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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2020年03月30日12時31分掲載
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ミシェル・フーコー+渡辺守章著「哲学の舞台」(朝日出版社)
ミシェル・フーコーの21世紀における読み直しがテーマになっています。なぜそうなのか、誰がそう言っているのか、となると、2年前にそのような題のシンポジウムに出かけたことがあったことが私にそう思わしめているだけなのですが。しかし、21世紀の始まりの1つがニューヨークの同時多発テロ事件であり、文明間の対立とか復讐の連鎖と言われるものであったり、あるいは資本主義社会の転換期ともなりえる格差社会だったりすることを考えると、今日、フランスの思想家ミシェル・フーコーの読み直しをすることはまさに重要ではないかと思います。とくに文明間の対立とも資本主義社会とも関りがあるのが性をめぐる言説であり、まさにフーコーが取り組んだテーマ群の中の1つの柱です。フーコーは社会の主流になる言論と社会から排除される人々を歴史的に分析しましたが、その主流とは17世紀以降に確立され、強まっていく近代資本主義と植民地主義でした。今日のマスメディアもその連続と見て過言ではありません。
そのフーコーをざっと見るためには個々の著作に入る前にミシェル・フーコーと渡辺守章氏による「哲学の舞台」という本を読んでおくのが最も良い導入ではないでしょうか。本書はタイトルに「舞台」という言葉があるように、対談相手の渡辺守章氏は哲学の研究者ではなく、演劇の研究者であります。哲学が専門ではなく、表象文化論という周辺の領域であったことが逆に伸び伸びした視点や自由な問題意識として本書に反映されているように思います。
本書には二人の対談、フーコーの来日公演の書き起こし、渡辺氏と石田英敬氏の対談などが掲載されています。いずれも興味深いものですが、日本ではフーコー=構造主義の四天王の一人、という紹介のされ方が多く、その導入が誤解を招き、フーコーの理解をむしろはるかに難しくし、あるいは妨げてきた歴史があることがわかります。フーコーは渡辺氏に明らかに「私は構造主義とは何の関係もないし、それに私は歴史学者なのです」と述べています。ミシェル・フーコー=歴史学者というのは、まさにそう理解した方がフーコーの著作物もシンプルに、よりよく理解できるのではないかと思います。
フーコー「私は歴史研究のいささか特権的な対象として、ある種の文化空間の組織・調整によって成立するあれらの<事件>というものを選ぶ。少なくともそれが私の最初の分析の目的だった」
ここで、二人はフェルナン・ブローデルの「地中海」などの歴史研究を語り、ブローデルの分析がフーコーに大きな影響を与えたことを語っています。
フーコー「第一には、ヨーロッパの空間だけが本来的な空間ではなく、一連の多形的な空間があるという自覚。第二には、唯一つの歴史があるのではなく、幾つもの歴史、幾つもの持続、幾つもの時間が存在するのであり、それらが複雑に絡み合い、交叉する、そしてまさにこの交叉から<事件>が形成されるという自覚です。<事件>とは、<時間の線分>ではなく、2つの持続、2つの速度、2つの歴史の線の間の交叉に他ならないのです」
ここで述べられている空間と時間に関する対談は最も興味深いところでしょう。構造主義がフーコーの研究にとってある種の媒介になったのは事実でしょうが、だからと言ってフーコーが構造主義の学者とは言えず、まずもって歴史学者であり、とくに学生時代の師匠が科学史家のカンギレムだった、と語っているところは重要に思えました。
「私は、科学史の専門家カンギレムの弟子であったので、私の問題は、一科学の誕生と発展と組織化を、その内的構造化からではなく、その支えとなった外在的・歴史的要素から出発して研究する、そういう科学史は不可能だろうかという問いでした」
さらに、こうも述べています。
「私の歴史分析の対象は、言うならば、ヨーロッパの空間の内部での帝国主義=植民地主義なのです。どのようにして、ある個人あるいは個人の範疇が、彼らの支配を確立し、どのようにして、近代西洋社会を機能させるに至ったか、という問題です」
今まで日本でフーコーにまつわる様々な著作物に触れましたが、本書ぐらいすっきりとフーコーの目指した研究の中身を語ったものはなかったように思われます。「言葉と物」であれ、「知の考古学」であれ、そうした鬱蒼とした密林的な書物に入る前に、本書を読んでおくと迷いが少ない、あるいは迷ったとしても方向性はわかっているので確かな歩みができるのではないでしょうか。
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