2025年12月10日17時13分掲載  無料記事
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入管

日本の難民制度の課題とは?名古屋難民支援室・羽田野真帆さんが語る現場の実情──アムネスティ日本 全国研修会レポート��

本稿は、アムネスティ・インターナショナル日本(AIJ)が11月29日に名古屋市内で開催した全国研修会「ウィシュマさんはなぜ十分な治療を受けられなかったか?─名古屋入管事件から考える─」の内容を2回に分けて伝える連載の第2回である。 
 
今回は、市内で難民支援に取り組むNPO法人「名古屋難民支援室」のコーディネーター・羽田野真帆さんが語った、日本の難民制度を取り巻く現場の課題や支援者として直面する実情を紹介する。(岩中健介) 
 
 
【支援の現場から見る、日本の難民制度の現実】 
 
「日本では難民として認定されるべき人が、適切に認定されていない」 
 
そう語るのは、NPO法人「名古屋難民支援室」で難民支援に携わる羽田野真帆さん。自身の原体験と支援の最前線で見続けてきた難民たちの現実を伝えた。 
 
日本が難民条約を批准してから40年以上が経つ。しかし、制度と現実の間には今もなお、大きな断絶がある。 
 
 
──「日本にも難民がいる」と知った日から── 
 
羽田野さんは1989年、岐阜県生まれ。小学生の頃から、身近に外国人の同級生がいる環境で育った。親の仕事でアメリカに渡り、パレスチナ出身の友人とスクールバスで通学した経験もある。日本に帰国後、大学生になってからボランティアサークルに参加。そこでミャンマーの民主化支援に関わる市民と出会い、初めて「日本にも難民がいる」という事実を知った。 
 
実際に日本で暮らす難民と出会い、「大学のある愛知で、自分にもできることがあるのではないか」と感じたという。これまで日本語教室の立ち上げ、大学祭での講演企画、難民支援者とのネットワークづくりなどの活動に携わってきた。 
 
また、難民申請の場では、自身の体験や背景となる出身国情報を整理し、帰国した場合に迫害を受けるおそれを主張・立証する必要がある。ただ、こうした法的・専門的な手続きを本人の力だけで適切に言葉として表すのは、極めて難しいという。 
 
そこで羽田野さんは、適切に自らの難民該当性を主張・立証するための伴走者としての役割も担うようになった。 
 
「支援者がいなければ、難民は自分の置かれている状況を条約上の難民の定義に当てはめて説明することすら難しい」(羽田野さん) 
 
大学院進学後、「名古屋難民支援室」の設立に関わり、現在も少数のスタッフで支援を続けている。 
 
 
──日本の難民認定制度が抱える矛盾── 
 
日本は1981年、いわゆる「ボートピープル」の受け入れをきっかけに難民条約に加入した。しかし、難民の審査は現在も出入国管理行政の枠内に置かれている。 
 
この点について、羽田野さんは 
 
「本来、入国管理は『怪しい人を入れない』仕組みであり、難民認定は『誤って迫害の危険がある人を送り返さない』仕組みだ。両者は本質的に正反対の論理に立つ。韓国ではすでに審査機関の分離が行われているが、日本では今なお“入管マインド”のまま、難民認定が行われている」と指摘する。 
 
その結果、本来守られるべき人が、制度によって排除され続けている現実があるという。 
 
◯ 16年間「難民になれなかった」ウガンダ人女性 
羽田野さんが出会ったウガンダ出身の女性は、逃れてから16年もの間、日本で難民として認められなかった。裁判でも地裁では敗訴し、高裁でようやく不認定が取り消された。彼女は一人で逃れ、母国に子どもたちを残してきた。 
 
出身国での活動による影響が子どもに及ばないよう、所在も連絡も一切絶ち続けた16年間。認定後に初めて連絡を取ると、子どもから返ってきたのは「本当にお母さんなの?」という言葉だった。 
 
さらに、認定されたからといって生活が安定するわけではない。無収入の期間が長く続いたため、子どもを日本に呼び寄せる条件すら満たせなかった。仮放免中とは立場が一変し、すぐに自力で生計を立てていかなければならない、それが日本の制度だった。 
 
