・読者登録
・団体購読のご案内
・「編集委員会会員」を募集
橋本勝21世紀風刺絵日記
記事スタイル
・コラム
・みる・よむ・きく
・インタビュー
・解説
・こぼれ話
特集
・国際
・アジア
・核・原子力
・農と食
・入管
・反戦・平和
・教育
・文化
・中国
・市民活動
・米国
・欧州
・みる・よむ・きく
・検証・メディア
・外国人労働者
・司法
・国際
・イスラエル/パレスチナ
・市民活動告知板
・人権/反差別/司法
提携・契約メディア
・AIニュース
・司法
・マニラ新聞
・TUP速報
・じゃかるた新聞
・Agence Global
・Japan Focus
・Foreign Policy In Focus
・星日報
Time Line
・2024年12月02日
・2024年11月30日
・2024年11月29日
・2024年11月28日
・2024年11月27日
・2024年11月26日
・2024年11月22日
・2024年11月21日
・2024年11月20日
・2024年11月18日
|
|
2011年03月29日11時15分掲載
無料記事
印刷用
核・原子力
原子力発電の安全神話と必要性の再検討を 木村浩東京大学准教授に問う 金子章予
東京大学の准教授の木村浩氏(原子力社会工学)によれば、「原発を推進する国、地方自治体、電力会社、そして国民の多くでさえ「原発は安全」と思っていた節がある」という(「読売新聞」3月25日朝刊11面「経済復興を聞く」)。確かに原子力学会が昨年1月に実施した世論調査では国内の4割以上の人が原発利用に肯定的であり、やめるべきだとの意見は1割前後だったということから、そのようにも推論できる。しかし、本当にそうであろうか。
原発は安全だということを我々に示してくれる十分な情報など実際あるのだろうか。確かに数値上、想定内の地震等には安全対策はしてある、とは言われている。だがこれは、原発は安全であるということの証拠にはならない。あくまで数値上の話であり、誰も証明することができない。 北田正弘氏(材料工学)によると、「材料には、その機能とともに経済的側面があり、経済的制約から、通常、必要最低限の量を使用する。したがって、予測できない地震に対して、いかなる設備も大丈夫などということはあり得ない」(「専門家ってなんだろう」『蟻塔』1995年5.6月号、p.10。北田氏が阪神大震災直後に書いたもの。)のである。 すなわち、原発は、いくら安全だと口やデータで言われても、本当は危険なのである。少なくとも危険性を有しており、安心することなどできない。しかも、その危険性は我々の想像を絶するほどのものなのである。想像を絶するほどのために、我々は思考停止状態に陥らされる。そして、事故が起こった後に必ず聞く一言は「想定外だった」。
一般国民にとっては、原発は安全ではないと確信するには情報が少なすぎ、原発の安全性については多くの人々が思考停止状態だった、というのが本当の所に近かったのではないだろうか。福島第一の事故で「原発は危険」という事実が、現実のものとして目の前に現れた。これにより、ドイツは1980年以前に建設された原子炉7基の運転を停止し、タイでは近い将来導入予定であった原発を取り止め、米国議会においても昨年およそ30年ぶりに新規建設(30基)が決定されたばかりだったが原発の新規建設の中止を求める声が上がっているという。 我々は実際に危険に晒されなければ、危険だと認識できないほど愚かなのであろうか。
さらに木村氏は、原発の問題は、「日本のエネルギー安全保障」という日本におけるエネルギーの安定的確保の観点からその位置付けを問い、それを明確にした後に安全対策や地元への財政支援、住民の防災体制などの具体策を決めるべきだ、という。しかし、本当にそうであろうか。これは、言葉では原発を問題視しながら、実は原発の存在を前提とした議論ではないだろうか。エネルギー安全保障ももちろん重要ではある。が、その前に、今、我々は人間の安全保障、日本や日本人の進むべき道といった大前提に戻る必要があるのではないだろうか。エネルギー安全保障は、人間の安全保障というさらに大きな枠組みの中で考えるべきであろう。
最後に木村浩氏は、エネルギー省を設立し、原発について国民的な合意を得る必要があると結論づける。しかし、原発の放射能の影響は未来永劫に残るのであり、現在生きている国民だけの問題でないことを、現在の国民が決める権利が本当にあるのであろうか。再び事故がないとは言い切れないのである。事故が起これば、日本だけの問題ではなく、諸外国に多大な被害を与えるのである。一つの国だけで、自国のエネルギーの安全保障の観点から、他国と他国の人々に甚大な影響を与えるような設備を建設し運転することを決定する権利が本当にあるのであろうか。
先に、エネルギー安全保障は、人間の安全保障の枠組みの中で考えるべきである、と書いた。その人間の安全保障は、日本という枠組みを超えて、未来の人類という縦の広がりの中と、全人類という横の広がりで、考えるべきであろう。世界の日本へのまなざしは、間もなく、同情から怒りに変わるであろう。環太平洋火山帯の真上になぜこのような危険な設備を建設するのか、と。未来、他国、地球、人類、宇宙、生命に対する配慮があまりになさすぎるのではないだろうか。
原子力発電所に関しては、日本では現在54基が運転中であり、福島第一事故を受けて工事が中断となっている青森県の2基を含めた14基の新規増設が計画されている(うち、山口県に計画されていた1基は本日中止となった。)。中国(建設中18基、計画中は100基を超えるとの情報も。)、インド(建設中5基、計画中約20基)、ベトナム(1基が2020年までに運転開始予定。計画中10基)、ヨルダン(1基が2017年に運転開始予定、計画中2基)、UAE(1基が2017年に運転開始予定、計画中14基)などでは、経済成長に伴う電力需要の急増に対応する為、原発の大規模導入が計画されている。
これらの国では、安全管理や原発自体に対する十分な認識と知識がないため、日本以上に杜撰な管理が報告されている。このような事態においては、一つの国を超え、市民による国際的な原発反対運動が必要であろう。国連なり、国際的な責任ある機関が、未来の人類と地球に住むすべての生き物の観点から全面的な原発計画の中止を決定することを要求したい。
もちろん、地球温暖化の問題や経済活動水準との兼ね合いもある。木村氏は言う。地球温暖化を防ぐためには、そして、現在の経済活動水準を保つためには、原子力発電所が必要である、と。しかし、本当にそうであろうか。確かに、現実問題として、エネルギー資源の9割を輸入に頼り、エネルギー量の3分の1を原子力に頼っている日本としては、即座に原子力発電所のすべてを停止することは難しいであろう。しかし、ベルギーやスウェーデンのように計画的に段階的撤退はできるであろう。(大変残念なことに、ベルギーとスウェーデンは、段階的撤退を近年中止した。しかし、復活するであろう。)火力発電所は温暖化の問題から現在の科学水準では難しいというが、だからといって驚異的な危険性を有する原子力発電所を有してよいことには絶対にならない。原子力発電所は人間の命への蹂躙という問題から、現在の科学水準では運転が決して許されないのではないだろうか。
我々の生き方を再検討する必要があろう。我々は本当に要るものだけに囲まれているだろうか。無駄ばかりということはないだろうか。エネルギー消費量を落とすことは実際にはできるのではないだろうか。あるいは、代替エネルギーは本当にないのであろうか。原子力発電所は本当に必要なのだろうか。 原子力発電所を有する地域の人々を救うだけでなく、日本を救うだけでなく、世界を救い、未来の子どもたちを救うために、一人ひとりが考え、行動に移してほしい。
(筆者は、西武文理大準教授、市民活動家)
|
転載について
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。
|
|
|