2023年06月30日10時07分掲載  無料記事
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アジア

ミャンマー「夜明け」への闘い(38)慢性的停電と軍の蛮行情報のなかで日常はつづく 西方浩実

3月13日。「おはよう。昨夜は電気きた?」。最近、朝の挨拶とともに、電力事情の共有をするのがお約束になっている。とにかく毎日、街中のあちこちで停電しまくっているからだ。もともと水力発電が主力のヤンゴンでは、乾季(11月〜5月)になると水不足のため、停電が多い。だがそれにしても、今年は異常だ。たとえば先週のある日、私の自宅のあるエリアでは、正午に停電してから深夜まで、電気が供給されていたのはわずか2時間半だった。 
 
「クーデター後、ミンアウンフラインは市内バスを電気自動車にする、とか息巻いてたけど、家の電気さえついてないのに、どうやって実現するつもりだろうね」そんなことを言い合い、友人たちは苦笑する。 
 
軍はこの停電の理由をどう説明しているの?と聞くと、こんな答えが返ってきた。「ひとつは水不足。もうひとつは、PDF(国民防衛隊)が各地で電力関係の施設を攻撃しているからだ、って。でも、本当はそうじゃない。水不足は毎年のことだし、電力施設への攻撃だって、こんな大ダメージを与えられる規模じゃない」「軍は、国民の生活は自分たち次第だ、ということを誇示したいんだよ。この停電は、軍に従え、という無言のメッセージだ」 
 
そう考える人が多いことを裏付けるように、別の友人からもこんな言葉を聞いた。「停電はまぁ大変ではあるけど、過剰反応しないようにしてる。そうやって人々を困らせることが、軍の目的だからね」 
 
とはいえ、電気がないのは現実的な問題である。いちばん困るのは、水が使えなくなることだ。ミャンマーの一般的な住宅では、屋根の上などに水のタンクがあり、そこまで電動ポンプで水を汲み上げておかないと、水道水が出ない仕組みなのだ。同僚たちは、電気や水がないとどんなに大変か、という笑い話で盛り上がる。 
 
「停電すると、子どもがオンライン授業に参加できないの。電気が戻ってようやく授業に復帰できた!と思ったら、今度は先生の家が停電よ。この調子じゃカリキュラムが終わるまで、数年かかるわ」 
 
「タンクの水がいつなくなるかと思うと心配で、もうトイレ1回流すのも惜しいわけ。だから自分が用を足したら「トイレ行く人!」って子どもたちを呼んで、まとめて済ませて最後に一度だけ流すの。これが停電時代のニューノーマルってやつね」 
 
真面目にやってるんだから!と大笑いしながら話す、そんな時間に、やるせない日常への不満がゆるりと溶けていく。 
 
ヤンゴンでは、給水車が出動して水を配っているという。給水車なんて災害時にしか見たことないよ、と私が言うと「20年くらい前には、こういう給水車はよく出ていたよ」と、友人は笑う。20年前の電力事情に戻ったかと思うと、ため息もつきたくなるが、「昔もそうだったよね」と言えるたくましいメンタリティは、さすがミャンマー人だ。 
 
停電の影響は他にもある。頻発する停電のおかげでジェネレーターの稼働が増え、そこにウクライナ問題も重なり、石油代が跳ね上がったのだ。クーデター前は、1リットル650チャット(50円)程度だった車のガソリンは、先週は2100チャット(約135円)と、たった1年で3倍近くになった。ガソリン車を使っているタクシーの運転手は、商売上がったりだよ、と不満をこぼす。 
 
軍はさらに追い討ちをかけるように、12日〜18日までの1週間は、24時間停電になると発表した。耳を疑うような話に、えっ、嘘でしょ・・・と戸惑っていると、友人たちからは、「大丈夫、軍のハッタリだよ」と余裕の一言が返ってきた。「24時間停電、と言われていたのに12時間で済めば国民は、あぁ有難い、と軍政への評価を上げるだろう、と軍は思っているんだよ。笑っちゃうよね。でも軍はいつだってそうなんだ」(注)。 
 
地方での戦闘は、変わらず続いている。どこの町で国軍兵士が何人死んだ、とか、どこの村が焼かれた、などのニュースが、毎日オンライン上に流れてくる。特に北部のザガイン管区は軍のターゲットになっていて、多数の村が炎に巻かれ、子どもを含むふつうの村人たちが殺されたり、避難民となって逃げたりしている。しかもインターネットが広範囲で制限されており、完全な実態は誰にもわからないのだという。 
 
村に火をつけ、灰燼に帰す。それは許しがたい愚行だ。それなのに、こうしたニュースはもはや日常化してしまい、心のアンテナが麻痺状態に陥っている。 
 
ヤンゴンでは2月中旬頃から、街中をうろつく兵士や警察の人数が減った。最後に厳戒態勢が見られたのは1ヶ月前、2月12日のユニオンデー あたりだろうか。あの日、軍政はなんと90億チャット(約5億8千万円!)もの予算をかけて、ヤンゴンや首都ネピトーで華やかな式典を行った。 
 
