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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2011年08月08日15時50分掲載
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反戦・平和
日本の制空権は米軍に 八王子大空襲と419列車銃撃空襲 文:平田伊都子 写真:川名生十
「空襲がきたら布団を被って逃げるんだよ」というのが、高橋いそさんの口癖だった。 「布団が私たち親子の命の恩人なんだ」とこんな切り出しで、いそさんは1945年八王子大空襲の話をよく聞かせてくれた。 「8月1日の午後9時頃に空襲警報が鳴ったんだけど、、敵機がなかなか来ないんで私も3人の娘たちもウトウトし始めた。 長女5才、次女3才、3女は9ヶ月だった。真夜中過ぎ、突然、敵機の轟音が家を揺るがしバリバリ凄い破裂音がし、窓の外が真っ赤になった。私は3女を背中におんぶし、次女と長女の手を引き布団を被って家から飛び出した。出征していた亭主が何かあったら鉄筋の市役所に逃げろと言ってたのを思い出し、八王子市役所に行った。けど、屋外にまで人が溢れていて入れない。そのまま裏のじゃがいも畑に飛び込み、親子4人は布団の下で<なんまいだ~>と祈っていたんだ、、 頭の上で旋回していた敵機のうなり声が遠のいたので、布団の端から表を覗いた。ゾッとしたね!畑に不発爆弾がぶすぶす突きささっているんだよ」
* 八王子大空襲
1945年8月1日、米軍はイベント案内のように、空爆予告のチラシを空中散布した。 そのチラシは八王子の田町で糸屋を商う佐々木一家の庭にも舞い落ちてきた 8月1日午後9時55分、空襲警報が八王子を包んだ。 が、午後10時過ぎに、敵機は川崎方面を爆撃しているという噂が飛び、佐々木さん一家は、又、蚊帳の中に潜り込んだ。 ウトウトする間もなく、突然、敵機の轟音が襲来してきた。 佐々木さん一家7人は迫り来る火の手に追われて、布団をかぶり淺川の土手に身を伏せた。 「怖かったね!僕たちのほうに爆撃機が向かって来そうだったから、、」 佐々木さん一家が戻ると家は燃えていた。 「両親、姉3人、弟一人、小学5年生の僕と、一家7人は命拾いしたけど、敗戦後の生活は悲惨だった。先生は、進駐軍兵の顔を見ちゃだめってんだけど、僕たちは米兵の目をジッと見る。すると奴らはチョコレートとかクッキーなんかをよこす。猫と同じだ。腹を空かしたら餌をくれる人から視線を逸らせないものさ」と、佐々木蔵之助さんは回想する。 8月1日午後8時25分、米軍爆撃機169機がテニアン島を離陸、伊豆半島に沿って北上し大瀬崎上空でやや右旋回し、津久井から京王線山田駅を経て八王子上空に侵入した。 8月2日0時48分B29爆撃機が爆弾投下開始、約2時間に渡って1,600トンの焼夷弾を八王子にぶち込んだ。 死者約450人、負傷者約2,000人、焼失家屋約14,000軒、被災者約77,000人(この数字は当時の八王子総人口)、市役所を始め公共施設は殆ど崩壊した。 しかし、なぜか江戸時代にできた田町遊郭とその付属病院だけが震災を免れた。 「敗戦後、真っ先に営業再開したのが米兵のための田町遊郭だった。米兵が素人さんを襲うというんで、元日本軍人がお女郎さんをかき集めたそうだ。八王子北口から田町遊郭まで米兵が行列してた。1958年の売春予防法まで大賑わいだったよ。僕んちはその裏にあったんだ、、僕?行かなかったよ」
* 中央本線419列車銃撃空爆
