2023年10月10日11時29分掲載  無料記事
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『オットーという男』 トム・ハンクスが嫌な老人役を演じるがなぜか味わい深い映画

  仕事を定年退職し、愛妻を半年前に失って、頑迷な性格の老人と思われ(実際にそうでもある)隣人たちからも嫌われ、すっかり生きる喜びがなくなってしまった男が命を断とうとする・・・そんな爺さんの役をトム・ハンクスが演じている。とても身につまされる映画の立ち上がりだ。ハンクスが学生役でデビューした80年代の頃、僕も学生だったので、時が経つのはあっと言う間だと思わされる。そこへ、この映画ではラテンアメリカ系の若い家族が近所に引っ越してきて、何かといろんなことで手助けを求められるうちに、自殺のタイミングを逸し・・・・この映画は彼の心の転機、再生を描いている。映画で描かれるのはローカルタウンの半径100メートル以内の人間模様であり、近隣の人々との関係である。30年前、40年前にあった暖かい交流は失われて久しく、寒々とした冬の朝から物語は始まる。 
 
  この映画は大ヒットしたスウェーデン映画をトム・ハンクス自らプロデュースして製作したものだが、リメイクと感じさせない程、現代アメリカの社会を巧みに描いていると感じさせられた。アメリカ版へのアダプテーションを行ったシナリオ作家の腕ではないかと想像される。この映画が制作されたのは2022年ということで、おそらく撮影当時、ロシア軍のウクライナへの侵攻は制作陣、スタッフともども知っていたのではないかと想像される。あるいは同時進行だったのだろうか。 
 
  そんなことを考えたのは、ハンクスが演じる老人の亡くなった愛する妻がロシア系と思われるからだ。名前はソーニャで、出会いは彼女が駅のホームで落とした本を学生時代のハンクスが拾って届けてやったことだ。この小説はミハイル・ブルガーコフ作『巨匠とマルガリータ』で、ソーニャは「結末を知らずに終わるところだったわ」と彼にお礼を言う。少なくとも私が個人的に知っているロシア人の女性たちは皆、ブルガーコフのこの小説が大好きだ。それだけでなく、読むように勧められもする。この小説は、この映画の底流に流れており、結末はこの小説とよく似ている。しかも、小説で登場する(チェス好きの)黒猫まで出てくるのだ。そして、ハンクスが演じる男にはこの小説の世界や味わいがおそらく理解できていない。しかし、読書の趣味は異なっていても、彼はこの妻を彼女が亡くなった後も深く愛している。あるいは彼が自殺しようとするのは、この小説を読んでいたためだろうか。いろんな想像が可能だ。いずれにしても男は亡き妻の思い出に浸っており、彼女の記憶が今もことあるごとに心の中では現実のように脳裏に浮かんでは消える。 
 
  今、ロシアでは戦争に参加したくなくとも徴兵される人々が出てくるだろうが、アメリカに住んでいるロシア系の人々にとっても居心地のよくない時代ではなかろうか。ロシア人に限らず、外国でマイノリティとして生きる人々は常に本国で起きていることに翻弄されてしまう。日系人たちもそうだった。日本に生きているマイノリティの人々も同じだろう。脚本家の脚色次第ではロシア系でない女性にできたかもしれないし、偶然なのかもしれないが、しかし、この映画ではそのエピソードが今の時代を照射している気がした。オットーという名前もドイツ人っぽいのだ。そして自動車のメカに強く、几帳面な性格を割り振られている。彼は妻の好むタイプの小説は好きになれないが、二人は喫茶店の甘いケーキ類が好きだ。この映画は見る人によって様々な見方があると思われるが、とても味わい深い映画になっている。冒頭にも少し触れたが、ラテンアメリカ系の人々はオットーとは別の文化を持っている。「あなたはすべて自分で完璧にできると思っている。でもそうじゃない。人間は一人では生きられない。そのことを理解しなさい」とオットーに語るコロンビアから来た女性の言葉は力強い。人種が多彩であるということの持つ強さ、力がしっかりと伝わってくる映画である。 


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