2025年08月23日17時22分掲載
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反戦・平和
戦後80年の日本・「新しい戦前」か「すでに戦中か」(下) 「9条は守るより実践すべきだ」
日本が平和主義を捨て軍事大国化をめざそうとする歴史的岐路に立つ現在、私たち一人ひとりが旧い戦前のときのように時代の空気にのみこまれず、賢明な選択をするためには何が可能だろうか。対テロ戦争への「国際貢献」に警鐘を鳴らした二人の日本人の声にあらためて耳を傾けてみたい。自民党の重鎮、後藤田正晴とNGO「ペシャワール会」のアフガニスタン現地代表の医師、中村哲である。(永井浩)
小泉政権による2004年のイラク戦争への自衛隊派遣には、自民党内でも異を唱えた政治家がいた。中曽根内閣の官房長官、宮澤内閣の副首相などの要職を歴任した後藤田正晴である。彼は米軍のイラク侵攻を「大義の疑わしい、形を変えた植民地主義」として、自衛隊のイラク派兵に批判的な見解を表明した。(2004年2月7日、日本経済新聞)
後藤田は、フセイン政権下でイラク国民が圧政を受けたのは事実だろうと認めながらも、「それをよその国が軍事力で解放するというのは、新しい帝国主義であって、国連を使わずに一国を解放するなどということがあるのか、といいたい」と言い切る。そんな戦いに参加するために日米安保を軽々しく作動させるべきではない、とも言う。
その上で、「最近の日本の傾向は危ないな。(戦争にのめり込んでいった)昭和5、6年ごろの状況に似てきた」と憂慮し、自衛隊のイラク派兵にともなう憲法改正論に警鐘を鳴らす。
昭和6年(1931年)には満州事変が起き、十五年戦争の幕開けとなった。日本は翌1932年3月には傀儡政権の満州国を樹立、さらに1937年7月7日の盧溝橋事件をへて日中戦争(「支那事変」)へと突入し、ついに1941年12月8日、日本の中国侵略に反対する米英蘭との戦争を開始する。
彼はつづけてこう述べている。「つくろうと思えば仮想敵国は次から次へとできるが、それはとるべき態度ではない。過去を振り返ってみても、戦というものはいったん始めると、行き着くところまで行かないと収まらないんだね」
後藤田はこうも言っている。「国の安全を全部米国任せだから、今のように属国になってしまったのだ」(2004年9月21日朝日新聞)。
イラクへの自衛隊派兵に先立つ2001年に、アフガンへの米国の空爆作戦に自衛隊を後方支援させるために小泉政権がテロ対策特別措置法を準備したとき、中村哲は衆院の審議で参考人に招かれた。彼はアフガンの現状を説明し、「空爆はテロと同レベルの報復行為。自衛隊派遣は有害無益」と断じ、自衛隊派遣より飢餓救済を訴えた。
中村は1984年からアフガニスタンとパキスタンの国境辺境地を中心に、医療や灌漑活動に取り組んでいるNGO「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表である。2000年からは旱魃が拡大しはじめたアフガンで、医療より人びとの健康の基盤となる水の確保と農業育成が最優先課題であると決意、砂漠化したクナール川流域の土地に緑と農業をよみがえらせる「緑の大地計画」に乗り出す。
その矢先に、9・11の同時多発テロへの報復として米国が対テロ戦争を開始した。国際テロ組織アルカイダを匿うアフガンのイスラム原理主義政権タリバンを打倒し、自由で平和な国造りをめざすためとされ、小泉政権は米軍の後方支援に自衛隊のインド洋派遣を可能にする同法の成立を急いだ。
中村によれば、アフガン国民は親日的である。ヒロシマ・ナガサキの廃墟から立ち上がり、平和的に経済大国となった国への尊敬の念がある。その親日感情がペシャワール会の活動を支えてきた。日本人だから命拾いしたことも何度かある。
親日的という点では、イラクをはじめとするアラブ世界の人びとも同じである。彼らも、ヒロシマ・ナガサキの廃墟のなかから平和的に経済大国として発展した日本に尊敬の念を抱いていた。こうした親日感情に支えられて、日本の企業はアラブ各国での経済発展に寄与してきた。またこの地域を植民地化した欧州諸国や、戦後、石油利権やパレスチナ問題で軍事介入を深めた米国とは異なり、日本は歴史的にアラブ世界で手を汚していない唯一の先進国とみられていた。
ところがその日本が、米侵略軍の傭兵として日本軍を送り込んできたことへの失望と怒りがどのような形で噴出したかはすでに見た。
中村はペシャワール会の活動を憲法9条の実践と位置づけていた。彼は講演会やメディアをつうじて、そのことを繰り返し強調してきた。
