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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2007年08月17日17時41分掲載
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戦争を知らない世代へ
蚌埠特務機関長原田大佐の涙 中谷孝(元日本軍特務機関員)
わたしが中支派遣軍特務機関員に採用され蚌埠(バンプー)特務機関に着任したのは、昭和14年(1939年)6月であった。前年10月、臨時首都漢口を占領し、さらに揚子江上流へ進撃した日本軍は宣昌を占領した時点で停まった。補給が困難になったのである。地図上に示された占領地も実質的には都市を除けば駐屯地を結ぶ線に過ぎず、その線の確保に専念しなければならなくなっていた。蚌埠は南京と北京を結ぶ大動脈津浦鉄道の要衝にあり、黄河と揚子江の中間に位置する大河、淮河の港としても重要な商業都市であった。奥地の敵も上海方面で生産する砂糖、マッチ、雑貨等を入手するのに必要な補給基地として必要であり、襲撃の対象にしなかった。したがって街は賑やかで、夜は弦歌さんざめく戦争を忘れ去った様相を呈していた。
その街に突如銃声が響いた。9月下旬の深夜、特務機関庁舎に隣接する維新政府安徽省長倪道烺の公舎が5人のゲリラに襲われ、警備に当たっていた日本軍補助憲兵一名が射殺され、一名が重傷を負った。重傷の兵が応射しゲリラ1名を斃したのと、隣接する特務機関宿舎で酒を飲んでいた機関員が銃声を聞き咄嗟に時報用の鐘を強打したためゲリラは逃走し、省長が命拾いする事件が起きた。
それから間もなく、地域警備の独立混成旅団が長期掃討作戦に出勤することになり、旅団長尾崎少将に代わり臨時警備司令官に特務機関長原田久男大佐が任命された。尾崎旅団出勤から数日後、上海の第十三軍司令部から参謀長が戦線巡視に到着し、その夜、原田大佐主宰の宴会が蚌埠唯一の料亭「朝日」で開かれていた。土曜日とあって、その夜大部分の機関員は街に飲みに出て、本庁舎内の独身宿舎には、わたしを含む数名と少年給仕以外残っていなかった。
夜8時を回った頃、宿舎にいたわたしを給仕が呼びに来た。「当直の力久さんが呼んでいます。大至急来てください」という。飛んでいくと、緊張した面持ちの力久八郎さんが「大変なことになった。警備司令部から連絡が入り、懐遠の警備隊が囮情報に引っかかって出勤したが包囲され、連絡が取れなくなり救援が必要になった。当直運転手に連絡がつかない。君、大至急機関長を呼んで来てくれ」と言う。私は機関員で唯一人運転免許を持ち、旧政府が所有していたポンコツ同様の26年(大正15年)型オールズモビルを運転し、雑用をこなしていたのである。私は直ちにボロ車で「朝日」に向かった。
急を聞いた原田大佐の顔色が変わった。女将に「あとをよろしく頼む」と言い残すと、そのまま機関本部に向かった。私は待機を命ぜられ、宿舎で待っていると、小1時間して再び給仕が呼びに来た。
機関長直接の命令で、3ヶ月前帰順工作に当たった山辺俊男を乗せて帰順部隊王占林司令官のところに行くことになった。車中、山辺が事情を説明してくれた。「蚌埠には司令部留守要員、憲兵分隊、陸軍病院野戦郵便局、停車場司令部、特務機関しか残留していない。救援を出すことは不可能だ。窮余の策として王占林部隊に出動を頼むことになった。憲兵隊長は反対したが、原田大佐が決断した。説得の責任は大きい。王占林が反乱したら大変なことになるからな」。
帰順部隊司令部で王占林と会談した山辺は20分前後で慌しく出てきた。「決まった。輸送だ。ご苦労だが、君に頼む。がんばってくれ」。懐遠迄は市内の埠頭“新船塘”から小蒸気船で十キロ遡ることになる。船の蒸気が上がるまで一時間かかるという。その間にできるだけ多数の兵士を兵舎から運ぶことになった。運転手はいまだ見つからない。トラックはニッサンの新車だが、セルモーターの調子が悪い。手回しでやっと始動して8キロ離れた王部隊宿営地と新船塘の間をピストン輸送を続け、二番船の出港を見送って、近くの機関長官舎に向かったときには、東の空が白んでいた。
報告のため官舎の二階に上がると、狭い電話室の隅で原田大佐は宴会の着流し姿に将校マントを羽織って小椅子に座っていた。「王占林部隊の輸送終了しました」と報告したとたん、電話のベルが鳴った。「司令部電報班であります。懐遠より連絡が入りました。中隊本部より連絡があり、中隊長は無事、損害は軽微とのことであります」 復唱する私の声に原田大佐は涙声になって繰り返した。「ご苦労。ご苦労だった。早く帰って休め」と、その眼から涙が床に落ちた。
この夜、敵は王占林部隊を日本軍と誤認し、包囲を解いて退いたことが判明した。 19歳の新米特務機関員が、直接機関長に業績を認められた破格の出来事であった。
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