2023年08月29日12時12分掲載
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アジア
新生カンボジア30周年(2)「カンボジアは地雷だらけ」は本当だったのか 「自衛隊派兵」のための「謀略」 宇崎真
1992年 9月 日本政府は自衛隊のカンボジア派兵をおこなった。「カンボジアは地雷だらけ、人道援助として自衛隊、文民警察を派遣する」と説明し、国民の反対は盛り上がらず初の自衛隊海外派兵を果たした。国会審議の場でも「カンボジアには400万個の地雷」という根拠のない数字が独り歩きした。
結論から先に言えば、世界の耳目を集めた「カンボジア地雷だらけ」は大ウソであった。大きな国際紛争に必ず国際謀略が存在するように(湾岸戦争の油にまみれた水鳥、米軍のイラク侵攻の理由となった「大型殺人兵器」など)この膨大な地雷原説もつくりあげられた、ウソ、つまり謀略であった。
事の起こりは「400万の地雷」から始まった。カンボジア全土が地雷に覆われており、その撤去はカンボジア自力ではとても無理だ。国際社会の援助が必要である。日本も国をあげて支援したい。武力を携帯しない自衛隊と警察を派遣する。これが日本政府の表明の骨子である。国内ではポルポトによる大量殺戮、難民の大群、地雷で足を失った子供たちのイメージが強烈に目に焼き付いているために、「災害地救援のため自衛隊を送るのならいい」という世論は政府の断行を許した。
派遣された自衛隊施設部隊の隊員らは、道路建設のためとはいえどこで地雷に触れるかわからない危険を感じ慎重にブルドーザーを進めた。ところが予想に反して、どこまで進めても地雷に当たらない。隊員のなかに安堵とともに、あの「地雷だらけ」は嘘なのではないか、との声が自然と上がってきた。その声を自衛隊と政府は黙らせ外部に漏れないよう厳重管理した。一部の識者やジャーナリストもその現実を知っていたが、マスメディア総出の「地雷原は至る所にあり、内戦の戦場は拡大、近郊に迫っている」との情報の嵐に埋没してしまった。
当時首都プノンペンに派遣された日本の報道陣は300名を超えたとみられる。各テレビ局の番組の看板キャスターもこぞって加わった。だが、全てのマスコミは上部からの「安全対策指示」で「地雷原」には近づかない取材スタイルをとった。小さな散発的軍事衝突を「内戦拡大か」とレポートし、いかにカンボジアでの取材活動は危険であるかを印象付ける報道がまかり通った。
テレビだと、安全地帯にいながら「ここは危険です。ご覧下さい、背後には地雷原を示すドクロマークの立て札が並んでいます」とレポートし、それに地雷被害者の声を紹介する。デスクは「それ以上は危ないから引き返せ」と指示する。
この時期現地の今川大使はじめ自衛隊派遣幹部らも「日本のマスコミ報道は針小棒大だ」と批判していた。(誰も書かないPKOの正体―本澤二郎著)
派遣された日本の報道陣の大多数が「危険」を強調しニュース価値を高めるセールスマン」と化していたのだ。
筆者はカンボジア西北部の「最も大量の地雷敷設地帯」に何度も足を運んだ。バッタンバン州の北部の州バンテアイミエンチャイ、オドールミエンチャイはタイ国境に接し1979年以来日本政府が支援してきた三派連合政権(シアヌーク、ソンサン、ポルポトの三派)の活動地域、とりわけポルポト派(クメールルージュ)の活動が盛んな地域である。
確かに町と町、村と村を結ぶ道路の両脇の森林、平野には見渡す限り「ドクロの立て札」が林立している。実に奇妙な光景である、どう考えても不自然なのである。何故なら、プノンペン中央政権は町と町、国連軍駐屯地間を結ぶ線の支配しかできていない。その道路の両脇はゲリラ勢力の活動地域である。中央政権側に地雷設置の余裕はない。ゲリラ側にとっても自らの支配地域に地雷を敷設する必要性はない。そこで繰り返し住民の間に入り取材していった。現地の村人も村長も顔なじみになると生の声が出てくる。
「国連の司令官が村びとを集めて、こう言った。あなた方の国は地雷だらけで大変だ。我々の力だけではとても手に負えない。あなた方の協力が必要だ。地雷を見つけたら報告して下さい、そして地雷注意の立て札をそこに立ててください。一本に付き50バーツお渡しします」(タイ国境地帯の北西部は断然タイバーツが有用なのだ)
「でね、へえー、一本50バーツだって、いい話だとなってね。だけど最初は二本とか三本分だけもらって、そしたらみんながやり出して、50個みつけた、100個みつけたって言ってはその立て札をどんどん所構わず突き立てていったのよ」
「じゃあ、あれは全部ウソなのね」「決まっているじゃない、どうして立て札の直ぐそばにまた突き刺すことできるの」「あんなに密集した地雷なんて、植えるのも見つけるのも出来るわけないじゃないの」村の主婦たちは子供をあやしながらあっけらかんと「証言」した。
何度も通ううちに確かに「地雷原」で子供が遊び、牛が草を食んでいる光景も目撃する。1992-93年の乾季(11-4月)のことである。
そもそも地雷の使用目的、用途、カンボジア内戦の歴史経過を考えればすぐに判ることがある。
�|詫襪良濱澆鰐榲�が明確にあり、敵を追い詰めその一定地域を地雷で封鎖する。反撃を阻止するか兵糧攻めにするケースである。あるいは退避し敵がそれ以上攻めてこられないように地雷原を敷設する。たてこもりのケースである。このどちらかが主要な使用目的となる。だから、カンボジア内戦のように戦線が移動し複雑に入りくむ流動的な戦場ではかえって地雷は使いにくいのである。
��大型の対戦車地雷は地上に露出させず地面下に埋め、戦車の重量を感受したときに爆発させる。当然戦車が通り得るルートが対象になり森林地帯に敷設する意味がない。
�L餡陲覆里和仗傭詫襪任△襦C詫襪曚匹△覦嫐H鷽容仕�な兵器はないともいえる。即死させるよりも身体障害者を作り出し、そのひとの看病、介護に多大な労力と費用をつかわせ、恐怖や厭世を強いる方がより効果大と判断して製造、使用する。だから、小型化し雑草の陰に設置し、感受したら足の膝下、あるいは踵部分を吹き飛ばす程度の地雷が「最良」とされる。まさに「悪魔の兵器」である。
だが、この「悪魔の小型地雷」も味方の活動地域に設置することは基本的にない。更にこの小型地雷はカンボジアの雨季の氾濫、洪水に耐えられない。流され滞留し、日が経てば起爆装置部分は接触不良を起こす。
これらの地雷知識は戦闘員らにとっては常識である。部外者にとっても少し頭をひねれば分かるはずである。実際筆者はポルポト軍支配区を取材したとき、対戦車用の地雷敷設現場に遭遇しその作戦を間近に見ることができた。かれらも常に慎重に計画的に敷設作業をしその記録、地図を作製していた。
翻って日本のプレスの「地雷」への非科学的な対応をみてきた者としては目を覆うばかりのだらしなさと失望を感じるのである。
93年5月文民警察の高田警部補(当時)がカンボジア西北部で殺害された。プノンペンに派遣された300人の日本報道陣は事件直後ただの一人も現場に行かなかった。何人かのフリージャーナリストは向かったがUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の兵士らに阻止されたという。「地雷だらけ」のウソを知って土地勘もあった筆者は現場に向かった。
(つづく)
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