2013年12月13日17時31分掲載  無料記事
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国際

ワシントンポストの論考 イスラエルとイランの核

  ワシントンポストに'Why is the U.S.OK with Israel having nukes but not Iran?'(なぜホワイトハウスはイスラエルの核兵器を容認し、イランはダメなのか?)と題する論考が掲載された。寄稿したのはMax Fisherという人で、「アトランティック誌」の記者・編集者だった人物だ。現在はワシントンポストの外交分野のブロガーだとされる。そしてこの異例に長い論考は日本で発行されている英字新聞JapanTimesに転載された。 
 
  この論考はイスラエル建国の1948年までさかのぼり、イスラエルが核兵器を求めた歴史と、米国が何とかイスラエルに核兵器を持たせまいとした歴史から説き起こしている。歴代の米大統領は中東の国が核兵器を持つのをよしとしなかったとされる。しかし、イスラエルが核兵器を保有した動機はアラブ諸国から攻められた場合のハチの一刺しのような、抑止のための最後の兵器として。その原点は1948年のアラブーイスラエル戦争の時に首相ベン・グリオンが核兵器の必要性を痛感したからだとされる。 
 
  それはともかく、イスラエルが執拗にイランへの警戒を続ける理由をこう説明している。イスラエルは米国の反対を押し切って、フランスから技術支援を受け、極秘に核開発を続けた。米国の情報機関は1960年にイスラエルが核関連施設を保有しているのを察知した。その時、イスラエルの首脳陣は「平和的利用のため」と答えて、米国の追及をかわしたと言う。だが、イスラエルはその後もフランスの技術支援を受けて、核兵器開発を続けた。 
 
  ちなみにその頃、フランス自身が核兵器開発をする決定的な事件があった。1956年に起きたスエズ危機である。英仏で軍事介入してスエズ運河を国有化したエジプトのナセル大統領を追い詰めようとしたが、米国に介入されて失敗に終わった。以後、フランスは米国の核の傘に入るのをよしとせず、独自で核開発を行った。フランスは1960年、サハラ砂漠で初の原爆実験に成功した。スエズ危機の時、フランスの味方に付いていたイスラエルはフランスと関係が良好になっており、核技術もフランスからもたらされた。 
 
  1968年、イスラエルは最初の核兵器を極秘に完成させた。Max Fisher氏はこう伝えている。 
 
  「だが、もっと重要なことは1969年9月にホワイトハウスでニクソン大統領とイスラエル首相のゴルダ・メイヤーが会合を持ったことだ。そこで何が話されたかは秘密にされている。しかし、ニクソン政権の残したこと細かな記録によると、キッシンジャー国務長官がニクソン大統領に対して、この会見を巡ってのちにこう話しているのだ。 
 
  <ゴルダ・メイヤーとの私的会見において、大統領はこう話されました。米国にとって重要なことは貴国が核実験や核兵器の保有を見えないように(極秘に)行うことです>   」 
 
  1969年のこのニクソン大統領とメイヤーの私的会見が、イスラエルが核兵器を保有していると明言しない曖昧な姿勢を取ることを決定づけたのだと言う。それと交換に、米国はイスラエルの核兵器保有を黙認することになったというのだ。 
 
  そして興味深い点はイスラエルがイランの核兵器開発疑惑をどこまでも追求する姿勢はまさに、イスラエル自身が「平和的利用」と言いながら核兵器を極秘開発した歴史を持っており、その危険性をどの国よりも身近に感じているからだと言う。 
 
  ちなみにイスラエルに核兵器の作り方を伝えたフランスから今春、オランド大統領が来日し、原子力技術に関して技術協力します、と安倍首相に約束している。 
 
 
■Why is the U.S. OK with Israel having nukes but not Iran? 
http://www.japantimes.co.jp/opinion/2013/12/06/commentary/why-is-the-u-s-ok-with-israel-having-nukes-but-not-iran/#.UqrIQfRdWSo 
 
■山田文比古著「フランスの外交力〜自主独立の伝統と戦略〜」(集英社新書) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201307271309086 
 「フランスの核開発計画」 
 
  ・・・・興味深いのは1945年10月の時点ですでに民生利用の研究開発を目標としたフランス原子力庁が生まれていることだ。しかし、この段階ではフランスは米国の核の傘に入ることをよしとしていた、というのである。核兵器の保有は技術的にも財政的にもフランスの能力を超えているものだと考えられていたそうだ。ところがその思考に変化が起きたのは1950年代だという。 
 
  軍の技術将校や技術系行政官たちが密かに核開発に向けて動き始めたのだ。それは当初、「特別兵器対策班」と呼ばれた。班長に任命されたアイユレ大佐(後に参謀総長)は核兵器の費用対効果を計算し、一刻も早く核兵器を保有すべし、と提言したのである。こうした流れを経て、1954年のピエール・マンデス=フランス内閣で核爆発委員会の設置が決定された。 
 
  本書によれば1950年代にフランスが核開発を進める決めてとなった事件があった。それが1956年7月のスエズ危機だった。エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言した時、英国とフランスがともに軍事行動を起こしたが、米国の圧力で失敗に終わる。この時、フランスは米国に従属する道を廃して対米依存からの脱却を図っていくが、それを可能にしたのが核兵器開発だった。フランスが最初に核実験を行ったのがサハラ砂漠である。それは1960年2月のことだった。その後、欧州連合の成立とともにフランスの核戦略はさらなる構想に向けて動いているという。・・・ 


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