモ隊は、平和に解散した。弾圧はなかった。ほっと胸をなでおろす。弾圧の理由などどこにも見当たらない、平和で秩序だったデモ。それでも治安維持などを理由に市民を殺すのが、ミャンマーの軍政だ。 
 
1988年3月、まさにこのインヤー湖畔で、抗議運動をするヤンゴン大学の学生に対して、凄惨な鎮圧が行われたのだという。治安部隊の発砲により、湖に追い詰められ、溺死した学生。湖に蹴落とされ、這い上がったところをまた殴られる者。拘束された女子学生たちは、刑務所内で袋を被せられ、強姦されたという。そうしたやり口で民衆を黙らせ、権力の座にとどまり続けた軍は、私欲のためにジャブジャブお金を使い、足りなくなると公共料金を値上げした。批判する者がいれば、罪をでっちあげて投獄した。人々は5人以上で集まることを禁じられ、夜間は外に出られず、公的な手続きの際には、賄賂を払わねばならなかった。(注2) 
 
その国軍が、戻ってきた。だから、ミャンマー人は叫ぶのだ。絶対に軍政は受け入れない、民主主義を返せ、と。 
 
2月22日の大規模ゼネストで、国じゅうの経済活動は一斉に止まった。人々は「今日で軍政を終わらせるぞ」と息巻いていたが、軍政は(少なくとも表面上は)ぴくりとも揺るがず、軍が譲歩することも何ひとつなかった。 
 
23日以降は、ずっとデモに参加していた人々も職場に戻リ始めた、という話も聞き、あぁ軍への抵抗も少しずつ萎んでいくんだろうか、と私もなんだかしょんぼりした気持ちになった。だが、そんな私の不安をよそに、抗議活動は今日も勢いよく続いている。(よかった‥!) 
 
ミャンマーで連日続くデモ。もしかしたら日本の報道では、街のすべての場所で、朝から晩までデモをやっているように見えるかもしれない。でも、実際は違う。デモをやっている場所は、だいたい決まっている。 
 
例えば、学生が集う「ヤンゴンの原宿」、レダンの交差点。1988年にデモ隊が治安警察と睨みあったミニゴンの高架下。各国の大使館前、など。そこから離れると、街はいつも通り穏やかな表情をしている。露店で色とりどりの野菜が売られ、タクシーやバスもどうにか走っている。スーパーマーケットは、軍系企業の製品を棚から引っ込めて(注3) 営業を続けている。毎日大規模なデモを続けながらも、日常の暮らしは、ある程度きちんと維持されているのだ。 
 
デモの時間もだいたい決まっている。朝10時ごろから盛り上がり、夕方4時頃にはきれいに解散する。実はこれは、最初から一貫している。どれだけ軍政に激怒していても、22日の全国ゼネストの日ですら、決して夜まで叫び続けたりはしなかった。疲れるからじゃない。明日も明後日も、デモを続けるからだ。また明日、朝から声をあげるために、人々は秩序を保っている。長い闘いになることを、ミャンマー人は覚悟していると思う。 
 
(注) 
1,1988年の民主化運動は8月8日の全国デモとゼネストで最高潮に達したことから「8888」と呼ばれる。 
2.1988年および軍政下の社会についての参考文献は、永井浩ほか『アウンサンスーチー政権のミャンマー』を参照 
3. ミャンマー国軍は巨大な複合企業体を持っており、銀行、保険、観光、貿易、建設など、あらゆる分野において百数十社の企業を傘下に置いている。その利益は非課税・非公表で、国家予算の国防費よりも大きいとされる。クーデター翌日から、こうした軍系企業の商品をボイコットする動きが始まった。SNS上では無名の市民が作成したボイコットリストが拡散され、大手スーパーでも軍系企業の製品が、売り場から下げられた。また、軍への納税や公共料金の支払拒否の動きも広がり、スーパーや飲食店などでも客から消費税をとらないなど、徹底した不服従活動が行われた。 


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