2023年08月22日16時15分掲載  無料記事
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アジア

新生カンボジア30周年(1)フンセン首相の義眼手術−32年前の日本「独自外交」 宇崎真

 8月22日、世界最長38年間首相の座にあったカンボジアのフンセンが辞任し、長男のフンマニットに禅譲する。この機にあたり、半世紀余カンボジアをみてきた者として体験、エピソードを交え論じてみようと思う。その一弾として32年前の日本外務省の極秘プロジェクトから始めることにしたい。 
 
 1990年湾岸戦争が起きる前だった。外務省南東アジア課の篠原勝弘さん(のちのカンボジア全権大使)が筆者に会いたいと言ってきた。当時私の会社(NDN日本電波ニュース社)の先輩でカンボジア駐在記者経験のある鈴木利一氏からの紹介だった。 
 要件は「日本外務省はインドシナ諸国との関係改善を図ろうとしている。ついては何かいい案はないだろうか」という相談であった。NDNは1965年にホーチミン主席の即断でハノイ支局を開設し、以来ベトナム戦争の取材を展開、カンボジアにもシアヌーク時代に支局を開き、ラオスのパテトラオ解放区の取材もし、インドシナ三国の取材で顕著な実績を残していた。筆者自身も米軍B52爆撃下を含めハノイに二年余駐在したし、ベトナム、ラオス、カンボジアの最高首脳の独占インタビューにも取材班として加わっていた。だから外務省からの接触はある意味、時代の流れの中で当然の成り行きだろうなと感じた。 
 「それならいい案があります。目玉外交ですよ」「えッそれ、なんですかそれ」外交官がいきなり目玉外交と聞いたら興味津々となって当然である。 
 筆者はこう説明した。 
 インドシナ三国の指導者はみな眼の問題を抱えています。ベトナムのファンバンドンは32年間首相を務め現在は引退していますが国民から深く親しまれている指導者です。が、歩くのにも付き添いが必要です。「ドイモイ政策の父」グエンバンリン書記長も眼が相当弱っている。ラオスの「革命の父」カイソン首相もそうです。三名の指導者はテレビインタビューの際外務省幹部や秘書から「なるべく撮影用ライトを控えめにしてほしい」という注文が必ず入った。直接ライトが当たると眩しそうにして涙を拭く姿があった。それにカンボジアのフンセン首相は戦闘中の怪我で左眼は義眼ですがあまり具合がよくなくて困っているのです。世界で最も若い外務大臣として登場した時(1979)から義眼の苦労をきいていました。インドシナの指導者が共通して抱えている眼の問題を日本の医学で解決してあげる、これが私のいう目玉外交です。 
 温厚な篠原さんの顔が引き締まった。が、その後外務省からは何も連絡はなかった。 
 
 あとで知ったのだが、外務省は密かに「大胆なプロジェクト」を立ち上げた。外交関係のないカンボジア人民共和国の首相を極秘に日本に招待し、旧ソ連のガラス義眼を日本製のプラスチック義眼に交換するという手術を実施したのである。その際渡辺美智雄外相の「ポケットマネー」で費用を負担し、順天堂病院に「山内」という偽名で入院させ三泊四日の手術旅行を提供という方法をつかったというのだ。 
 これが筆者の元に集まってきた情報の骨子であるが、まず外相の「ポケットマネー」ということはあり得ない。未承認国の政権首脳を極秘に招待ということは外相個人で出来る訳もなく政府トップの了解があり「機密費」から費用を捻出したにちがいない。そのプランは当時日本政府が支援していた三派連合政権(シアヌーク派、ソンサン派、ポルポト派)には絶対情報が漏れない措置をとったのだろう。筆者の読むところ、丁度90年には外務省からこれまた秘密裏に渡辺亨氏(元サイゴンの日本大使館員で夫人はカンボジア人)が三回プノンペン入りして当時の人民共和国政権幹部らと懇談している(2022今川大使を偲ぶ会での谷野作太郎氏外務省の元アジア局長等歴任―の発言)。 
 だから様々なルートで実質カンボジア大部分を支配統治しているヘンサムリン政権との接触を図っていたのは間違いない。今川幸雄元カンボジア大使は同国の歴史、文化にも造詣が深くクメール語、英仏語をあやつってシアヌーク殿下、フンセン首相とも親交を築く努力をつづけていた。こうした両国関係改善、カンボジア和平、国家再生への外務省アジア局を中心とする日本政府の系統的な取組みがあったのは事実である。だが、そのなかでもこの「目玉外交」が隘路を打開するエポックメーキングになったことも否定できないだろう。 
 そしてより重要な問題は、それ以降30年余を経過してカンボジアが国際社会の期待に反してフンセン独裁体制が強化されてきてしまい、それに対して「日本の独自外交」は殆ど何の歯止めもできないでいるということである。 
 
 「日本の独自外交のモデル」は実際にはフンセン独裁政権、「フンセン王朝」をつくってしまっている。その明確な分岐点は1997年7月のフンセンによる「クーデター」であったと筆者は考える。 
 国連統治下の選挙(1993年5月)でカンボジア人民党は第二党となり、第一党は王党派のフンシンペックからラナリット殿下が第一首相、フンセンは第二首相となった。そのひと月後筆者はカンボジア商工会議所会長で政治経済各方面に絶大な影響力をもつテンブンマーにインタビューして政局、彼自身の影響力について訊いた。彼は「豊富な財の源泉は麻薬ビジネス」と記事にしたファーイースタンエコノミック誌の記者を国外追放させ、また米国、タイ国からも「犯罪容疑者」としてブラックリストに載っていた人物である。突端でその記事への感想を質問したものだから彼は怒り、興奮して半ばわめくがごとくしゃべり出した。 
 そのなかでフンセンとラナリットに関する箇所は極めて興味深いものであった。 
「オレは首相就任祝いでラナリットには飛行機を、そしてフンセンには防弾装備の高級車を贈呈した。ラナリットからは「お返し」が来なかった。フンセンはきちんとお返しをしてきた。だからオレはそれ以降フンセンを応援することにした。フンセンに「暗殺計画」があるからと最初に教えたのもオレだ(1994)だがな、あいつはまだ基盤が盤石ではない。党内ではソーケン内相の方が人気がある。敵も多い。だからもっと援助して強固な立場にして 
やろうと思っている」 
 97年のクーデター(日本政府は、武力衝突でラナリット第一首相が追放された、と表現する)の際フンセンが使った武力は私兵組織、国軍とは別の直属部隊であった。その前年に退官したが外務省の判断、方針に多大な影響をもっていた今川氏はこう述べた。 
「もしこの時期に、誰も何もしなければ、ポルポト派が息を吹き返した可能性もあり、そうなればカンボジアの平和と安定は根底から覆されたであろうと思われるので、この武力衝突事件は止むを得ない必要悪であった」 
 この「必要悪論」がその後のフンセン独裁強化プロセスへの限りない「容認」をつくりだしているといえないだろうか。 
 フンセン側近の言葉はそれを如実に物語っている。「日本は怖くない。いくらやってもついてきてくれる」。傍からみれば、これほどおかしなことはない。フンセンと禅譲の息子フンマニットが中国寄りになればなるほど、日本からの「援助」増加も期待できるというわけだ。「日本の独自外交」のジレンマを日本政府はどう説明するのだろう。  (つづく) 


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