2023年09月23日01時43分掲載  無料記事
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コラム

「上か下か」は政治言説としては曖昧である(と私は思う)

  「右か左かではなくて、大切なのは上か下かです」こうした言説を耳にすると、これは政治家の言説であっても、ジャーナリズムがこれに追随することはできないだろうと私は思う。というのは、「上か下か」という言葉は、ニュアンスとしては伝わって来るし、気分としてもわかるけれど、明快さを欠く。何をもって「上」で、何をもって「下」か、ということだ。そこが曖昧で、受け取る人の主観次第であれば、このメッセージは結果的にいつかは曖昧さの結果責任を伴うことになるだろう。特に、もしその言説をアピールする野党が政権与党の座をつかんだ時、上と下はどうなるのか、ということでもあるし、最終的に政策を実行する時、具体的に何をやるか、というところで、歴史的な意味での右か左か、という解釈をされてしまうだろうからだ。この右か左か、という考え方は、基本的には世界のジャーナリズムで通用している考え方なのである。 
 
  私なりに政治上の右左をまとめると、以下の2つの軸がある。(そして、それらの中間は中道である) 
 
1)富の再配分を強く行うか、弱く行うか。 
  (再配分の強い方向が左であり、弱い方向が右である) 
 
2)人権の向上を進めるか、進めないか。 
  (進める方向が左であり、進めないのが右である) 
 
  経済政策面で見ると、項目1であり、人権の進歩の面で見ると項目2である。明白である。これを上か下か、と言い換えたい理由は、過去の左派政党や右派政党の枠にはまりたくない、という意識があるからだろう。そこは理解できるのだが、しかし、言葉をかえたところで、実態は変わらないのである。むしろ、上か下かは革命的言説であり、下が上をひっくり返す、というニュアンスがある。しかし、ひっくり返した後、その先のベクトルがなくなってしまう。左翼独裁政権が生まれるのは、こういう理由だろう。ひっくり返して自分たちが上になった段階で、歴史は終わる、と考えるのだ。これはフランシス・フクヤマの市場主義サイドからの「歴史の終わり」言説と何ら変わらない政治イデオロギーではなかろうか。たとえ相手を批判したとしても、相手の陣営から学ぶべき点は多いのだ。失敗した革命の歴史を学べばそれがわかるだろう。 
 
  それともう1つ、よく保守という言葉をゆっくり進歩していく立場でとらえる言説があるが、そういう場合はむしろ、progressive(プログレッシブ:漸進的)という言葉がある。これは進歩的であっても急激にそれを目指す立場をラディカルと呼び、それとは逆にゆっくりと進化していく立場をプログレッシブと呼ぶ。戦後民主主義を守りたい人が自身を「保守」と称するのをよく見かけるが、そこに僕は矛盾を感じるのだ。前にも書いたが、日本国憲法は敗戦を契機に、そして占領軍による民主化という契機に一夜にして政治体制を激変させた改革であり、ラディカルな改革にほからない。世界史的にもこれくらい保守という概念と対照的な劇的変化はないのである。したがってもし本当に英国人が使うような意味合いの「保守」という立場であれば、そうしたラディカルな改革を否定する立場ではないのだろうか。 
 
  米国のバーニー・サンダースは左派であり、フランスのジャン=リュク・メランションも左派である。世界で政治を論じる時、その共通項や差異を比較して論じる。日本だけガラパゴスにいることはできないのだ。そして、上か下か、という言葉には歴史性が欠けているように私は思う。右と左という概念が生まれたのはフランス革命の際だが、その時は先述の1と2は合体していた。第一身分の聖職者と第二身分の貴族が特権階級であり、第三身分がその他だった。そして第三身分が「下」であり、「上」をひっくり返した。この革命においては身分制社会の打破による人権の向上と、特権階級の廃止による富の再分配が行われたのだ。だからこそ、1と2は合体していた。しかし、歴史はそこで終わらなかった。革命が進行していくと、革命家たちの中で、再配分の程度をめぐって考え方が分かれ、再配分は少なくてよいという立場が、次の段階の「右」となって分かれていった。こんな風に右と左は時代とともに変化していった。そこで1と2という2つの項目を設定した。細かく見れば中央集権か地方分権かなどもう少し複雑だが、単純化すればそうである。 
  左という言葉には、身分制社会の打破のために戦い死んでいったフランスの無数の人々や工場労働の労働条件の改正のために闘った英国の人々、さらには女性の選挙権の獲得を目指して投獄されたり、世間のバッシングを受けたりしていた人々など、無数の人々の歴史が込められているのだ。今日、日本人が生まれながらに享受している権利というものも、その人々の闘いのおかげだということを忘れないようにしたい。私自身は学生時代からいわゆるノンポリで生きてきて、政治に覚醒したのはようやく第二次安倍政権が誕生してからだった。普段自分は左翼かどうかなどと意識することもない。しかし、自分の意識とか気分とは別に、政治学あるいは政治の概念として、左と右は有効であるし、先述の通り、これまで人権のために闘ってきた人々の過去の蓄積を「今、ここ」という現在だけの視点で無視してはならないと思う。 
 
  政党が運動として「上か下か」というのは自由である。しかし、それを報道する人は、それにつられて曖昧さに埋没してはならないのではないかと思う。そして、その作業はその政党の未来に対しても決して、敵対するものではないと私は思う。 
 
 
 
 
■ド二・ディドロ著 「絵画について」   マニエールという悪習 
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■ド二・ディドロ作 「ラモーの甥」  格差社会に生きる太鼓持ちの哲学を辛辣に描く戯曲 
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■生誕300周年 今も絶大な人気があるドニ・ディドロ 〜啓蒙思想家にして、風刺漫談作家〜 
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■米議会でもTPP反対論強まる その2 
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