市民たちは当然憤ったけれど、「これはただの嫌がらせだ」「反応せずに無視しよう」という結論に至った。かくして式典はつつがなく執り行われ、国営メディアにはご立派なパレードの様子が掲載された。 
 
そんな日常を、人々は暮らしている。頻発する停電に振り回されながら、あるいは軍の愚行に憤りながら、仕事をしたり買い物したり、たまには遊びに出かけたりして、1日1日を過ごしている。みんな、生きていかねばならないのだ。 
 
だけどヤンゴンで日々を過ごしていると、軍政打倒に命を捧げる若者や、軍に家を燃やされた避難民と、その軍政下で送られるヤンゴン生活とのギャップが、だんだん大きくなっていく感じがする。そして時おり不安が胸をよぎる。このまま状況が膠着して、軍事独裁が固定してしまうのではないかーー。 
 
同僚にそんな心情を吐露すると、彼は優しく笑いながら答えた。「わかるよ。僕は平和を望んでいるけど、この状況で平和になると、それはそれで落ち着かないんだ」。別の友人も、「ヤンゴンでも何か起きてくれた方が、まだ気持ちが楽だよ」とこぼした。 
 
2022年3月現在、ヤンゴンは私にとって、少なくとも「危険」な場所ではない。もちろんたまに爆発音を聞くことはあるし、警察が街のいたるところにバリケードを張っている。トラックの荷台に乗った兵士は、相変わらずこちらに銃口を向けている。だけど、昨年の今頃、すぐそこで抗議の叫びをあげるデモ隊に実弾が撃ち込まれていたことを思えば、日常生活における緊張感はほとんどないに等しい。 
 
それでも、時々自分たちが軍の監視下にあるのだと思い知らされる瞬間がある。 
例えば、メディアの取材だ。先月、ヤンゴンにやってきた日本のテレビ局に、ミャンマー人の知り合いを紹介してほしいと頼まれた。そこで、近所に住んでいる青年に声をかけてみることにした。 
 
彼は大学4年生だったが、クーデター後、大学教員のCDM(軍に対する不服従運動。公務員による全国的なストライキ)によって大学が閉鎖してしまい、未だに卒業できずにいる。つまりクーデターの間接的な被害者なのだ。 
 
ところが、取材の話を持ち出すと、彼の母親が顔色を変えた。「海外のテレビ局と会うなんて絶対にダメ。軍はメディアの動きを見張っているはずよ。取材なんて受けたら、息子は何をされるかわからないわ」 
 
彼女は真剣な顔で「あなたもメディアの人とは会わない方がいい、目をつけられてしまうから」と、私に何度も念を押した。そしてこわばった顔のまま「覚えておいて。軍はあなたが思うより残酷よ」と私の目をじっと見て言った。 
 
友人たちは、数ヶ月前から「NUG」「PDF」「アウンサンスーチー」などの単語をあまり口にしなくなった。どこで誰が聞いているかわからないからだ。私も自然と、そういう単語を口にするときは、周囲の様子を伺いながら声をひそめて話すようになった。 
 
そんな風に、人々はいつもどこか警戒しながら日々を暮らしている。「言いたいことも言えないなんて本当にやるせないよね」と憤る私を、しかし、同僚は笑い飛ばした。「はは、黙っているふりをしているけど、言えるところでは文句を言ってガス抜きしてるさ。僕たちは民主化前まで、ずっとそうやって暮らしてきた。しかも今はFacebookもある。軍はどうやったって僕らを黙らせることはできないんだ」。彼らのチャーミングな笑顔に、ミャンマーの人々のたくましさが見える。 
 
ミャンマーはどうなっていくんだろう・・・。悶々とした気持ちになっている私に、友人はこんな風に話した。「NUGが、国際社会からかなりの金額を集めているらしいの。避難民への食料や医療、人道支援に使うんだって。でも私は、軍との武装闘争に使う武器を買ってくれないかと期待しているの。もちろん公に『武器を買います』とは言えないだろうけど・・・でも軍を倒すにはどうしても必要だもの」 
 
別の友人は、こんな心情を話してくれた。「欧米は、ウクライナにはすぐ武器を支援したでしょう。ミャンマーだって、同じように不条理な目にあって、必死に抵抗している。でも国際社会は助けてくれない。がっかりしたよ。・・・でもまぁ、仕方ない。自分たちでやるしかないね」 
 
ヤンゴンの人々の暮らしを表面だけ眺めると、反軍政の炎は一見鎮まったかのように見える。だけど人々と話してみれば、彼らの決意は、以前と何ひとつ変わらない。いくら軍が支配を強めたように見えても、市民の心は決して支配されず、まっすぐ軍政打倒に向かっている。 
 
偽りの平和の下、人々の心の中で静かに燃え続ける、反軍政への熾火。彼らが民主主義を取り戻し、本当の平和が訪れる日を信じて、祈る。 
 
注・ミャンマーの祝日。1947年のこの日、イギリスの植民地からの独立を果たしたミャンマーで、少数民族の代表者らと、暫定政府代表のアウンサン将軍との間でパンロン協定が結ばれ、連邦国家として運営していくことに合意した。毎年、諸民族の代表を招待して記念式典が行われる。 


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