2023年06月30日12時08分掲載  無料記事
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コラム

NHK組織を変えた安倍方式 トップダウン戦略の衝撃 〜NHKにチャーチルなし〜

  インターネット上の議論を読んでいて、第二次安倍政権以後のNHKにおける報道の劣化を、放送局員の意識の劣化と簡単に結び付けている議論を何度か目にしました。誤りというわけではないとしても、単純化されすぎていると私には感じられます。そこで私の見立てを記したく思います。 
 
  まず放送局員の意識が変化した最大の理由は、NHK会長に右翼的思考あるいは安倍政権の見解をそのまま踏襲すると宣言した人物が選ばれトップに君臨したこと。そして、実質的な予算と人事を握るNHK経営委員長にも同質の財界人がトップに据えられたことです。NHKの機構自体は大きな変化がなかったとしても、かつての自民党総裁はこれほど露骨な政治的人選をしませんでした。内閣法制局長官に思想的に近い人物を据えて戦後の長い間の憲法解釈を一夜にして変えたように、トップに近しい人物を据えて、トップダウンで組織全体に影響力を及ぼしていく方式を安倍首相は取っていました。ここに安倍元首相の政治的天才があったと思います。天才という言葉が不適切なら、戦後政治で蓄積された良識を無視する力と言ってよいでしょう。自分が所属する組織の長に、そういう人物が据えられた場合、それに抵抗する難しさは組織で暮らした経験がある人なら理解できるでしょう。こういう風に組織のトップからじわじわと局員に不安を募らせ、抵抗したら左遷されるかもしれないと脅される中で、局員たちのイニシアティブは失われていったのではないかと推察します。 
 
  しかし、第二次安倍政権が始まる前に、NHKやその他のマスメディアはすでに何波かの大きなダメージを被っていたことを忘れてはいけないでしょう。1つは『日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷の記録』に関するNHKのドキュメンタリー番組が、安倍議員(当時)らの介入で内容が大きく改竄されてしまった件です。安倍首相が、その後メディアに介入することになる成功体験が、この番組への介入でした。この時、安倍議員はNHKの弱さを感知したはずなのです。すでに23年前にNHKの脆弱さは露呈していました。そして、この事件はじわじわと局員に「前例」として大きく頭に刷り込まれたはずです。ゲイリー・オールドマンがチャーチルを演じた『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(2017 『Darkest Hour』)を見た人なら、NHKにはヒトラーと手を結ぶ宥和政策を行ったチェンバレンみたいな幹部は何十人いても、頑として妥協を拒むチャーチルはいなかったと感じるに尽きます。局員たちは高給を取りながらも、騎士のように体を張って自由を守り通す気概はすでになかったのです。 
 
  もう1つは2004年から2005年にNHK内部の不正事件が報道された結果、受信料を払わない人が増えたことです。この頃から、NHKは皆様のNHKを意識し、視聴率を取ることが組織として何より重要だという風に変わっていきました。その結果、視聴率争いにあけくれる民放と同じ土俵に立つことになったのです。予算で圧倒的に有利なNHKが視聴率争いの土俵入りしたことはTVの世界でそれまであった暗黙のすみわけを壊してしまいました。この波は、政界では右派のNHK党の誕生へとつながっていきます。また、民放と同じレベルに立ったことで、かつてのNHK局員の倫理や誇りが大きく損なわれたと言えるでしょう。何よりもNHKの存在理由が曖昧になったのです。今日、国会で重要問題を議論している時に地上波で中継しない、ということも含めて、NHKの存在理由と伝えるものの優先度、さらにはいったい誰の視点に立っているかが大きな問題になっています。 
 
  さらに1つは2008年のリーマンショック以後、民放が制作資金の不足から金のかかる調査報道番組を削減したことです。民放が予算削減したことで、民放で稼げなくなった制作プロダクションはNHKに大量に企画書を出すようになったのです。これはある意味で、NHKが天下を取ったかのような状況でした。しかも、第二次安倍政権下で抜擢された経営委員長は、NHKの番組が視聴できるTV受信機を持つ家庭から受信料を強制的に徴収する制度を作り上げたのです。そこから力関係として、個々の制作者がNHKに対して立場が一段と弱くなり、NHKのトップダウンの方針にますます逆らい難くなったのではないかと推察しします。つまり、NHKの内部組織だけでなく、そこに参画する外部のプロダクションや制作者の末端にまで権力のプロセスは波及したのです。 
 
   NHKは十数段階にも及ぶ巨大な垂直の権力のピラミッドですから、トップに誰が据えられるかによって大きく変わり得ます。NHKを論じる場合は、個々の良心や思想の問題だけでなく、組織論が欠かせないと私は思います。局員のヒエラルキーだけでなく、派遣社員や制作プロダクションなど様々な階層の人々が1つの番組を作っているのです。制作プロダクションは放送しないと金が基本的に入ってきませんから、制作費を人質に取られているのです。たとえ実質的な制作者であっても経済的に包囲されて、追い詰められていれば編集をめぐって放送局の意向に疑問を抱いた場合であってもなかなか闘えなくなるものです。金の問題を軽視していいはずがありません。スタッフの中には家族に給料を持ち帰らなくてはならないものがいるのです。今時、仕事を失ったらどれほど苦しい状態に追い込まれるか、想像してみるべきです。1990年代以後の長期不況に重ねて、リーマンショック以後の金融恐慌に由来する経済停滞が追い打ちをかけたのです。昭和のファシズムが進行したのも1929年に起きた大恐慌以後でした。 
 
  それから、放送局や制作プロダクションも世代によって感性や意識が異なりますが、第二次安倍政権時代と同調したのは、私の想像ではいわゆる就職氷河期世代ではないかと見ています。というのは、この世代は就職するのが先行世代に比べて、一段と厳しかったがゆえに、企業・組織の上司やクライアントの意見・主張・要求についてはそれが何であれ、従うというエートスを持つ人が比較的多いのではないでしょうか。これは私の見立てです。間違っているかもしれません。第二次安倍政権の時代に、この世代が制作編成システムの中核についたことが、翼賛的な変化を起こす起爆剤となった可能性があると思っています。ここは議論の余地があるでしょう。この変化は放送局で起きたのと同時に、様々なプロダクションにおいても進行したはずです。しかし、もし仮にそうであるなら、そのような若者たちに不況のつけを負わせる時代を放置してしまった先行世代の私たちに責任があるのです。 
 
  こうしたリーマンショック後の不況を背景に、放送業界における選択と集中が行われ(すなわち、放送局は忠実なスタッフと会社だけを囲い込み)、異なる思想を持つ人間たちは排除されていったのです。いずれにしても、多角的に検討する必要のあるテーマだと私は思います。日本政治のファッショ化はNHKとマスメディアが触媒となって引き起こしたと言っても過言ではありません。NHKの局内には現在でも優れた制作人はたくさんいます。ですが、全体としてなぜ政府広報のようになってしまったか、これは様々な角度から検討を要するテーマだと私は思います。 


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