◯ 17年待たされたロヒンギャ難民 
2007年に申請したロヒンギャの男性も、2024年まで認められなかった。ミャンマーにもバングラデシュにも国籍を認められない民族で、世界的には難民と認定されるケースが多いにもかかわらず、日本では否定され続けた。 
 
仮放免のまま17年。住民登録も国保もなく、就労もできない。裁判を経て、ようやく高裁で認定が確定した。 
 
 
──不安定な法的地位と生活── 
 
難民申請中の人の中には、在留資格がない人も少なくない。多くは収容されるか、仮放免・監理措置となり、「就労不可」「国民健康保険に加入できず医療費は10割(ときに10割を超える加算も)」などの状況に置かれる。生活費を稼ぐことはできず、食料支援や宗教施設の支援に頼りながら、路上生活に近い状態で生きる人もいるという。 
 
「難民は計画的に来日するわけではありません。日本語や文化に不慣れなまま、この社会で生活していかなければなりません」(羽田野さん) 
 
それにもかかわらず、制度は生存に必要な最低限の営みすら十分に保障していない。 
 
 
──「頼れない」ことによる孤独── 
 
難民は、母国政府から迫害されて逃れてくる。そのため大使館にも行けない。同郷の人に相談すれば、その人が政府関係者である可能性も否定できない。家族とすら連絡を絶っている人も多い。結果として、難民は周囲から孤立する。 
 
本来、こうした人々を救う手立てを講じるのは行政の役割であろうが、実態は支援者に頼りきりの状況となっている。 
 
コロナ禍、「支援室」ではコープと連携した食料支援を開始した。難民当事者も一緒に、ハラルかどうかを確認しながら仕分けし、発送する。 
「写真を撮らない」「出身国を尋ねない」「連絡先を交換しない」。彼らの安全を守るための細かなルールを作りながら、対等な市民としての関係を少しずつ育んできた。 
 
支援に参加した難民の一人は「ここに来ると、心が安らぎます」と語ったという。 
 
 
──難民申請は「人生のすべてを書く」作業── 
 
「支援室」には、2024年だけでもアフガニスタン、シリア、ウガンダなどから多くの相談が寄せられた。名古屋入管で難民認定された人のおよそ7割は、「支援室」が関わった人々だという。 
難民申請書の書き方、証拠の集め方、翻訳、定住支援、医療同行、食料支援──これらすべてが積み重なって、ようやく一人の生活が形作られる。 
 
羽田野さんが最後に強調したのが、「セルフヘルプキット」について。「セルフヘルプキット」とは、難民申請者が自分の置かれた状況を整理し、申請手続きに必要な情報などを自ら準備できるようにするためのツールで、言わば申請のための「手引き・ガイダンス」だ。 
 
審査の際にどのような質問をされるのか、申請書にどこまで詳しく身上を記載するのか、参考となる資料を提供して具体的なアドバスを行う。 
 
「申請においては難民自身が難民条約の定義を理解したうえで、自らの人生すべてを申請書に落とし込むことが重要だ。しかし、申請者の誤解や記載漏れによって、『出身国による令状発布がない=逮捕されていない』『正規のパスポートで出国した=難民ではない』『亡くなった家族を書かなかった=後出しの嘘』などと判断され、不認定となるケースが多い」(羽田野さん) 
 
本来であれば難民として保護されるべき人であっても、制度側の“日本的常識”によって否定されてしまう。何を、どこまで、どう書くのか。その支援やアドバイスがなければ、ほとんどの人が審査で弾かれてしまうのだという。 
 
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羽田野さんの講演を通して見えてきたのは、難民の困難が「不運」や「個人の問題」ではなく、制度そのものによって作られているという事実だ。 
 
16年、17年という歳月は、人の人生そのものである。それでも日本は、今日もなお「入管の論理」で難民を選別し続けている。その現実をどこまで自らの問題として引き受けられるのか。羽田野さんの言葉は、私たちにそうした問いを投げかけている。 


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