「敵をつくらず、平和的な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じてきた。憲法9条は日本で暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で僕たちを守ってくれているんです」。そのようなアフガンに「ちっぽけな国益をカサに軍服を着た自衛隊が表れたら、住民の敵意を買い」、ペシャワール会の活動も難しくなるであろう。
「100万発の銃弾より、1本の用水路の方がはるかに治安回復に役立つ」という信念のもと、緑の大地計画は米軍の空爆下でもつづけられた。中村、現地のアフガン人、日本人ワーカーが力を合わせ、ペシャワール会の理念に共鳴する日本の多くの市民が物心両面で活動を支えた。クナール川流域の荒野に次々に用水路と灌漑施設、農地がひろがり、人びとの声がもどってきた。
だが戦後日本を見つめる中村の目はきびしい。
戦後日本は「平和国家」と言われ、国民もそう信じていた。「しかし」と中村は問う。「米国の武力で支えられた『非戦争状態』が、本当に『平和』であったとはいえないのだ」。またそのような平和の下で達成された日本開闢以来の物質的豊かさに血の匂いが潜んでいることを見逃してはならない。「朝鮮戦争を想起せずとも、日本経済は他国の戦争で成長し、我々を成金に押し上げた」。
中村は対テロ戦争への「国際貢献」に「それは間違いである」との声を上げないマスメディアと国民にも失望感を隠さない。
「米軍の空爆を『やむを得ない』と支持したのは、他ならぬ大多数の日本国民であった。戦争行為に反対することさえ、『政治的に偏っている』と取られ、脅迫まがいの『忠告』があったのは忘れがたい。以後私は、日本人であることの誇りを失ってしまった。『何のカンのと言ったって、米国を怒らせては都合が悪い』というのが共通した国民の合意であるようであった。だが、人として失ってはならぬ誇りというものがある」(『空爆と「復興」 アフガン最前線報告』)
しかし、だからといって彼は「平和国家」の将来に悲観的ではない。「9条は守るより実行すべきだ」という中村の声にこころを動かされる国民は、少しずつ増えてきているからだ。9条の実践は特別なことでも政治的なことでもなく、一人ひとりの国民が人間としての誇りを失わず、それぞれの持ち場でおこなうことであることに、中村のアフガンでの活動をつうじて気づかされるようになってきたからであろう。
彼は人間の命を預かる医師として、それを「医は仁」で実践してきた。
中村は不幸にして、2012年12月にジャララバード近郊で乗っていた車が武装集団に襲撃され、同乗の運転手ら5人のアフガン人とともに死亡したが、アフガン戦争は彼の見通していた通りに展開した。米軍の攻撃で政権の座を追われたイスラム主義勢力タリバンは、2021年に米軍の撤退表明とともに親米政権を倒し、20年ぶりに復権した。
緑の大地計画はタリバン新政権後も着実に継続され、新政権もこのプロジェクトをバックアップしている。現地のタリバン幹部は訪れた日本人ジャーナリストに、「中村先生は命を懸けてアフガニスタンのために尽くしてくれて、それで命を亡くされたことは日本国民に申し訳ない」と述べた。
中村が凶弾に斃れ日本に無言の帰国をするとき、彼の棺を親米反タリバン政権のガニ大統領が担いだ。
ヒマラヤ山脈をのぞむアフガンの大地から、「平和国家日本」の変貌を憂慮しながら、中村はこう記した。
「日本国憲法は世界に冠たるものである。それは昔ほど精彩を放ってはいないかも知れない。だが国民が真剣にこれを遵守しようとしたことがあったろうか。日本が人々から尊敬され、光明をもたらす東洋の国であることが私のひそかな理想でもあった。『平和こそわが国是』という誇りは私の支えでもあった。」(『医者、用水路を拓く』)
戦後80年が近づくにつれ、日本では「新しい戦前」への不安が高まると同時に、国際社会はおおきく変動しようとしている。米国のトランプ政権は自国の利益最優先のために、国際秩序を無視した力の政策を次々に打ち出している。ロシアと中国は強権的な大国志向をさらに強め、欧州では右翼勢力が台頭している。内外が歴史的岐路に立つ現在、では私たちは平和と民主主義の灯をどのように受け継いでいけばよいのだろうか。
「新しい戦前」に抗うために、「戦後」を大切にすべきだというだけでは必ずしも説得力をもたないであろうことは明らかである。そこにとどまっていては時代の逆流を押しとどめることは難しいであろう。
戦後日本が世界に誇れる無形の財産を引き継ぎ、「平和を維持しよう努めている国際社会において、われらは名誉ある地位を占めたいと思ふ」(日本国憲法前文)という理想に一歩でも近づくためには、「平和国家」の再検証が不可欠であろう。それは、「新しい戦後」の創出への挑戦である。
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