現在、佐々木蔵之助さんは八王子郷土資料館で、八王子史の語り部をやっている。 佐々木さんに教えられて、筆者は八王子第二の戦争悲劇<中央本線419列車>の運行を辿った。 1945年8月5日11時20分、新宿発長野行419列車はED167電気機関車に8両の客車を引っ張らせて、八王子駅を出発した。 8月2日の八王子大空襲で三日間不通だったため、疎開先に帰る人や疎開先に食料を届ける人や大荷物でどの車両も膨れ上がっていた。 筆者も11時24分発の中央本線下りに乗り、11時31分に淺川駅(現高尾駅)に着いた。 66年前の同じ時刻に419列車も淺川駅に着いていたが、P51米軍小型戦闘機の419列車追跡は既に始まっていた。 11時30分、空襲警報が浅川駅構内に響き渡り、419列車の竹田機関士は駅構内での被爆を恐れて、4分ほど走った所にある湯の花トンネルに逃げ込もうと、列車を出発させた。 中央本線419列車は湯の花トンネルの入り口に近づいた。 「私はP51が裏高尾の狭い谷間を列車に平行して飛んでいるのを車窓から見た。次の瞬間、P51は右旋回して一回目の銃撃をし、列車は止まってしまった。<機関車がやられたらしい>と声が上がったとたんに、P51が窓一杯にこっちに向かって突進してきた!操縦している米兵の顔まではっきり見える」と、隆旗昭次さんが証言している。 P51米小型戦闘機は2~3機で進行方向に向かって左から列車に向け、23cmロケット弾と7.7ミリ機関銃で419列車を攻撃してきた。 竹田機関士はKD167電気機関車を湯の花トンネルに突っ込んだが、機関部から煙が出たため、機関室の4人は機関車を止め外に逃げた。 その結果、3両目から後ろの、計6両の客車が敵機に裸身をさらすことになる。 P51は思う存分機関銃を撃ちまくり、死者65人、負傷者133人、計198人の死傷者という大虐殺をやってのけた。 死傷者は900人以上だったという説もある。 自力走行不能になった419列車を牽引した相模原管区の長谷川蒸気機関車機関士は、現場の惨状に絶句した。 客車の屋根は飛び座席はひっくり返り、車床は内臓や脳みそや血の塊や肉片や指や、、人間の残骸で足を滑らせ、なんども転んだという。 日本史上、最大の列車銃撃惨事だった。
* カーチス ルメイ殲滅作戦米軍少将
1945年8月1日まで、八王子近辺には大空襲がなかった。 米軍は湯の花トンネル近くにあった中島飛行機武蔵製作所の浅川地下工場を察知していなかったので、爆撃に価する軍事戦略地区と見なしていなかったからだ。 しかし、1945年1月20日にカーチス.ルメイ少将がグアム島第214爆撃集団司令官に着任すると、軍事地域だとか民間地域だとか、そんな区分けはどうでもよくなってきた。 よりたくさんの日本人を殺しよりたくさんの建物を破壊する<日本焦土化作戦>をルメイは開始した。 ルメイの戦闘飛行士に対する命令は、①に思いっきり低空で攻撃、②に焼夷弾は大量に燃料は最小に、③に攻撃は夜間に、しかも無差別にやれとある。 更にルメイは、<木と紙の家>を効率よく燃やすため、日本向け焼夷弾を開発し続けた。 しかも、戦略調査団を設け、改造焼夷弾の効果を調べさせた。 <民間人と民間施設への攻撃は国際法上、人道上許されない>などという論理はルメイに通用しない。 「民間人は兵士に変身し、民家は武器庫や武器工場になる」とルメイは反論し、皆殺し皆潰しを続けた。 現在のNATOによる殲滅作戦にそっくりだ。 八王子大空襲の正当な理由など、ルメイには必要なかった。 ルメイが8月1日から2日にかけて八王子を大爆撃したのは、陸軍航空隊第38回記念日を祝し自分自身の昇進のためだった。 死傷者の数を増やすため、疎開者などで人口が急増した八王子を標的にした。
その後のルメイはますます凶暴に好戦的になっていく。 1962年のキューバ危機の時、キューバ空爆をケネディー大統領にしつこく進言した。 当時の旧ソ連がキューバに数十基の核ミサイルを設置していることを知ったケネディーがすんでのところで攻撃を思い止まり、核戦争にいたらなかった。 ベトナム戦争では「ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語し、北爆を激化させ自ら手がけたナパーム弾でベトナム人民を残酷に殺しまくった。 その日本人民の敵でもあるルメイに、1964年日本は勲一等旭日大綬章を与えたのである。 当時の源田実参議院議員と小泉純也防衛庁長官(小泉純一郎元首相の父)が推薦人だった。
