2025年08月12日20時54分掲載  無料記事
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国際

戦後80年の前、何があったのか フィリピン・ネグロス島の日本兵

 東京新聞8月11日号がフィリピン・ネグロス島における旧日本軍兵士と戦闘について書いている(「20代記者が受け継ぐ戦争」上)。25歳の若手記者が物語を紡ぐ。兵士は米軍の機銃掃射で逃げ惑い、次々と死んでいった。サトウキビ畑に隠れ、山岳地帯に逃れて生き延び、生還した。その人の兄はフィリピン・パナイ島で戦死した。(大野和興) 
 
 戦争にはいくつもの顔がある。ネグロス島には、もうひとつの戦争があった。1990年代、ネグロスに通いつめた時期がある。ネグロスは150年間のスペインによる植民地化でサトウキビ単作の島になっている。島内の耕せる土地は見渡す限りサトウキビ畑だ。その畑は極小数の地主に握られ、土地持ち農民はいない。耕すのは地主に雇われた農業労働者。何重何層もの差別と収奪の積み重なりの底辺で生きてきた。 
 
 ネグロス島はマニラがあるルソン島とミンダナオ島の間にある群島地域ビサヤの中にある。ネグロス島はその島のひとつで四国の三分の二ほどの大きさの島だ。日本軍はこの島にもやってきた。アジア太平洋戦争の末期、米軍に追われて山岳地帯に逃げ込み、たくさんの兵士が飢えと戦闘で死んだ。 
 
 現地では、日本の市民団体ネグロスキャンペーン委員会が「農業労働者から農民へ」を掲げて、砂糖労働者の組合と組んで土地解放と農民づくりを運動し、その中から(株)オルター・トレード・ジャパンが生まれて民衆交易の仕組みと事業を展開していた。 
 
 こうした運動に巻き込まれたぼくは、フリーランスの記者で飯を食いながら、多い時には年に二度も三度もネグロス通いを続けていた。 
 90年代のある年の8月、たまたまネグロスにいたぼくは大岡昇平の「野火」を思い出し、同行の大橋成子さんにネグロスでの日本軍について尋ねた。成子さんはアジア太平洋資料センター(PARC)の事務局長をしていたのだが、やっぱり現場がいいと、当時民衆交易の第一線のネグロスで活動していた。 
 
 成子さんはすぐ反応し、山の村に行き、当時の話を聞こうと言い出した。砂糖労働組合のオルグの青年に案内を頼み、翌早朝出発、日本軍が入り込んだ山岳地帯をめざした。行けるところまで車で行き、あとは徒歩で急傾斜の山道を歩いた。 
 
 当時、ネグロスの山の村には電話もないので、すべてぶっつけ本番。村について趣旨を話し、できるだけお年寄りの話を聞きたいと頼んだ。 
 進軍してきた日本軍に大事な食料を盗られたこと、などの話を聞いているうちに、老齢の女性がいかにも思い切ったという様子で話し始めた。日本の兵隊が目の前にいた赤ん坊を上に放り投げ銃剣で突き刺した。息を飲んだ成子さんが、実際に見たのか、と聞いた。女性は頷いた。 
 
 打ちひしがれたぼくたちは礼をいって村を後にした。もうひとつ行ってみようと成子さんがいう。山を下り、谷の向こうの別の村をめざして山を登った。村に入り、同じように挨拶して同じように話を聞いた。ここでも銃剣と赤ん坊の話を聞かされた。 
 
 食い物を現地調達しながら死の逃避行を続ける日本軍隊の行動は山を越え谷を越え、村から村へと伝わった。日本兵はみんな飢えていた。「野火」は猿を食らうという表現で人肉食があったことを示唆している。兵士の誰かが赤ん坊を放り投げて銃剣で殺した。それはたちまち村から村へと伝わった。 
 兵士たちがどの村でもそんなことをしたとは信じたくないが、そうした行為が確かにあったのだ。だからあれから50年経つ1990代のネグロスの山の村で、まるで昨日の事のように語り継がれている。この先も、何代も何代も世代を超えて語り継がれるのだろうと覚悟しながら山を下りた。 
 
【写真は筆者) 


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