* 焼夷弾
焼夷弾とは、焼くことを目的とした砲弾や爆弾のことをいう。 日本本土を焼いた焼夷弾は、油脂(ナパーム)、テルミット、マグネシウム、黄燐、白燐などの混ぜ物でできていた。 米軍は食材を料理するように、可燃性素材を組み合わせては、日本の諸都市でその効能実験を繰り返した。 E46収束焼夷弾は木造日本家屋用に米軍が特別あつらえたクラスター爆弾で、38発のM69焼夷弾を内臓している。 M69焼夷弾は、直径4cm、全長50cm、重さ2.4kg。 それを束ねた親爆弾E46収束焼夷弾は投下後、上空約700mで分離し、38発の子爆弾となって着弾する。1945年3月10日、381,300発のM69焼夷弾が東京を焼き尽くした。
1945年8月2日0時45分、米軍爆撃機はM46照明弾を投下し、八王子を照らし出した。 0時48分、主力部隊のB29爆撃機がM17収束焼夷弾の投下を開始した。 親爆弾M17収束焼夷弾は目標上空1,500mで時限信管により開き、110発の子爆弾M50焼夷弾をばらまく。 一機のB29は約4,000発のM50焼夷弾を投下した。 八王子を襲った子爆弾M50焼夷弾は672,773個、市民一人が10個の焼夷弾を浴びたことになる。 2時29分、大空爆は終了、一機のB29が約4,000発のM50焼夷弾を投下して、169機は八王子の空から消えた。 344号一機のみが原因不明で千葉県袖ヶ浦市小櫃橋付近に落下し、落下傘で脱出した12人の内11人は捕虜となったが、敗戦で釈放、帰米した。 抵抗した一人は殺された。 制空権を奪った米軍は、勝手気ままに焼夷弾威力の実験をした。
* 日本の制空権は今も米軍の手に?
筆者に八王子大空襲を語ってくれた高橋いそさんは八王子の北を流れる淺川に沿ったお寺で眠っている。 大空襲を共に生き貫いた娘3人に「みんな仲良うするんよ」と言い残して目をつぶったそうだ。 いそさん、お言葉を返すようですが、、こっちが仲良くしたいと思っていても、あっちが喧嘩を売ってきたらどうするんですか? 「あんたが仕返しをしなくても、何時か誰かが罰を与えてくれるんだから、、放っとくのが一番」と、いそさんは何かにつけ牙をむく筆者を諌めてくれたのだが、、
筆者は津久井の山に住んでいる。 朝昼晩、おかまいなしに米軍のヘリコプターや輸送機が轟音を響かせて頭上を通過していく。 それもわざと低空で、、 津久井の山は八王子大空襲の米軍機飛行航路で、現在も米軍横田飛行場、米軍厚木海軍飛行場、米軍横須賀海軍基地、座間キャンプに囲まれている。 敗戦後65年経った今も、日本の制空権は米軍に握られているのだということを、毎日毎晩思い知らされている、、 津久井から約10k先には核兵器も含む米軍相模原武器弾薬庫がある。 私たち日本庶民は米軍原子爆弾で放射能汚染され、今また、福島原発事故で放射能汚染されている。 米軍は原子爆弾効果実験を広島長崎でやった。 想定外にも福島原発事故実験場を手にした米軍は、放射能汚染されていく日本列島を注意深く観察している。
いそさん、やりたい放題の戦争犯罪人米軍に対して、一体、何時、誰が、罰を与えてくれるのでしょうか??
文:平田伊都子 ジャーナリスト 写真:川名生十 カメラマン 資料提供:八王子郷土資料館
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八王子資料館の焼夷弾残骸を挟んで、佐々木蔵之助さんと筆者
1945年8月2日の米軍無差別消滅作戦でグランドゼロにされた八王子
今も中央本線が走る米軍419列車銃撃空爆現場の湯の花トンネル
1945年8月1日に米軍がまいた空爆予告ビラ。周りに標的都市を明記
いそさんと我等が愛犬ちょび。「天国の住み心地はどうですか?」





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